第3話 謀略の道は南へ

白みだす空の下、レイエスタールの南西門は砂塵に霞んでいた。

星々が薄れ、朝焼けの赤が砂漠の地平線を染めはじめる。

市場の喧騒はまだ静まり、独特な香辛料の混ざり合った匂いが漂うのみだ。

遠くでラクダの嘶きが響き、砂嵐の予兆が空気を重くする。

出門管理所では、ソキエタスの役人が幾つもの書類をあさり、松明の光が石壁を照らしている。

城門を警備するサンドガードもこの時間は人数が少ない。

門の脇には交易の神の祠が無造作に立ち、商人が銀貨を捧げ、旅の安全を祈っている。

「鳥のように我は帰らん。砂へ返るときはこの血を捧ぐ」

この地に育った人たちの中に強く根付く土着信仰である。

古くから人々は熱砂と寒星のこの世界を畏敬の対象としてきた。

人は死ぬと砂の一粒になって世界を飛び回り、長い年月を経てまた砂から人が作られると考えられている。



レイエスタール。バラカンダ大陸の交易の心臓は、ソキエタス・アレナエの支配と無数の謀略が交錯する混沌の中で静かに息づいている。

血脈の流れはまさしく欲望のうねりだ。

バルクは三台のマグヌス荷車を点検し、香辛料の袋を覆う布を締める。

絹のローブは埃で汚れ、白いターバンが汗で濡れる。

皮の腰袋が重く揺れ、ソキエタス加入の夢が胸を焦がす。

護衛の三人が荷車を囲み、鋭い目でサンドガードを睨む。

バルクは昨夜の記憶を呼び起こしていた。

薄暗い酒場でソリアに言われた一言。

「バルク、あんた随分と無茶な仕事を受けたもんだね」

ソリアの碧い瞳は笑っていたが、どこか探るような光があった。

荷車から漂う甘い香料の匂いに胸がざわつく。

腰の革袋から交易証書を取り出す。

紙には、香辛料100袋、布生地50巻、ザルカドの商人ギルド宛と記され、ソキエタスの双頭のラクダと星の紋章が刻まれた蝋印が押されている。

「次、前へ」役人はぶっきらぼうに言い放った。

灰色のローブに身を包み、鋭い目でバルクを見据える。

「香辛料商バルク。シングラだな。証書を見せろ。行程と目的地は?」

バルクは交易証書を差し出し、銀貨五枚をそっと添える。

「香辛料と布生地、以上だ。南の交易路を抜けてザルカドへ向かう」

役人は事もなげに銀貨を懐にしまい、証書を手に取り、松明の光で蝋印を吟味する。

書面に何かを記して言った。

「ザルカドか。難儀だな。」

その声に、奇妙な響きがあった。バルクは冷静を装い、応じる。

「これも生きるためさ。あんただってそうだろう?」

役人は目を細めながら証書に通行証を添えて返す。

「神のご加護を」

「ああ、神のご加護を」

サンドガードのひとりが近づき、神妙な面持ちで言う。

「荷物の検査だ」



バルクはサンドガードに気づかれないよう深く呼吸をする。

証書の記載にない荷物—暗号書簡と麻薬混入の香料—が発覚すれば、追放か死だ。

サンドガードが証書を一瞥し、虚ろな目で呟く。

「香辛料の匂いが強いな。特別な品か?」声は低い。

「ええ、ザルカドのご貴族様へご提供の品でして。なんでも近々盛大に宴を催すそうです。今回飛び切り上物のサフランと花椒を用意したんですよ。私のようなシングラにとっては一世一代の大博打です。そうだ、旦那!これは特別ですがね…」

バルクは荷車を覆う布の端紐をほどき、用意してあった袋を取り出す。

「お客様へお渡しする際は毒味などを兼ねてこうやって小袋で事前にお渡しするんですが、ちょいと余計に作りすぎてしまいまして。良かったら旦那、貰ってやっていただけませんか。奥さんが飛んで喜びますよ!」

露店で上客に対し媚をへつらう如く声のトーンを一段階上げてまくしたてた。が…。

「俺に妻はいない」。サンドガードの冷たい声に鼓動が早くなる。

次の瞬間。

「いやぁ、これでエルドラドのリリィちゃんをオトせるかも!!」

あきらかににやけたサンドガードの表情を見てバルクは胸をなでおろした。

ウキウキと袋を抱え、おそらく仕事が終わるまでそれをどこかに隠そうとしているサンドガードを横目に従者に合図をおくる。

三台の荷車がゆっくりと門を抜けていく。



ロッツがバルクに近づいて楽しそうに尋ねた。

「なぁおっさん、なんだってわざわざお役人なんぞに銀貨を渡すのさ?」

「処世術ってやつだよ。明るいところが嫌いな奴はごまんといる」

バルクは周囲を見渡しながら言ったが、ロッツはよくわからないといった顔で横にいたデアロを見た。

「ロッツ、お前は素直でかわいいな」

デアロのつぶやきに、ロッツが顔を赤らめる。

「あーなんかバカにしてるだろ!?」

ジンが遮るように言う。

「ふたりとも、気を抜くなよ」

彼の長剣が鞘で軽く鳴り、周りのサンドガードの視線を牽制する。

門が軋みながら開く。ジンが先頭で道を切り開き、バルクと荷車が続く。

ロッツが軽口を叩きながら槍をブンブンと振るなか、デアロが無言で列の後方に就く。

ザルカドへの旅は、謀略と危険に満ちた戦いの始まりだった。

出発日は指定されていた。

役人との交渉がこれほどスムーズにいったのが自身の賄賂の賜物だけとは決して思えない。

砂漠の風がじわりと熱を帯び、朝焼けの赤が荷車を染める。

荷車を見やるバルクの心中で不安と野心がせめぎ合う。

クロト兄弟は知らない。

この荷物がただの香辛料等の類いじゃないことを。

一世一代の大博打は決して嘘ではなかった。



バルクの心は、数日前の夜へと遡る。

レイエスタールの中心街、ソキエタスが管理している商館。

白大理石の柱がそびえ、双頭のラクダと星の紋章が彫られた扉が重々しく開く。

部屋の奥、絹のカーテンに囲まれた椅子に、ラザールが座っていた。

50代半ば、鋭い灰色の瞳と、微笑を浮かべた口元。

砂漠の過酷さに耐えた彫りの深い顔立ちで、灰色の髪は後ろに撫でつけられている。

黒いローブに金糸の刺繍が輝き、指には瑪瑙石の指輪が光る。

ソキエタスの評議会メンバーである彼は「交易守護筆頭」という役職に就き、交易路の安全と市場の繁栄を目的として活動している。

その立場は評議会でも酋長に次ぐ程で、彼の影響力はソキエタス内部の他の派閥を抑え、酋長ラハム・ゼルでさえ一目を置くほどである。

彼の周りでは様々な黒い噂も後を絶たない。羨望や妬みが煙の出処なのか。

それとも火種は確かにあるのか。噂はあくまでも噂でしかないのだ。

「バルク、シングラの香辛料商だね。評判は聞いている」

鋭い鷹のような目でバルクを見据えるその声は穏やかだが、どこか冷めたように響く。

バルクは額に汗を浮かべ、頭を下げる。「光栄です、ラザール様」

ラザールは立ち上がり、窓から見えるレイエスタールの夜景を眺める。

「ザルカドへの荷物運搬を頼みたい。香辛料と布生地が主だが…なに、簡単な仕事だ。成功すれば、私の傘下での活動を許そう。君の今までのソキエタスへの貢献を考えれば当然のことだよ」子供へお使いを頼むような言い方でラザールは告げた。

鼓動が早くなる。ソキエタスへの加入、それはシングラの綱渡りの生活を終わらせる唯一の手段だ。

しかもラザールのように絶対的な権力を持つ派閥にいきなり所属出来るのは破格の条件である。

続いて出たラザールの言葉が心に刺さった。

「ただ荷物は…特別な品なんだ。わかってくれるね?」

ラザールの手には交易証書があり、蝋印が燭台の光に揺れる。

バルクは証書を受け取るが、不思議な香料の匂いが鼻をつく。

甘く、頭をぼんやりさせる匂いだ。

「これは…?」と尋ねると、ラザールは笑みを深める。

「ザルカドの貴族が喜ぶ品だ。従えば、報われるよ、バルク」

その笑顔にバルクは背筋が冷える。

ラザールの瞳は、まるで全てを見透かすようだった。

全て承知だった。自分が大きな策略の駒として使われているであろうことも。

だがソキエタス加入の好機を前に、バルクは目を背けた。

この大博打、サイコロはもう振られている。ドロップの選択肢はないのだ。



南の交易路を進む一行は、赤い岩の谷の手前で小さなオアシスにたどり着いた。

砂漠の太陽が頭上を焼き、荷車の軋む音が響く。

バルクはラクダを止め、従者に休息を命じる。

ヤシの木陰で水を飲み、干し肉をかじる中、ロッツがいつもの無邪気な笑みを浮かべ、バルクに話しかける。

「なぁ、おっさん。この仕事終わったら、俺、町一番の酒場で豪遊するんだ!兄ちゃんたちと飲み比べして、今度こそ俺が勝つ!!なぁでっかい夢だろ?」

ジンがロッツの頭を軽く叩き、笑う。

「お前、いつもそんなこと言ってるな。まず借金を返せよ」

デアロは無言で盾を磨いているが、その目には兄弟への温かさが宿る。

バルクは彼らのやり取りに笑みを浮かべ、ふと尋ねる。

「お前ら、なんで傭兵なんぞやってるんだ? もっと安全な稼ぎもあっただろ」

ジンが水を飲む手を止め、静かに語り始める。

「俺たち三人は、親も家もねえ。レイエスタールの裏通り、ゴミ溜めみたいな路地で育った。ある日、ソキエタスのクソ商人に絡まれてな。俺が10歳の時だから、デアロが7歳、ロッツが5歳だ。ガキの俺たちが宝石を盗んだって大騒ぎさ。サンドガードまで連れてきてこっちはどうしようもねえ。因縁付けられて半殺しにされそうになったんだ。実際濡れ衣だった。本当はそのクソ商人の自作自演だったんだよ。そこを通りすがりの傭兵に助けられたんだ。剣一本で衛兵三人を倒した。あの男の剣さばき…忘れられねえ。以来、俺は剣で兄弟を守るって決めた。傭兵になったのは、家族を食わせるためさ」

ロッツが目を輝かせ、続ける。「俺、ジン兄さんみたいになりたいんだ!レイエスタールの市場で歌われる英雄になる!ソキエタスの連中を見返してやるんだ! な、デアロ兄さん?」

デアロは一瞬手を止め、低い声で呟く。「家族は…守る。それだけだ」

彼の盾には、三つの星の印がある。

クロト兄弟の絆は、混沌と熱気渦巻いたこの砂漠で育まれた確かなものだ。

彼らには夢と忠義がある。

ジンは兄弟を守るために剣を握り、ロッツは英雄の夢を追い、デアロは寡黙に家族への忠義を貫く。

バルクは水を一口飲み、目を閉じる。

これからの旅路、クロト兄弟だけが頼りなのだ。

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