第4話 あ。

「おう、山野井。ご苦労さん」

「多田……先生。日誌終わりました」

「ありがとうな」

「それじゃあ俺はこれで」


 仮に俺が女子だったら、日誌を渡してすぐに職員室を出ていくなんてしないだろう。何せ多田は見た目だけは良い(性格も悪くない)、女子なんかは進んで日誌を書くようになるのではないか、と不毛なことを考えて、少しだけ多田に嫉妬した。

 くるりと多田に背を向けた俺だったが、そんな俺を多田が引き留めた。


「山野井、学級委員として頼まれごとをしてくれないか」

「はあ? 俺が?」


 背を向けた体をもう一度多田の方へ。だが多田は、書類を作っているのか、パソコンを見たままに、


「うちのクラスに今日休んだ子いただろ」

「え? えーと……」

「ほら、鈴野琴音」

「すずの……ああ、確かに休みでしたね」

「あの子に届け物してくれないか。今日のプリントとか、手紙とか」


 多田は相変わらずパソコンに何かを打ち込みながらしゃべっている。少し失礼じゃないか? 人にものを頼む人間の態度じゃない。

 だが仮に面と向かって頼まれたとしても、多田の言うことなんか聞くわけがなかった。そんなこと、担任の教師である多田がやればいいことだからだ。それを俺に頼むなんて本末転倒。

 そう、思っていた。


「まあ、あれだ。鈴野はいわゆる不登校の子なんだ」

「不登校?」

「そうだ。中学時代色々あって学校に行けなくなったらしくてな。入学前から何度か自宅にお邪魔してたんだが、やっぱり今日も来られなかった。俺じゃ力不足っぽくてな」


 ここで漸く多田はパソコンを打ち込む手を止めて、いすをくるりと回転させて俺の方を見た。少し困ったように笑う様子は、それこそ戸惑いを隠せていない。

 入学前から自宅に通っていた、って。教師の鏡じゃねえか。多田、俺はオマエのことをただの女たらしの優男だと思っていたよ。ごめんな、オマエは教師の中の教師だ。

 なんて、口が裂けても多田には言えるわけもない。


「俺が行くと緊張してしまうみたいでな。もしかしたら同級生がいけば心開くかもしれない、って安易すぎると思うか?」

「いやまあ、そう思わなくはないですけど……でも俺、不登校の子と関わったことないし」

「いや、そうだよな。この話は忘れてくれ。あとで俺がじかに届けに行くよ」


 ふう、っと息を吐いた多田はわずかに疲れた顔を見せた。そんな顔もできるんだな。案外人間らしい教師だったんだな、なんて、同情してしまった俺は、もしかしたら池田が言うようにお人よしなのかもしれない。だってこんな。


「あの、俺、行きますよ。プリント届けるだけなら」

「本当か、山野井?」

「あ、え、ええ」


 言った後に後悔する。こんな無謀なことをあっさり受けてしまうなんて。

 下手したら、鈴野が今まで以上に学校嫌いになってしまうかもしれないというのに、俺の行動の如何によって。

 中学で色々あったって何があったのだろうか。そもそもその子、女じゃないか。女の子がいきなり男の同級生に会ったとして、それこそ教師に会うよりも緊張するんじゃないか?

 いや、でも、ただの同級生なんだから緊張なんかしないか? でも、だが、しかし。

 ああでもないこうでもないと考えたって仕方がない。なぜならすでに俺は、鈴野の家に向かって歩き出している。

 多田は心底安心したように、俺に鈴野への言伝を預けた。で、俺は引くに引けなくなって、多田に鈴野の家までの地図を受け取って、鈴野の分のプリントと手紙を預かって、足取り重く学校を後にしたのだ。

 お人よし、というよりは優柔不断。真面目というよりはビビり。きっと俺はそんな人間。だから押しに弱い、困ってる人だって放っておけない。だってそうだろ、自分に置き換えたら誰かを放っておくなんてできやしないんだ。



 大きなマンション。東京だからマンション住みは珍しくはないが、それにしても大分いいマンションに住んでいる。しかも割と上の階。マンションは上に行けば行くほど偉い人間が住む(と、勝手に思っている)。中には最上階の住人が下層に住む住人をマウントすることもある。

 なんとなく。

 マンション内に入って、自動ドアの前のドアフォンの前で深呼吸。そのあと、意を決して部屋番号を押す。一七〇三号室。つまり十七階の〇三番号室。

 ピローン。

 呼び出し音が鳴る。そのあと数秒してから、


『はい、鈴野です』


 どうやら母親らしき人が呼びだしに出る。俺はもう一回深呼吸をしてから、


「あの。山野井です。琴音さんと同じクラスの山野井です。プリントを届けに来ました」


 若干うわずった声で言えば、


『まあ、琴音の同級生。今開けるわね』


 そして、ガチャリ。

 入り口のロックが外れた音がする。ほっと胸をなでおろす。てっきりもっと怖い母親が出てくるのかと思ったのだ。得てして、不登校の親にはいいイメージがない。子供を持て余して、ピリピリカリカリしている、そんな印象。あるいは、子供に過保護な親。故に不登校に輪がかかる。

 だがどういうことか、鈴野の母親は一切そういったことがなかった(もしかしたらこれは、俺の偏見なのかもしれない)

 ふうっと息を吐き出して、透明で重いドアを押し開ける。まっすぐ進んだ突き当りにエレベーターがあった。

 俺はゆっくりと緊張を落ち着けるように深呼吸しながらエレベーターまで歩く。そして、上矢印のボタンを押した。

 ぶうん。

 エレベーターが降りてくる音がする。

 当たり前だが、今は午後四時、マンションには俺くらいしか人の気配がない。きっとみんなまだ、学校で部活をしていたり、或いは仕事をしている時間帯なのだろう。そう思ったら、なんとも言えない居心地の悪さを感じた。別に俺は学校をさぼっているわけでもないというのに。

 エレベーターを待ちながら、ふと思う。鈴野はどれだけ居心地の悪い思いをしているのだろうか。平日の昼間に何もせずに家にこもっているというのは、それなりの覚悟が必要だろう。あくまで俺の意見だが。

 やがてエレベーターのドアが開き、俺はエレベーターに乗り込んだ。エレベーターの中の独特の空気が俺は苦手だ。耳がツンとする感じ、上へあがっていく浮遊感(なにせ絶叫系の乗り物も苦手だからな)

 十七階となれば耳が詰まる。俺はへたくそながら耳抜きをする。鼻をつまんで目を閉じて、つばを飲み込む。

 一回目では上手くいかない。二回、三回とつばを飲み込んでようやく耳の閉塞感が消えた。

 そのタイミングでエレベーターが開く。

 チーン。

 ゆっくりと開いたドアを潜り抜け、外に出る。

 ずらっと並んだ部屋の数は五つ。鈴野の部屋は一七〇三号室だからちょうど真ん中あたり。

 緊張しながらも一歩一歩踏みしめて歩く。どくどくどくどく。なぜだか緊張さえしてきた。どんな子だろうか、鈴野琴音。名前の響きは凄くきれいだ。鈴に琴。

 目当てのドアの前まで来て、本日二度目のチャイムを鳴らすと、がちゃり、すぐにドアが開いた。

 心の準備が間に合わなかった。いきなり現れた鈴野の母親に、


「クラスメイトの山野井です!」


 がばっと頭を下げて、しょっていたリュックから、多田から預かってきたプリントと手紙を取り出して押し付けるように渡していた。


「まあ、ありがとう」

「いえ。お、俺はこれで……」


 鈴野のお母さんはいい匂いがした。俺の母親なんかとは違う、優しそうなお母さん。何でも言うことを聞いてくれそうな、キラキラのクッキーを焼いてくれそうな、きれいなケーキをおやつに出してくれそうな、おしゃれなロールキャベツを作ってくれそうな。

 鈴野のお母さんは俺が緊張しているのを見抜いているようで、カッチコチの俺を見てクスリと笑った(言うまでもなくその笑い方はうちの母親とは比べものにならないくらいきれいだった)


「琴音、部屋にいるから会ってあげて。先生から山野井くんが来るのも聞いていたから、お菓子も用意したの。少し上がっていかない?」


 思ってもいない申し出に、思わず何回も顔を上下に動かした。

 ふわっふわしていてきれいで、こんな母親がいたら俺だったら周りの人間に自慢したくなる。それに、こんな人が自分の母親だったら、俺はもっと勉強を頑張ったかもしれない。ほかならぬ母親のために。

 とまあ、ここまで褒めておいてなんだが、だからといって自分の親が嫌いなわけではない。そりゃあ、いいにおいもしないしおやつなんかせんべいしか買ってこないし、料理だって茶色いものばっかりだけど、それでも俺は自分の親が好きだ(面と向かっては言えないが)


「それじゃあ、上がって?」

「あ。ハイ。お邪魔します……」


 促されるままに玄関に上げてもらう。

 入った瞬間いいにおいの正体が分かる。鈴野のお母さんだけじゃなく、部屋全体がいい匂いなのだ。そして、おしゃれな傘立てがあって、下駄箱があって。

 さすがマンション十七階の住人だ、玄関だけでこうもおしゃれだなんて少しめまいがする。


「この突き当りが琴音の部屋なの」

「へ、へえ……」


 案内されるさなか、俺は失礼にも部屋をじろじろと見渡してしまった。おしゃれなのだ、どれ一つとっても。まるで御伽噺のお城のようだ。

 おばさんもすごく人当たりがいいし、その子供の鈴野琴音とは、いったいどんな女の子なのだろうか。

 図らずも期待に胸が膨らんでいく。

 コンコン。

 おばさんが鈴野の部屋のドアをノックした。


「何ー?」


 中から聞こえたのは予想よりは少しだけ元気な声。もっとしおらしい、弱弱しい女の子がいるのかと思っていただけに、少し複雑な気持ちになった。いや、別に鈴野に女の子として期待とかしていたわけじゃなく、そう、そりゃあ確かにこの親にしてこの子あり! って感じのお嬢様はイメージしていたけれども!

 ガチャ、っとおばさんはドアを開け、


「クラスメイトの山野井くんが来てくれたわよ。お母さんはお菓子用意してくるから、ちゃんとお礼言っておくのよ」

「……分かった」


 案外フランク。

 もっと普通、不登校の自分のもとにクラスメイトが訪ねてきたら、嫌がったり隠れたり、会わないって断ったりするもんじゃないのか? 俺がおかしいのか? 俺の偏見なのか?

 そうは思っていても言及することはせず、とりあえずおばさんに促されるままに鈴野の部屋に入る。で、ドアをそっと閉めてから、鈴野を振り返る。

 女の子らしい部屋……とは言いがたい、こざっぱりした部屋。大きな本棚が印象的な部屋。

 その部屋の真ん中のローテーブルの前に座っている女の子、雑誌に目を落としていたその子は、俺が近づくとようやく俺の方に顔を上げた。


「あ」

「あ」


 が、しかし、この対面は決して『いいもの』ではなかった。お互いの第一声が被った。なにしろその子は。


「あの時の失礼な女!」

「そういうあんたはあの時の失礼な男!」


 何せその子は、春休みのあの日、コンビニに行く途中に盛大に転んでいたあの女の子、すごく不愛想で失礼で手が早い、あの嫌味な女の子だったのだ!

 世間というのは狭いものである。

 あの時はもう二度と会うことはあるまいと、この子(鈴野琴音という似合わない名前だが!)にだいぶひどい口をきいてしまったが、まさか再び相まみえることになるなんて。

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