第2話 仮面の強さ
雨の夜、街を行き交う人々は足早に傘を差して去っていく。その中を一人、黒いスーツ姿の女性が歩いていた。名前は美沙(みさ)、三十二歳。大手広告代理店に勤め、日々忙しく働いている。
同僚や後輩からは頼られる存在で、上司からの評価も高い。外から見れば、順風満帆なキャリアを歩む女性に見えるだろう。だが、胸の奥には、誰にも見せない疲労と孤独が積もっていた。
仕事の成果と引き換えに、彼女は自分の時間を失い、人との距離を保ち続けてきた。恋人もいなければ、気兼ねなく愚痴をこぼせる友もいない。笑顔の仮面をつけ、弱音を封じ込め、ただ走り続けてきた。
その夜、資料の締め切りに追われていた美沙は、気づけば終電を逃していた。タクシーを探そうと歩き出したとき、ふと、見慣れぬ明かりに目をとめる。商店街の片隅に、ぽつんと浮かぶ橙色の光――「喫茶 月影」。
「……こんなところに、あったかしら」
疲労ににじむ視界の中、看板の文字がにじんで見えた。気がつけば、美沙は扉に手をかけていた。カラン、と鈴の音が鳴る。
店内は温かな静けさに包まれていた。木の匂い、穏やかな照明、壁時計の針の音。カウンターの奥に立つ店主が、柔らかな笑みを向けた。
「いらっしゃいませ」
その声に、張り詰めていた美沙の心が、少しだけ緩む。無言のまま席に座ると、店主は黙って湯気の立つカップを置いた。口に含むと、苦みとともに柔らかな甘さが広がり、胸の奥にしみわたる。
「お疲れのようですね」
店主の言葉に、美沙は思わず笑った。強がる余裕もなく、ただため息がこぼれる。気づけば、彼女は話していた。成果を出すために無理を重ね、誰にも頼れず孤独に飲み込まれていく自分を。
「弱音を吐いたら、全部崩れてしまいそうで……」
小さな声で漏らしたとき、店主は静かに首を振った。
「強さとは、弱さを隠すことではありません。弱さを認め、それでも歩み続けることです」
その言葉に、美沙の胸がじんと熱くなった。誰も自分を理解してくれないと思っていた。けれど今、この場所でだけは、心の奥を見透かされ、受け止められている気がした。
外を見ると、雨は止み、月が雲間から顔を出していた。時計の針はすでに深夜を回っている。美沙はカップを置き、深く息を吐いた。心の重荷が、少し軽くなっているのを感じた。
「また来てもいいですか」
彼女の問いに、店主はゆっくりと頷く。
「この店を必要とする限り、いつでもどうぞ」
店を出ると、雨に洗われた街がきらめいていた。傘をたたみ、夜風を受けながら美沙は歩き出す。足取りはまだ重い。だが、胸の奥に小さな光が灯っていた。
翌朝、オフィスの窓から見えた青空は、いつもと同じはずなのに少し鮮やかに感じられた。キーボードを叩く指先に力が宿る。
「……大丈夫。私はまだ歩ける」
誰に聞かせるでもなくつぶやいた言葉は、自分自身への宣言のようだった。
そして彼女は知らない。別の誰かがまた、あの扉を開こうとしていることを――。
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成功と孤独の間で揺れていた美沙は、「月影」での体験をきっかけに心のバランスを取り戻した。職場では依然として忙しい日々が続くが、夜には趣味や散歩、時には友人との会話を大切にするようになる。完璧でなくてもよいことを知った彼女は、強さと優しさを兼ね備えた自分で生きる道を歩み始めた。
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