月影の喫茶店

@QDDUyiWa

第1話 孤独な青年

夕暮れの商店街は、まるで色あせた写真のように静まり返っていた。シャッターが下りた店の並びを、一人の青年が足早に歩いていく。名前は新(あらた)。二十五歳、工場の派遣で生計を立てている。日々を繰り返すだけの生活に、彼は何の意味も見出せなくなっていた。


スマートフォンを覗けば、SNSでは友人たちが華やかな生活を映し出している。旅行、恋人、仲間との笑顔。それらを見れば見るほど、自分が世界から取り残されていく感覚に襲われた。心の中は、冬の夜のように冷たく乾いている。


「帰って寝るだけか……」


小さくつぶやいたそのとき、商店街の奥に、ぽつんと明かりを灯す店があった。周囲の荒んだ雰囲気に似つかわしくない、温かい橙色の光がガラス越しにこぼれている。看板には、古びた字体で「喫茶 月影」とあった。


見覚えのない店だった。何度もこの道を通っているのに、こんな場所に喫茶店があった記憶はない。


新は半ば無意識のうちに足を止め、引き寄せられるように扉を開いた。カラン、とベルの音が柔らかく響く。


中には、驚くほど落ち着いた空気が広がっていた。木製のカウンター、柔らかな椅子、古い時計の針の音。そして、その中心に――不思議な微笑みを浮かべた店主が立っていた。


「いらっしゃいませ」


その声は、まるで遠い昔に聞いた子守唄のように、新の心に染み込んでいった。


カウンターに腰を下ろすと、店主は湯気の立つカップを差し出した。琥珀色の液体からは、深い香りが立ちのぼる。新はほとんど無意識に口をつけ、驚いた。苦みの奥に、どこか懐かしい甘さが広がったのだ。


「初めての方ですね。この店は、必要な人の前にしか現れないんですよ」


店主は穏やかに微笑んだ。その言葉に新は首をかしげる。必要な人? 意味が分からない。しかし、胸の奥がわずかに温かくなるのを感じた。


「……俺なんか、必要とされてるんですかね」


思わず口から出た言葉に、店主は何も言わず、ただ静かに頷いた。その仕草に、新の中で張り詰めていた糸が少し緩む。彼は無意識のうちに、これまで誰にも話せなかった孤独や不安を語り始めていた。


工場での単調な作業、上辺だけの人間関係、SNSを眺めて感じる劣等感。どれも取り留めのない愚痴に過ぎないはずなのに、店主は真剣に耳を傾け、一言一句を大切に受け止めてくれる。


話すうちに、新の心から黒い霧のようなものが少しずつ溶けていった。気づけば、時間の感覚を失っていた。


「不思議ですね……。誰かに話しただけで、こんなに楽になるなんて」


新がそう漏らすと、店主はふっと目を細めた。


「人はみな、心に影を抱えています。でも、影があるからこそ、光を感じられるのです」


やがて時計の針が零時を回ろうとしていた。新はカウンターに置かれたカップを見つめ、ふと胸の奥に芽生えた変化に気づいた。孤独はまだそこにある。けれど、それだけがすべてではないように思えた。


「また来てもいいですか」


そう尋ねると、店主は静かに笑みを浮かべた。


「この店を必要とする限り、いつでもどうぞ。ただし――次に扉が開くかどうかは、あなたの心次第です」


店を出ると、夜風が頬を撫でた。振り返れば、店の明かりはまだ優しく灯っている。ガラス越しに見える店主の姿に小さく頭を下げ、新は歩き出した。


翌朝、彼はこれまでと同じように工場へ向かった。機械音の響く作業場は相変わらず単調で、同僚たちとの会話も必要最低限。それでも新の心は、以前とはどこか違っていた。


昼休みに空を見上げると、雲の切れ間から一筋の光が差し込んでいた。新は思わず笑みをこぼす。昨日までは気にも留めなかった光景だった。


その瞬間、彼は確信した。喫茶「月影」は確かに存在していた。そして、自分の中に残った温もりが、それを証明しているのだと。

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喫茶「月影」で心の温もりを知った新は、工場での単調な日々に少しずつ変化をもたらした。休憩時間に同僚と笑顔で話すようになり、週末には趣味の散歩や写真を楽しむ時間も持つようになった。孤独は完全には消えないが、光を感じる力を得た彼は、自分なりの小さな幸せを見つけながら歩み続けている。

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