二の一、夢の始まり
ふと気づく。ある駅の改札口前にボクは立ち尽くしていた。どこだろうここ…。あたりを見回してみる。新瀬戸(しんせと)駅という駅名が見てとれた。
(よぉし、まずはそっから始まりだ)
心の中に遥の声が響く。
(文香、てめぇは今、二〇〇六年にご主人様が住んでる瀬戸の街にいる。もうてめぇの頭の中には、ご主人様の家の場所は入ってるはずだ。行ってみるがいい)
不思議なことに、遥の言う通り、ボクの頭の中にはご主人様の家の記憶が生まれていた。ボクは駅舎の外に出る。冬晴れの空の下で、空っ風が吹き荒んでいる。寒い。ボクは思わず両手で自分の胸を抱いた。そしてそのとき、自分の格好に気づく。
「黒ワンピだ」
ボクが着ていたのは、「黒ワンピ」と呼びならわしているロリータ服。正式名称は、Baby, the Stars Shine Brightの「Mariesセーラーワンピース」という。真っ黒な地に、前も後ろも四角い、二本の井桁ラインが施された白いセーラー襟。その前襟には黒い蝶ネクタイが縦に三つ並んでいてかわいい。お腹にも黒い大きなリボン。スカート部分には、ボクの知らない言語で何かの詩文の刺繍。コンシールファスナーが通った背中には、紐リボンをぎゅっと締める。そんな服だ。そか…。「論理が好きでしょうがねぇやつ」か。確かにこの服、ご主人様に何かにつけて着ろ着ろって言われてる。三十二歳のボクにはちょっと幼すぎて着るのには抵抗あるんだけど…。でもまあ、四十歳のご主人様が、この姿見て喜んでくれるならいい。だよね、ご主人様ボクの黒ワンピ見てくれるよね。ん…でもその一方、ヘンに思われたらどうしようって気持ちもある。そんな葛藤の中でどきどきしてくる。そしてボク、ノーパンノーブラ。首には、この前職人さんに特注して作ってもらった、お気に入りの大きな首輪。ご主人様にお仕えするボクにふさわしい格好だ。遥、わかってんじゃん!あ…でもいいのかなこんな格好で、とどうしても思ってしまう。
さてそんな姿で駅前のタクシー乗り場に来た。止まってたのに乗り込む。
「ありがとうございます。どちらまでですか?」
「中水野(なかみずの)までお願いします」
行ったことすらない場所の地名が、すらりとボクの口から出る。遥の魔力だ。タクシーが動き出す。ボクはスマホを出し、ドラクエウォークを開けた。この時代にはないスマホで、当然、この時代にはないゲームを開く。そしてドラクエウォークは動いていた。メガモンスターもちゃんといるし、ザコ敵もわいている。ほこらもある。遥すごい…。十七年前の世界にいるとは思えない。そんなことに感動しているうち、車は十分以上は走った。
「すみません、この突き当たりを右にお願いします」
ご主人様のアパートの位置は、はっきりわかっている。タクシーはボクの言う通り右に折れ、片側一車線の道を走る。四十歳のご主人様のもとに、タクシーが急速に近づいていく。胸が一段と高鳴ってきた。もうすぐ会える。ご主人様!
で、でも…。ボクの今の姿…。太ってるし、ブスだし、醜いし。そんなボクがご主人様に会ったって…。ご主人様、どんな顔するだろう。きっと嫌がるよね。ああ、帰りたくなってきた。
(コラっ、てめぇざけんなよ!)
えっ!驚いて顔を上げるボク。
(人がせっかくガラにもねぇ幸せな夢見させてやってんのに、何オドオドしてやがるんだ!)
遥…。そんなこと、言ったって…。
(いいか、五十七歳の論理は、ありのままのてめぇを好きでいやがるんだろ。だったら、四十歳の論理が、ありのままのてめぇをヘンに思うはずがねぇ。堂々としていやがれってんだ!)
しゃべりたいことしゃべる遥。まあ、そりゃ、そうだけどさ…。
(わかったかばぁやろう。またしょげたツラ見せやがったら、今度会ったとき張り倒してやるからそう思いな!んじゃあばよ!)
もう、遥ったら…。いいのかな、このまま会いに行っても。だけど、そう思いあぐねる一方で、やっぱり胸がどきどきする。ご主人様、こんなボクだけど、会いたい…。そんな想いを胸にするうち、やがてタクシーは「ミラカーサみずの」という看板と、広い駐車場を持つアパートの前にやってきた。
「ここでお願いします」
「はい」
タクシーが止まる。料金を払って(遥が持たせてくれた財布には、一万円札がごっそり入っていた。遥こんなお金どうやったんだろう)車を降りた。
ミラカーサみずの。紺色の屋根が冬の日差しを浴びている。二階建てが三棟ある。ご主人様の部屋はわかっている。駐車場を歩いて横切る。どきどきが抑えられない。ご主人様に…会えるんだ。ボクが知ってるご主人様は、出会ったときがすでに四十七歳。今は五十七歳。髪は真っ白で、こういうと気の毒だけどおでこやてっぺんがかなり薄い。顔も、整ってるとは思うけど、もうシワが増えたし、シミもあって、それなりに年を取っちゃってるなって感じだ。でもこの世界のご主人様は四十歳。若いよね。どんな顔してるんだろう。ボクを見てどう思ってくれるんだろう。どきどき。胸を押さえながら、ボクはついにご主人様の部屋のドアの前に立った。すはああっとお腹に息を吸い込み、ふーっと吐く。落ち着けボク。あ…でもいざ会うとなると弱気になってくる。やっぱ…やっぱボク、ヘンだよね。嫌がられるよきっと。だってデブスだもん。こんなんでご主人様に会ったって──、
(ばぁやろう!)
ひっ、と首をすくめる。また怒鳴られた。
(てめぇもよくよく歪んでやがんな。てめぇの望んだままの世界にいることがわかんねぇのか!)
うん…。確かに、そうだろう。ここはボクの、幸せな夢の中なんだ。だけど…。
(あれこれ考えて勝手に鬱になる癖は、起きてるときだけで十分だ文香。何も考えずにドアホンを押せ。心配すんな。全部上手くいく)
遥ったらYouTuberの本みたいなこと言って…。あーわかった。わかったよ遥。ボクは奥歯をぎゅっと噛みしめた。そうだよ、上手くいく!ちょっと震える指先で、ボクはドアホンを押した。ピンポーン、と音。しばらく経ち、扉の向こうに動く気配。いよいよだ。唾を飲み込む。そして扉が──開いた。
「はい…」
ご主人様だ。若い。まずそう感じた。そか…。これが四十歳のご主人様か…。髪が真っ黒でふさふさしてる。髪型は今と一緒でおかっぱ。でも髪の量が多い分、それなりに見れる(今の薄毛無理おかっぱは正直、落武者みたいで見れたもんじゃないのでやめてほしいけど)。顔は色白で肌は滑らか。シミやシワもない。それだけに顔立ちの整い具合が映えて、なかなかイケて見える。うん、このご主人様いい!これなら惚れられる。
「あの、何か」
ご主人様の声。今より張りがある。そしてイケボだ。なんか…顔にしても声にしても、ボクの知ってるご主人様とは違いがあり過ぎて、ご主人様であってご主人様じゃないみたいな気がする。他人感、というとヘンかな。でもそんな感じ。思わず見とれてしまう。あ、でも何か言わなきゃ。
「あ、えと…こ、こんにちはごしゅ…ん、論理さん」
頭を下げるボク。その前でご主人様が驚きの表情。
「え?なぜ俺の名前を…。君とどっかで会ったことある?」
会ったこと?そりゃあるよ。三千五百日以上一緒にいるよ。でもいきなりそんなこと言えない。だけどどう言ったらいいのかな…。
「会ったっていうか…。これから会います」
「え?どういうこと?」
ご主人様が、理解できないという顔をする。当然だろう。うまいこと言えないかな。あーでも思いつかない。
「ボク、論理さんのこと、隅々まで知ってます。このおかっぱだって、このワンピだって、論理さんの好みですよね」
ボクのおかっぱは耳たぶが見えるところまでサイドと後ろを短くしたおかっぱだ。前髪も、眉頭が見えるあたりで切り揃えている。ボクはこんな姿嫌だけど、ご主人様の強い好みでやむなくこの姿を続けている。
「……………」
ボクにそう言われたご主人様が、しばし無言でボクをまじまじと見つめた。
「…確かに、そのおかっぱと服は、俺の好みにずっぽり合っている。顔立ちも理想通りだ」
と言いつつ、ご主人様の口調は淡白だった。ご主人様、好きになってない人にはそういう声で話すんだ…。そんなご主人様、十年一緒にいて初めて見たよ。それもなんか嬉しい。そう思いながら「ですよね!」と応える。
「だが」
ご主人様の黒くて深い瞳に、疑いの色。
「『これから会います』の意味がわからない。まるで君が未来から来て、未来の俺を知っているかのような口ぶりじゃないか」
「あ、そうなんです!」
ボクは思わずそう言った。信じてもらえないだろうけど…言うっきゃないよね。
「ボク、二〇二三年から来ました。論理さんの奥さんになって、八年になります。論理さんのことなら、何だって、誰よりも知ってます!」
「……………」
またご主人様の無言。その目には、ボクを哀れむような光があった。
「正気か君は」
笑いを含んだご主人様の声。冷たいよぉ。「ご主人様にぞんざいに扱われたい」というボクのMな欲求が満たされるような気がして、場違いに笑ってしまいそうになるボク。
「冗談としては面白かった。確かに君と俺はどこかで知り合ったことがあるようだが、そんな話を信用するほど俺はおめでたくない。帰れ」
ご主人様がドアを閉めかける。ボクはあわててノブにしがみついた。
「待ってください!」
ご主人様!この世界のご主人様と一緒に過ごさせてください!お願いします!
「話を、聞いてください。そうすれば、ボクのこと信じてもらえると思います!」
想いを込めて、必死になってボクはそう叫んだ。ご主人様はなおもドアを閉めようとしたけど、ボクが力の限り取りすがるのを見て、ノブから手を離した。ご主人様はきっとボクを信じてくれる。だってここはボクの夢の世界なんだもの。ボクの思い通りにいかないことなんてない。
「一つ聞く」
ご主人様は、厳しい視線をボクに注ぎながら、こう言った。何を…聞かれるんだろう。どきどき。
「俺に兄弟姉妹はいるか」
なんだ。ちょっと拍子抜け。それならいくらでも話せる。ボクは大きく口を開け、すはあああっとお腹に息を吸い込み、こう語った。
「一九五〇年に死産になったお姉さんはいます。『夢子姉さん』って呼んでる方ですよね。その方以外に血のつながった兄弟姉妹はいません。本来は論理さんのいとこにあたる人が、義理のお姉さんになってます」
そんなことはもう遠い昔にご主人様に聞いて知っている。ボクはすらすらとそう答えた。
「……………」
ご主人様が黙ってボクを見つめる。ボクもご主人様を見つめ返す。信じてほしい一心で。
「…入れ」
ご主人様は、身体をドアからよけてくれた。
「いいん、ですか?」
「ああ」
やった。まずは第一関門突破。ご主人様の部屋に足を踏み入れる。ボクがご主人様と出会った二〇一三年は、ご主人様はすでに名古屋のマンションにいた。だからこの瀬戸の部屋に入るのは初めてになる。中は…きれいに片付けられて、掃除も行き届いている感じだ。今、二〇二三年にボクとご主人様が住む長野の部屋は、物が溢れかえって掃除もろくにできていない。そんな部屋と比べると「天地の差」という大袈裟な言葉も当てはまるぐらいに思える。ご主人様、なんでこんなきれいな部屋に住んでるの?
「お邪魔します」
玄関を上がったところが台所。そこを抜けて、八畳くらいのリビングに通された。そしてリビングにも埃一つ落ちていない。
「きれいな…お部屋ですね」
「掃除が趣味のようなものだ。拭き上げられた部屋で茶を飲むのが幸せだ」
と、今ではおよそ信じられないような台詞をご主人様が言う。この時代のご主人様は、そうだったんだ。ボクの時代のご主人様は、ボクがいくら、掃除しましょうお風呂に入りましょうと言っても、ぜんぜんきれいにしてくれない。それに比べてこのご主人様は…。
「座れよ。座布団も何もなくて悪いが」
「いえ、結構です」
ボクは床の上にペタンと座る。ご主人様はそのボクの正面で、大きな座椅子に腰を下ろす。大きくて深い瞳がボクを見据える。嫌だよ、そんな目で見つめられたら…。ご主人様に、こんなにも胸が高鳴る。今まで見も知りもしなかった人を見初めたような気持ち。だけどその一方で、ご主人様の目に映るボクの姿が不安だったりする。「いきなりこんなデブが来たよ」と思ってるかな…。あ、また遥に叱られる。
「さて…」
ご主人様が、低い声でボクに言う。
「夢子姉さんのことや、俺の姉が義理の姉だということは、俺もそうそう人にはしゃべっていない。なぜ君がそれを知っている?」
「ボクと出会ったとき、論理さんがそう教えてくれました」
ボクのその言葉に、ご主人様は首をひねる。
「俺のことなら、何だって誰よりも知ってる、と言ったな」
「はい!」
ご主人様に信じてほしい。その一心でボクは、お腹の底から声をだして返事する。そんなボクにご主人様は、少し身を乗り出した。
「俺の母親について何を知っている?」
そんな質問ちょろいよ。
「論理さんの生まれる五年前からリューマチで座ったきりでした。論理さんを身ごもったとき、お医者様から論理さんを産めば必ずリューマチも進行するし、リューマチの強い薬のせいで論理さんは五体満足には生まれてこないから、出産をやめた方がいいと散々言われました。でもお母さんは論理さんを産みたい一心で出産を強行しました。論理さんは幸いどこにも障害はありませんでしたけど、お母さんのリューマチは進んでしまって、歩けなくなりました。お母さんはそのせいか、一九九六年三月二十二日に亡くなるまで、論理さんを溺愛していました」
激しく何度も「すはあああっ」と息継ぎしながら、知ってるかぎりのことを、ボクは早口に一気に話した。コミュ障で、しゃべりが全然ダメなボク。そのせいで、人からどう見られてるかいつも悩む。そんなボクが、ここまで話しまくる。それくらい必死だった。ご主人様は、そのボクの話をじっと聞いた後、しばらく口を閉じていたけど、やがてこう言った。
「では…俺の親父は?」
「お父さんは名古屋で名の知れた表具師さんです。古美術鑑定の目利きができることもあって、一代で大きな財産を築きました。…こう言っては申し訳ないですが、論理さんの今の生活があるのは、お父さんのおかげですよね」
ボクがそう言うと、ご主人様は再び長く黙った。
「なぜ、そこまで詳しく知っている?」
「だから、みんな論理さんが話してくれたことなんです」
ご主人様、信じて!その目をまっすぐ見つめる。
「いつ俺がそんなことを君に話した?」
「二〇一三年の十二月三日に付きあい始めてから、折あるごとにボクに話して聞かせてくれました」
「……………」
ご主人様の黒くて大きな瞳が、ボクに目を凝らす。
「君は…本当に、未来から来たのか」
「はい。二〇二三年から来ました」
「信じられない…。そんなことが本当に起こるのか。どんな手立てを使ってこの時代に来た?」
ボクは、遥との一件をご主人様に話して聞かせた。
「と言うことは…君は今夢を見ていて、その夢の世界の中で、俺の時代にやってきたということか」
「はい」
ご主人様は、ふうっと長い吐息をつく。まるで、目の前にある出来事を、自分の中に落とし込もうとしているかのように。
「君、名前は何と言う?」
「太田文香(おおたふみか)と言います」
「結婚したから、同じ苗字だと言うわけか」
「はい。ボクと論理さんは、二〇一五年の十二月三日に結婚しました」
ボクからそう聞くと、ご主人様は「ふっ」とかすかに笑って、遠い目をした。
「俺に交際相手ができて、そしてその相手と結婚する?そんなことがあるわけないだろう。俺はもう、生涯独り身でいる覚悟を決めているんだ」
「でも、その論理さんのもとに、ボクが現れます」
ご主人様は、心底「わけがわからない」と言うように、首を横に振った。でも…少しずつ、ボクの言うことに耳を傾けてくれてる気がした。
「俺はどうやって君と出会ったんだ」
「ツイッターです」
「ツイッター?何だそれは?」
そか。二〇〇六年にツイッターはないんだ。
「未来にできるんですよ。簡単に言えば…百四十字のメッセージをネット上に掲示するシステムです。論理さんとボクは、そのシステムを通じてメッセージをやりとりして、親しくなって、出会って、そして結婚までしました」
また早口に、一気にそう言うボク。コミュ障そっちのけだ。ご主人様にわかってもらいたくて、持ってる言葉の限りを尽くす。そんなボクがご主人様の目にどう映ってるかは不安だけど、それもどうでもいいくらい、このときのボクは懸命だった。
「よくわからないが…つまりはネットで出会ったというわけか」
「そうなりますね」
ご主人様はまた考え込む。
「生涯独り身を通すとは言ったが、そうなってもなお、俺に何らかの出会いがあればとは思っている。そのきっかけがネットであってもいい。だが…俺は本当にネットで君と出会ったのか」
「はい!」
ご主人様とツイッターで出会った頃のことを思い出し、ボクは胸を熱くした。
「論理さんとボクは、同じ双極性障害を抱える人どうしとして、ツイッターで励ましあってきました。ツイッターで出会った頃、ボクは具合が悪かったんですけど、論理さんはそんなボクを温かく支えてくれました」
「!」
双極性障害と聞いたご主人様の顔色が変わる。
「俺の病名まで知っているのか。それも、同じ双極性障害?」
「はい」
ご主人様がボクをまた見つめる。でもその目には、疑いの色は少なくなっていた。ご主人様、ボクを信じてくれる?
「文香、と言ったな」
「はい」
「俺は…文香にとって、どんな夫でいる?」
「そうですね…」
ボクにとってのご主人様。どんな人だろう…。遥が現れたとき、隣ですやすやと眠り続けていたご主人様を思い出す。そしてボクは言う。
「なくてはならない存在です。個性的で、あったかい人ですね。ドラクエで言う堀井雄二みたいな人です」
「堀井雄二?ドラクエの生みの親だな」
「堀井雄二がいなければ、ドラクエはこの世にありませんでした。それと同じで、論理さんがいなければ、ボクはこの世にいません。論理さんと出会わなければ、ボクは死んでました」
ご主人様の整った顔を熱く見つめて、ボクはまた一気にそう言った。出会ったときの胸のときめきが、どんどんと戻ってくる。ああ…ボク、恋をしている。身体がどきどきと脈打つ。
「俺と出会わなければ、文香はこの世にいないのか。俺、誰かにとって、そこまでの存在になれるのか」
「はい!」
ご主人様に信じてもらいたくて、ボクは深々とうなずいた。
「そうか…」
ご主人様は、深くため息をついて、ボクを見た。
「こんな、俺の理想通りの女の子が、俺の前に現れて、俺をそうした存在だと言ってくれるんだな」
ご主人様の瞳に、輝きが満ちていく。ご主人様…。こんなボクを、理想通りと言ってくださるんですね。ボク、ご主人様がボクを見る目を、信じていいんですね。ありがとうございますご主人様、ボクを、感じてください!そう思いながら、ボクはさらに語ろうと、口を大きく開き、腹式呼吸のお腹に、すはあああっと息を吸い込む。
「ボクが論理さんの理想なのかどうかはわかりませんけど、十年間ずっと論理さんに寄り添ってきました。それはこれからも変わりません」
「そうか…」
ご主人様が、じっとボクを見つめる。
「文香。確かに君はかわいい。顔立ちも日本人形みたいだし、その短いおかっぱも実によく似合っている。そしてその服…。そんなロリータセーラーを着てくれる人がそばにいてくれたらと、いつも願っていた」
ご主人様の視線に熱さを感じて、ボクは頬を染める。そう、出会ったときも今も、そんな熱い眼差しをご主人様はボクに送ってくれていた。
「文香、ちょっと後ろを見せてくれるか」
「はい」
ボクはご主人様に背中を見せ、軽くうつむいた。ボクの時代のご主人様も、四十歳のご主人様も、ボクの後ろ姿に萌えるんだね。
「襟足、すごくきれいに揃ってる」
「切り揃えてもらったばかりです」
「ここ十年くらいの流行りで、毛先を不揃いにする人ばかりになって、物足りない思いをしてきた」
うなじにご主人様の視線を感じる。嫌だよ熱くなる。ボクの時代のご主人様には、襟足を見つめさせない。「キモい」とか言って嫌がっちゃう。でも、四十歳の若いご主人様なら、いくら見つめられてもいいかも?
「論理さん、毛先が揃っているのが好みなんですよね。だからそうしています」
「まったく」
ご主人様が苦笑いする気配を、背中で感じた。
「文香には何もかも見通されているな」
襟足を見せながら、ボクは微笑む。何事にも後ろ向きなボクだけど、「世界でいちばんご主人様を知っている」という点については、胸を張って「そうです」と言える。
「はい。お見通しですよ。伊達に十年付き合っていません」
「それじゃあ、この背中ファスナーもか」
黒ワンピは、背中ファスナー開きだ。
「はい。論理さんは背中ファスナーがお好きです。だからボク、何着も持ってます」
「……………」
また黙るご主人様。少し荒くなった呼吸音が聞こえる。
「文香」
「はい」
「…君に、触れていいか」
ご主人様が熱くささやく。え、触ってくれるの?
「もちろんです」
ボクはそう言う。一瞬の間があく。そして…ボクのうなじに、ご主人様の指が触れた。
「う…」
思わず声が漏れる。軽い衝撃。嫌だよ、ボクの時代のご主人様にうなじを触れられても、何も感じない(どころか、ちょっとキモい)のに。ボク何を熱くなってるんだろう。ご主人様の指が、そろ、そろ…と襟足の上を動く。
「襟足、きっちり剃ってるんだな」
「おとといお風呂で、論理さんに剃ってもらいました」
「お風呂?」
ご主人様の指が止まる。
「俺は、文香と一緒にお風呂に入って、この襟足を剃っているのか」
「はい」
正直、襟足剃るの面倒で、ご主人様に剃らせることはあまりない。けど、おとといはヘアカットの前日ということで剃ってもらった。よかった。こんな形で、この時代のご主人様に剃りたて襟足を見てもらえるなら。
「文香…」
ご主人様の手が襟足を離れて、ボクの両肩に置かれる。ご主人様の手。温かいよ。こんな温かい手をした人だったんだ…。やっぱり、五十七歳のご主人様とは別の人を、改めて見初めた心持ちがする。軽く、浮気?ちょっと罪悪感。うん、でもいいよね。ここはボクの、幸せな夢の世界なんだから。そう思うボクの肩を温めながら、ご主人様が言う。
「セーラーを着ると、肩のラインがよく現れるから好きなんだ」
「論理さん、よくそう言っていました」
「文香…」
ごくり、とご主人様が唾を飲み込む音がした。
「変なことを頼むが…、大きく息を吸ってみてくれ」
きた!ご主人様の呼吸フェチ。歌うたうときとかに口大っきく開けて思いきり吸うとご主人様喜ぶんだよ。それは、この時代から変わってないんだね。嬉しさと少しの恥ずかしさを感じながら、ボクは大きく口を開いた。
「すはああああっ‼︎」
お腹じゅうで思いきり空気を吸い込む。感じてくれました…かな。
「あ…」
ご主人様のかすかな叫び。
「肩…かすかに、上がるな。それに文香、息を吸う音が目立つ」
「ボクは腹式呼吸ですから、あまり肩が上がらないんですよ。それにボクのブレス、目立つって論理さんにもよく言われます。『すうっ』とも『はあっ』ともつかない音だって」
ボクのその言葉を聞いたご主人様が、じっと肩に手を置いて、さらに言う。
「そうやって、文香が…息を、している…」
そりゃしてますよ。生きてるんだから息するの当たり前じゃないですか。でも、ご主人様、それに萌えるんだよね。よし、勇気いるけど、んじゃこうも言っちゃおう。
「論理さんが、ボクを必要としてくれるから、ボクはここで息をし続けます」
この台詞、小説の中で何度か使った。ご主人様萌えてくれればいいな。ボクがそう言うと、肩に触れるご主人様の手に、力がこもった。
「文香の時代で俺は、文香を必要として、文香はそれにその目立つ呼吸で応えてくれるのか」
「はい。論理さん、ブレスが目立つのがお好きなんですよね」
「そうだ。文香…」
ご主人様のささやきが熱い。未来のボクに、今どんな想いを持ってくれてますか。その心中の問いかけに応えるかのように、ご主人様の腕が、後ろから伸びてきた。そしてボクは──ご主人様にぎゅっと後ろ抱っこされる。やった!ご主人様が…ご主人様が、ボクを抱きしめてくれたよ!
「論理さん…」
「いけないか」
「いえ…。いくらでも」
「ありがとう」
ご主人様は、ボクの右肩に顔を置き、その胸を固く抱きしめてくれる。肩にご主人様の吐息がしみて熱い。
「文香。未来で君は、俺を見つめていてくれるのか」
「はい。ただ見つめるだけじゃありません」
ボクの喉元に湧き上がる言葉。ボクは胸元で、ご主人様の腕に両手を添えた。
「──愛し続けています」
ご主人様…。持ちあわせる愛情のすべてを、この言葉にこめた。そんなボクの胸を抱きしめるご主人様の両腕に、さらに力がこもる。
「文香。君は温かいな」
「平熱、三十七度三分あります」
「そんな数字はいい」
「ごめんなさい」
そして抱きあうボクたち。そうだ、こんな抱っこができるなら、これ、言えるよね。ボクはもう一度、口を大きく開いて「すはあああっ」と深く息を吸い込む。ご主人様、感じてくれてたらいいな。
「論理さん、抱っこしてもらったついでと言っちゃ何ですが、お願いを一つ聞いてください」
「何だ?」
ボクは、ご主人様の腕を優しく撫でる。
「論理さんのこと、『ご主人様』って呼ばせてくださいませんか」
「『ご主人様』?」
ご主人様が、思わず、と言った感じで、ボクの肩から顔を上げる。
「なんでそんな呼び方を…。まるでメイドか何かみたいじゃないか」
「ボクは」
ボクはもう一段階深くうつむいて、ご主人様に襟足を見せた。ご主人様、これ見て萌えて(なんて言ったらおこがましいけど)ボクに「ご主人様」って呼ばせてほしいなあ。
「論理さんの妻なのと同時に、論理さんにお仕えしてるんです。極端な言い方ですけど『奴隷』って言っても構いません」
「奴隷…?文香が俺の、奴隷だというのか」
いきなりなボクの言葉に、ご主人様が声に驚きを満たす。
「はい。この首輪が、奴隷の証です」
お気に入りの首輪が、幅は細めながらがっしりした鉄の重みをたたえて、ボクの首にある。
「それ…最初から気になっていたが、やっぱり首輪なのか。ネックレスにしては武骨だと思っていた」
「はい、首輪です」
ぎゅっとうつむいたまま、ボクは答える。ボクという存在すべてが、ご主人様のものですよ。
「この耳たぶおかっぱだって、奴隷のしるしてす。ご主人様の命令に従って、そうしています」
「命令…」
ご主人様が、小さく息をつく。
「未来の俺は、文香にそう命令するのか」
「はい。ちなみにボク…」
う…。さすがに恥ずかしい。でもこれも隠さず言わなきゃ。
「…ノーパンノーブラです」
「なんだって!」
さすがに驚くご主人様。そりゃそうだよね。
「まさか…それも俺の命令か?」
「そうです。それが奴隷の装いだと、いつも言ってます」
「何を言ってるんだ、未来の俺は…」
ボクの背後で、ご主人様が首を振る気配。そんなご主人様にボクは言う。
「愛し方なんです。それが。ボクとご主人様との。従順な奴隷として、ボクはご主人様にお仕えしています」
「ううむ…」
ご主人様がまた考え込む。今日何度目かの長い沈黙。
「そうか」
ご主人様はそう言って、ボクの黒ワンピの前襟を再び抱きしめた。
「俺は、こんなお人形さんみたいな子と出会って、結婚して、そして仕えてもらえるのか」
「はい」
ボクが返事をすると、ご主人様は「ふうっ」と息をつき、ボクの背中を温める。
「文香。今年が二〇〇六年。俺が文香と出会うのが二〇一三年。俺は、あと七年待てばいいんだな」
「そうです!」
ボクの胸に回したご主人様の両腕に、ボクの鼓動が伝わっていく。
「文香。俺は今まで、一人で寂しかった。そんな寂しい日々が永遠に続くと覚悟していた。だが…わずか七年先に、大きな希望が見えた!」
ご主人様の叫び。ぎゅっと再びボクの胸を抱いてくれる。
「文香。君が俺のもとにいてくれるのは、今日から五日間だと言ったな」
「そうです」
「わかった。希望の五日間だ。その五日の間、俺は君の主人になろう」
やった!わあい、二〇〇六年のご主人様も、ボクのご主人様になってくれた!
「ありがとうございます!ご主人様!」
ボクはご主人様の腕にしがみついた。ご主人様も、そんなボクを再度、力をこめて後ろ抱っこしてくれる。掃除の行き届いたきれいな(ご主人様らしくないけど)リビングで、ボクたちはずっとそうして抱きあっていた。
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