第8話 部屋主からの手紙

 いつもそうだった。一生懸命がんばって、なにが至らないのかわからないまま、周囲は彼を置き去りにして、せわしなく進んだ。


 ふと、あの夜のことを思い出した。


 シグマの低い声が脳裏に響いた。


 「自力で計算して間違えたときに、理論の違いに気づくんじゃないのか?」


 部屋主のシグマ。

 彼の言葉はいつも正しく、痛いほどに真っ直ぐだった。


 ただ、ローレンスには、シグマがなにに怒っているのかがわからなかった。それでも、理解しようという気持ちだけで精一杯だった。


 そして昨日、彼は教育課に呼び出され、“面談”を受けた。

 担当者は優しく質問を重ね、ローレンスは頷きながら耳を傾けた。

 やがて担当者は「環境を変えるのも一つの手だ」と提案し、ローレンスもそれに納得した。

 決定は、その日のうちに下された。


 ◇

 

 寮に戻ると、部屋にはもう、真面目で、目を逸らすことを許してくれない部屋主の姿はなかった。


 机の上には几帳面な文字で埋め尽くされた手書きの問題だけが残されていた。

 指で紙の端をなぞると、インクの跡が微かにざらついていた。


 ローレンスはその問題を手に取って読んだ。


 「基礎数学・分岐する選択肢の数列」


 行間にはシグマの小さなメモが赤字で残されていた。


  “要明白個道理”,“唔好死背公式”,“要諗吓點解先至得出個答案”


 几帳面な筆致。だが彼に漢字は読めなかった。

 それでも、その文字を見ただけで、声が聞こえるような気がした。


 あの夜と同じ、真っ直ぐで、真面目な声。

 

 ローレンスは、紙をそっと胸元に抱いた。

 薄い紙一枚が、やけに重く感じられた。

 

 部屋の外では、風が鳴っていた。

 夕方の空に滲む光の中、彼は静かに目を閉じた。


 部屋主が何に怒っていたのかも、結局はわからないままだった。


 ローレンスはその紙を手にしたまま、椅子にもたれた。


 遠くで誰かが笑っていた。情報科の棟は静かで、笑い声は滅多に響かない。

 それだけに、その音が胸に刺さった。


 今週中には、新しい部屋に移らなければならない。


 ローレンスは深く息を吸った。

 紙に鉛筆を走らせた。

 部屋子として、彼ができることは、これしか思いつかなかった。

 

 ◇


 翌週。

 皆に礼を言おうと、アルが情報棟の履修室を訪れた時だった。待っていたようにローレンスが寄ってきた。


「アル先輩。これ、採点してもらえますか」


 ローレンスがそう言って差し出したのは、見覚えのある字で書かれた数学問題だった。


「寮の……部屋主が出してくれた問題なんです」


 アルはそれを受け取り、問題を解き始めた。


「部屋変わったんだし、もういらないんじゃないの?」


 紙には何度も消した後があり、悩んだ様子が伺えた。アルが尋ねると、


「だって、これ僕のために作られた問題だから」


 ローレンスはそう言って笑った。


「答えあってる。大丈夫だよ」


 そう言って返すと、ローレンスの目が見開かれた。


「これ……」


 問題の片隅に書かれていた漢字には、英訳が添えられていた。


「読めなかったでしょう。広東語だから」


 アルはそう言って笑った。


 ──


 Understand the logic.

 Don’t memorize formulas.

 Think through the reasoning.


  理屈を理解せよ

  式を覚えるな

  答えを導く筋道を考えろ


 ──


 いかにもシグマらしい言葉だった。


 ローレンスはその文字をじっと見ながら言った。


「これ……僕がもらった初めての手紙なんです」


 ローレンスはそう言って、その紙を大切にたたみ、鞄にしまった。


 アルはその様子を見ながら優しく声をかけた。


「今度の部屋主はマシューだって?」


 その言葉にローレンスが顔を上げた。


「ご存知なんですか?」


「一応、生徒会役員だし」


 アルが眉を下げて笑い、話を続けた。


「マシュー、喜んでたぜ。『部屋子が“教養科”から“情報科”の子に変わった』って」


 アルの言葉にローレンスが少し寂しそうに笑った。


「そうですか。僕は……」


 そう言いかけて口を結んだ。それから暫くして、ふと顔を上げてアルに笑いかけて言った。


「今度こそ、部屋主と一緒に頑張れるようにします」


 と、明るい声で答えた。


 その笑顔には少し落ち着きを重ねた彼の姿が見てとれた。


「応援してるよ」


 アルはそう言うと、軽く片手を上げて、皆の元へ向かった。


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