シグマ2 =招かざる部屋子=

第1話 放課後の争奪戦

 今日も絶えず小競り合いが始まった。


 ここは中高一貫のミリタリー学園。

 訓練後の夕陽が傾き、鉄柵の影が長く伸びた。

 汗と砂埃の匂いが混じる中、六年の三人が三年の一人の行く手を阻んでいた。

 始めは小さな口論だったが、今まさに拳の届く距離にまで発展していたのだ。


「それ……俺に横流よこながししろっていってるんですか」


「流せじゃねぇよ。命令の範囲内で再分配しろっていってんのさ」


「物資確保できなかったのはそっちの作戦ミスでしょ? 俺関係ないし」


「お前! 上級生の命令に従えねぇのか?」


 その時だった。


「やめないか」


 風に流されることもなく、その声は四人の耳に届いた。


 振り向けば、そこに立つのは生徒会・五年の四人、“四天王”と呼ばれる統治の番人たちだった。


 ファイ、タウ、ロー、シグマ。

 ミリタリー学園の番人は、規律と力の均衡を守るバッジをブレザーの襟に輝かせていた。


「……チッ、生徒会かよ」

「五年生が、調子に乗るな」


 六年の一人が舌打ちし、勢いのまま拳を振るい、襲いかかった。

 だが、シグマは半歩だけ体をずらしかわすと、腕が空を切り、掌が六年の肘を軽く弾いた。


 パシッ!


 そのわずかな衝撃で、六年は重心を崩し、地面にひざをついた。


「ふざけんな、てめぇ!」


 続く二人も殴りかかるが、タウとローが静かに受け流した。


 連環手が円を描き、風のように相手の動きを崩して、止めた。


「やめろ。お前たちが壊していいのは訓練用の人形だけだ」


 間髪を入れず、有無を言わさぬファイの声が低く響いた。


 怒号は消え、荒い息だけが残った。


 それを見ていた三年が助けに動こうとしたが、後から追いついたアルが肩に手を置いて、少年を止めた。


「お前ら、やめとけって。下っ端を絞めると、執行部の生徒会長が乗り込んでくるぞ」


 三人に声をかけたのは、彼らと同級生で生徒会渉外担当のアルだった。


 さすがの三人も、生徒会長の存在には怯んだ。


 地面から立ち上がった彼らは、唇を噛んだまま沈黙した。


 様子を見ながらファイが一歩前に出た。


「我々、生徒会は規律の代理人だ。ここは戦場ではない。学び舎だ。それを忘れるな。」


 彼の声は怒鳴りではなく、冷たい鐘の音のように響いた。


 六年生たちは視線を逸らし、散るようにその場を離れていった。


 夕陽が沈みきるころ、残ったのは静けさと、鉄の匂いだけだった。


 相手がいなくなり、少しむくれた三年生の肩をぽんぽんと叩いてアルが言った。


「ほら君も。生徒会から呼び出し食らう前に帰りなさい」


「俺は……」


 そう答えようとした三年生に気付かず、四人は雑談を始めた。


 ◇


「最近、生徒会の奴らって手抜きだろ、制圧全部、執行部の俺たちに回してないか?」


 そうぼやいたのはシグマだった。


「仕方ないさ。俺たち粛清班だし」


 タウが軽く笑いながら言うと、ローが


「粛清はお前とファイだろ? なんで外交役員の俺が粛清しなきゃならないんだ?」


 と文句を言い始めた。


「いや、僕は戦闘には向いてないから」


 ファイが片手を上げ、穏やかに笑い返した時だった。


「あの、俺、ジョイ(Joey)です!」


 三年生が声を上げた。

 四人は話を止め、ジョイを振り返った。


「お前、まだいたのか」


 無愛想に、シグマがジョイに声をかけると、再びアルが、


「ほら、早く寮に戻りなさい。夕飯に遅れるよ」


 と笑いかけた。


 四人もまた、生徒会室に戻ろうと再び背を向けて歩き始めた。その背中にジョイが叫んだ。


「待てよ! 司志恒シー・チー・ハン!」


 突如。――空気が、裂けた。


 踵を返したシグマが一歩踏み出した。

 まばたきすら追いつかない速さで、三年の、頬に冷たい風が触れた。


 すん――!


 拳が、見開かれた目と鼻先の一寸手前で止まっていた。


 寸止めだった。

 だが、拳の圧が恐怖となり、心臓を掴むには十分だった。

 三年の身体が硬直し、呼吸が止まった。


 シグマの瞳は、氷のようだった。

 怒りではない。

 “触れる事を許さない理”の光を宿していた。


「――二度と言うな」


 低く、明確に、言葉が胸の奥に沈むように響いた。


 ジョイは息を飲んだ。誰も動かなかった。

 ファイも、タウも、ローも。

 ただ気配だけが、シグマの行動を肯定していた。


 数秒後、シグマは拳を下ろし、ゆっくり息を吐いた。


「……帰ろうぜ」


 短く告げ、ジョイに背を向けた。


 ふと気がつくとアルの手はまだジョイの肩にあった。

 見上げると、笑を失った顔はすでに守りの体制に入っていた。


「あの……」


 ジョイの声にアルもまた、我に返った。


「ああ、ごめん。あいつ、悪気ないから……」


 そう言って笑いかけたアルに、ジョイは


「知ってますよ」


 と彼らの背中を見送りながら、短く答えた。


 ◇


 生徒会室に戻るとすぐ、タウが口を開いた。


「なんであいつ、シグマの名前を知ってるんだ」


 さすがのファイも眉間に皺を寄せたまま考え込んでいた。


「寺にいたときの知り合いかな?」


 その言葉にローが答えた。


「あそこは町からでも車と歩きで二時間かかったし、滅多に人なんて来なかったよね」


「でも、俺たちが町に出たのって、たった一回だったよな」


 タウがそう言うと、シグマが口に手を当て考え込んだ。

 すると、生徒会室のドアが開いた。


「どうやらその一回だけ、出会ってるみたいだぜ」


 と、アルがジョイを連れて入って来た。


「なんでお前が来るんだ」


 あからさまにシグマがジョイに嫌悪の目を向けた。


「だって俺、シグマの部屋子だし」


 臆することなくジョイが答えると、四人は


「「えーっ?」」


 と驚きの声を上げた。


「シグマが四年生の部屋子追い出したでしょう? それで、その子が俺の部屋主のところに来た。で、代わりに俺がシグマんとこ。ま、そんな感じ?」


 ジョイは指を立て、ぺらぺらと事の次第を話し始めた。


「でも、シグマ覚えてないんですか? ほらあ、湾仔ワンチャイであった“詠春拳の交流大会”」


 その名が出た途端、シグマの顔から血の気が引き、一瞬にして固まった。


「交流大会?」

「シグマが迷子で出られなかった奴じゃね?」

「なんだ、あの時の参加者か」


 皆の視線が集まる中、ジョイは


「あのとき俺がシグマを案内して会場まで……」


 そう言いかけたジョイの顔に、今度は確実にクッションがヒットした。


 ボフッ!


「部屋に案内する! ついてこい!」


 シグマはそう言ってさっさと生徒会室を抜け出した。


「はい」


 ジョイはにこにこしながら、部屋の中の皆に片手をひらひらさせると、すぐにシグマの後を追った。


「……あれが、今度の部屋子……?」


 その様子を唖然とアルが見送った。


湾仔ワンチャイ出身なのかな?」


 ファイが、いまいち腑に落ちない様子で呟いた。


「あの大会、九龍ガウロンからも来てたらしいから、一概には言えないんじゃないのか」


 タウが皆にそう話しかけると、ローもまた、


「そんな奴がなんでミリタリー学園に来てるんだ」


 と独り言のように呟いた。


「まあ、あとで飯の時間にでもシグマに聞いてみようぜ」


 アルが声をかけると、皆片付けを始め、報告書を書くと告げたファイを残して部屋を後にした。




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