第4話 トライアル

キムはハンドルをしっかり握り、コースを外れないように速度を落とした。


その時だった。ネロが焦ってスロットルを強く開け、泥の跳ね飛ばした。泥の飛沫がキムのヘルメットにかかり、視界を一瞬遮った。


「うわっ!」


ネロが悲鳴を上げた。後輪が空転し、ぬかるみを削るだけで前に進まなかった。


泥が跳ねるたび、後続のキムにも影響が及んだ。


「止めて! 一回エンジンを止めるんだ、ネロ!」


キムもブレーキを強く握り、泥の中でバイクを立て直した。遠く離れるディランに声をかけた。


「勝手に走っちゃダメだ、ディラン!」


しかし、三年に上がり立てのキムの声など、誰も聞いていなかった。

ネロも、焦りの色を隠せなかった。


最後尾のリアムは、ゆっくりと距離をとりつつ、三人の様子を観察しながら走ってきた。


キムの傍まで来ると、彼はすぐにエンジンを絞り、何かあった時に備えて構えた。


「ディランの奴、完全にコースを外れたな……」


見上げる先には、斜面の上でタイヤを滑らせながらも必死にバランスを保つ、ディランの姿が見えた。


獣道の上、四人のバイクはそれぞれのペースでばらけた。


近道と正規ルート、安全と挑戦。

その分岐点で、班の息が大きく乱れたのだった。


「チッ」


思わずキムは舌打ちをし、残った二人に声をかけた。


「とにかく、ゆっくりでいい。このまま草の少ないところを登って。彼の後は僕が追う」


リアムはすぐにうなずいた。だが、ネロは不安げに首を振った。


「君だけじゃ危ないよ、皆で教官に知らせよう」


しかし、キムはヘルメット越しに否定した。


「見失う前に行く。なにかあると大変だから」


そう言って泥を袖で拭い、アクセルをそっと開いた。


「滑り易いから、アクセルワークに気をつけながら走って」


それだけを告げると、キムはクラッチを繋げディランの後を追った。



泥に埋もれないように蹴散らしながら、キムのバイクが斜面へと進んでいった。


キムは息を荒く吐き、ぬかるみに翻弄されるタイヤに集中した。

前輪が滑り体が傾く瞬間も、左足で踏ん張ってバランスを保ちながら進んだ。


「くそ……ディラン、どこだ!」


アクセルに気を配りながら、ゆっくりと斜面を登った。

木々の間から、うっすらと赤い車体が見えた。


斜面の向こう、ディランのバイクが泥煙の中にいるのを確認できると、キムはほっと小さく息をついた。


ディランのバイクは半ばぬかるみに沈んでいた。泥がタイヤの溝に詰まったように、後輪が空転を繰り返していた。


ディランが何度もクラッチを操作しているのが見て取れた。


「ディラン!」


キムが声を張り上げると、ディランは振り返った。


「待って、今手を貸すから!」


キムは叫んだあとバイク止め、倒さないよう注意しながら降りた。それからヘルメットを脱ぎ、泥を踏みしめながら近づいた。


キムを見たディランは、眉間にわずかな悔しさを浮かべ、再びアクセルを吹かした。


「いらねぇ! 俺一人で抜けられる!」


驚くキムをよそに、ディランは心の中で呟いた。


(――なんで、俺が下級生に追いつかれてんだよ)


泥が弾けた。タイヤが滑り、バイクが横を向いた。

それでもディランは体を前に乗せ、ハンドルを強く握った。


斜面の先には、大小の石が転がる急勾配があった。

だが、そこを登り切れば、正規ルートの上部と合流できるはずだった。


「だめだ、そこは危ない!」


キムの叫びも届かず、ディランはスロットルを開けた。


エンジンが唸り、後輪が泥を弾く。バイクが小さく跳ね、勢いのまま岩へと突入した。


一段目の石に前輪を乗せると、車体が前後に揺れた。

後輪が泥を掻きながら岩を捉え、ギリギリのバランスで段差を登り切った。

泥と小石が空中に舞い、視界の端でキラリと光った。


「無理だよ、ディラン!」


後方の声が響いた。ディランは振り返らず、体をさらに前に乗せた。


二段目の岩に前輪が当たると、車体が跳ね、後輪が泥を掻きながら岩に食い込んだ。

ほんの一瞬、バイクが空中に浮いたように見えた。


「いける!」


だが、着地はわずかにずれ、後輪が岩の角に弾かれた。

バランスを崩した車体が右に傾き、ディランの体が投げ出された。


泥の上に転がった瞬間、バイクは横倒しとなり、エンジンが空転しながら唸った。


泥と小石が四方に飛び散り、周囲は一瞬の静寂に包まれた。


岩をよじ登っていたキムは、すぐさま駆け寄った。


「大丈夫か!?」


その声に応えるように、泥にまみれたディランが身を起こした。


覗き込むキムに、ディランはヘルメット越しに顔をしかめ、荒い息を吐いた。


「……くそ、あと少しで……!」


「もう十分だろう!」


キムは呆れたように言い捨てると、慎重にディランのバイクへ近づいた。


「バイク壊したら、帰れなくなるぞ」


地面はまだ泥で湿り、バイクの下には小石と砂利が散らばっていた。踏み外せば再び滑り落ちる危険があった。


しばし二人の間を風が通り抜けた。

泥の匂いと、摩耗したゴムの焦げた匂いが混じり、現場の緊張感を一層際立たせた。


次の瞬間、バイクのタイヤがぐらりと揺れ、車体が微かに傾く。


「──!」


思わずキムはハンドルを掴み、両足で地面を踏みしめて体全体に力を入れた。

車体は滑り落ちず、かろうじてバランスを保った。ディランも息を呑む。


「エンジン切るのを忘れてた」


キムはそうつぶやくと、慎重にバイクを起こし、エンジンを止めた。


その後、ディランは少し身を引いて座り込み、右足首をさすりながらキムの点検を見守った。


「お前……どっちを助けに来たんだ?」


キムは無表情のまま、僅かに口元を緩めて答えた。


「オーナーを選べない、バイクの方」


真面目に答えるキムに、ディランが目を丸くしているとキムの目も急に大きく見開いた。


「は……? えっ、嘘……!」


ディランが顔を向け、短く尋ねた。


「どうしたんだ?」


キムは血の気が引いた顔で、静かに首を縦に振った。


「バイク……壊れてる」


目線を落としたハンドルの左側には、泥と細かな砂粒が絡みつき、黒ずんで鈍く光る折れたレバーが確認できた。

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