第4話 トライアル
キムはハンドルをしっかり握り、コースを外れないように速度を落とした。
その時だった。ネロが焦ってスロットルを強く開け、泥の跳ね飛ばした。泥の飛沫がキムのヘルメットにかかり、視界を一瞬遮った。
「うわっ!」
ネロが悲鳴を上げた。後輪が空転し、ぬかるみを削るだけで前に進まなかった。
泥が跳ねるたび、後続のキムにも影響が及んだ。
「止めて! 一回エンジンを止めるんだ、ネロ!」
キムもブレーキを強く握り、泥の中でバイクを立て直した。遠く離れるディランに声をかけた。
「勝手に走っちゃダメだ、ディラン!」
しかし、三年に上がり立てのキムの声など、誰も聞いていなかった。
ネロも、焦りの色を隠せなかった。
最後尾のリアムは、ゆっくりと距離をとりつつ、三人の様子を観察しながら走ってきた。
キムの傍まで来ると、彼はすぐにエンジンを絞り、何かあった時に備えて構えた。
「ディランの奴、完全にコースを外れたな……」
見上げる先には、斜面の上でタイヤを滑らせながらも必死にバランスを保つ、ディランの姿が見えた。
獣道の上、四人のバイクはそれぞれのペースでばらけた。
近道と正規ルート、安全と挑戦。
その分岐点で、班の息が大きく乱れたのだった。
「チッ」
思わずキムは舌打ちをし、残った二人に声をかけた。
「とにかく、ゆっくりでいい。このまま草の少ないところを登って。彼の後は僕が追う」
リアムはすぐにうなずいた。だが、ネロは不安げに首を振った。
「君だけじゃ危ないよ、皆で教官に知らせよう」
しかし、キムはヘルメット越しに否定した。
「見失う前に行く。なにかあると大変だから」
そう言って泥を袖で拭い、アクセルをそっと開いた。
「滑り易いから、アクセルワークに気をつけながら走って」
それだけを告げると、キムはクラッチを繋げディランの後を追った。
◇
泥に埋もれないように蹴散らしながら、キムのバイクが斜面へと進んでいった。
キムは息を荒く吐き、ぬかるみに翻弄されるタイヤに集中した。
前輪が滑り体が傾く瞬間も、左足で踏ん張ってバランスを保ちながら進んだ。
「くそ……ディラン、どこだ!」
アクセルに気を配りながら、ゆっくりと斜面を登った。
木々の間から、うっすらと赤い車体が見えた。
斜面の向こう、ディランのバイクが泥煙の中にいるのを確認できると、キムはほっと小さく息をついた。
ディランのバイクは半ばぬかるみに沈んでいた。泥がタイヤの溝に詰まったように、後輪が空転を繰り返していた。
ディランが何度もクラッチを操作しているのが見て取れた。
「ディラン!」
キムが声を張り上げると、ディランは振り返った。
「待って、今手を貸すから!」
キムは叫んだあとバイク止め、倒さないよう注意しながら降りた。それからヘルメットを脱ぎ、泥を踏みしめながら近づいた。
キムを見たディランは、眉間にわずかな悔しさを浮かべ、再びアクセルを吹かした。
「いらねぇ! 俺一人で抜けられる!」
驚くキムをよそに、ディランは心の中で呟いた。
(――なんで、俺が下級生に追いつかれてんだよ)
泥が弾けた。タイヤが滑り、バイクが横を向いた。
それでもディランは体を前に乗せ、ハンドルを強く握った。
斜面の先には、大小の石が転がる急勾配があった。
だが、そこを登り切れば、正規ルートの上部と合流できるはずだった。
「だめだ、そこは危ない!」
キムの叫びも届かず、ディランはスロットルを開けた。
エンジンが唸り、後輪が泥を弾く。バイクが小さく跳ね、勢いのまま岩へと突入した。
一段目の石に前輪を乗せると、車体が前後に揺れた。
後輪が泥を掻きながら岩を捉え、ギリギリのバランスで段差を登り切った。
泥と小石が空中に舞い、視界の端でキラリと光った。
「無理だよ、ディラン!」
後方の声が響いた。ディランは振り返らず、体をさらに前に乗せた。
二段目の岩に前輪が当たると、車体が跳ね、後輪が泥を掻きながら岩に食い込んだ。
ほんの一瞬、バイクが空中に浮いたように見えた。
「いける!」
だが、着地はわずかにずれ、後輪が岩の角に弾かれた。
バランスを崩した車体が右に傾き、ディランの体が投げ出された。
泥の上に転がった瞬間、バイクは横倒しとなり、エンジンが空転しながら唸った。
泥と小石が四方に飛び散り、周囲は一瞬の静寂に包まれた。
岩をよじ登っていたキムは、すぐさま駆け寄った。
「大丈夫か!?」
その声に応えるように、泥にまみれたディランが身を起こした。
覗き込むキムに、ディランはヘルメット越しに顔をしかめ、荒い息を吐いた。
「……くそ、あと少しで……!」
「もう十分だろう!」
キムは呆れたように言い捨てると、慎重にディランのバイクへ近づいた。
「バイク壊したら、帰れなくなるぞ」
地面はまだ泥で湿り、バイクの下には小石と砂利が散らばっていた。踏み外せば再び滑り落ちる危険があった。
しばし二人の間を風が通り抜けた。
泥の匂いと、摩耗したゴムの焦げた匂いが混じり、現場の緊張感を一層際立たせた。
次の瞬間、バイクのタイヤがぐらりと揺れ、車体が微かに傾く。
「──!」
思わずキムはハンドルを掴み、両足で地面を踏みしめて体全体に力を入れた。
車体は滑り落ちず、かろうじてバランスを保った。ディランも息を呑む。
「エンジン切るのを忘れてた」
キムはそうつぶやくと、慎重にバイクを起こし、エンジンを止めた。
その後、ディランは少し身を引いて座り込み、右足首をさすりながらキムの点検を見守った。
「お前……どっちを助けに来たんだ?」
キムは無表情のまま、僅かに口元を緩めて答えた。
「オーナーを選べない、バイクの方」
真面目に答えるキムに、ディランが目を丸くしているとキムの目も急に大きく見開いた。
「は……? えっ、嘘……!」
ディランが顔を向け、短く尋ねた。
「どうしたんだ?」
キムは血の気が引いた顔で、静かに首を縦に振った。
「バイク……壊れてる」
目線を落としたハンドルの左側には、泥と細かな砂粒が絡みつき、黒ずんで鈍く光る折れたレバーが確認できた。
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