第5話 旧知の悪夢

 夕暮れどきの本堂は、蝋燭ろうそくの火が静かに揺れ、壁にかかる数珠じゅずと木魚の影を、ほのかに揺らしていた。

 香炉こうろから立ちのぼる煙が、仏前にゆるやかな線を描いていた。


その中央に、シーが静かにしていた。


 両脚りょうあしを組み、こぶしひざの上に置いたまま、顔は真っ直ぐ前を向いていた。


 目の前には、釈雲セックワンの姿があった。


 僧衣の袖を静かにたたみ、司の目を見つめると、おだやかな声で口を開いた。


「話したいことは、ないか?」


 司は少しだけ頭を下げ、言葉を選ぶように口を開いた。


棄権きけんと聞いて、……正直、他の子を出したかったです。控えの者を連れてくれば良かったと……」


 司の言葉を聞いた釈雲は、少しだけ視線を落とし、静かに口を開いた。


「それは、私の采配さいはい不足だ。気を使わせてすまない」


 司は少し目を見開いたが、同時にほっとした表情を浮かべ、師匠の優しさを感じた。

 釈雲はその様子を見ながら目を細め、続けた。


「他になければ、私から聞いてもよいか」


 司の顔に緊張が走り、かすかに震えた。


 「お前の拳は正しいか」


 釈雲の声に、怒気どきはなかった。ただ静かだった。

 それが、逆に重く響いた。


 「師父シーフーの教えを、汚すものではないと思っております」


 司は少し目を伏せ、しっかりとした口調で答えた。


 その中で、司の瞳が、かすかに潤んだ。

 言葉にならない想いが、喉の奥で揺れていた。


 「そうか。では、司よ」


 釈雲は司を見据えたまま、続けた。


 「拳を振るうとは、すなわち、何かを選び、何かを棄てるということだ」


 その言葉に司はドキリと大きく脈打った。

 蝋燭ろうそくの火が、わずかに揺れた。

 拳を握りしめた司に、釈雲は間を置かずに続けた。


「その選びを、私は責めぬ。

 ——だが、“選び”には責任がともなう。

 お前は、その覚悟を持って振るったか?」


 司は自分の顔から血の気が引くのがわかった。

 師父は拳を使ったことを見抜いていると悟ったのだった。


 司の肩がぐっと沈んだ。だが、しっかりと頷いた。

 釈雲は、ふと目を細め、言葉をつむいだ。


 「拳を学ぶ者は、力を得る。

 だが力とは、常に“誰かに影響を与える力”だ。

 意図せずとも、言葉にせずともな」


 司の拳が、膝の上で強く握られた。


「お前が選んだ道が、誰かの拳を乱し、誰かの心を縛ることもある。それが“背負う”ということだ」


 司の瞳に、一瞬だけ光が差した。

 釈雲はその表情を見て、静かに微笑ほほえんだ。


「一人で正しいことをするのは、容易たやすい。だが、誰かと共に正しくあろうとするのは、何倍も難しい。」


 拳をそっと膝の上でほどき、頭を下げた。


「だからこそ、お前たちは“修行”をしているのだ」


 釈雲の声には、怒りも非難もなかった。

 ただ、静かな慈悲と厳しさが同居していた。


「お前の拳は、まだ未熟だ。力ではなく、意味をきたえるがよい」


 外では、月の光に照らされた竹林が、かすかに音を立てていた。

 そのさざめきは、司の心のささくれを、ゆるやかに撫でていくようだった。


 司は半身を引き、両手を前に重ねて、静かに頭を垂れた。

 やがて背筋を伸ばして立ち上がると、音も立てずに部屋を出て、一礼し、木格子をそっと閉じた。



 寮舎の前では、ホイローフォンの三人が待っていた。


 司の様子を見た三人は、一様に安堵の色をうかべた。


「チビたちが話聞かせろって煩くてさ。いまアル(ヤン)が相手してる」


 頭の後ろで腕を組んで許がぼやいた。


「じゃあ、お前が相手すればいいだろう?」


 司が呆れて尋ねると、許は手を振って否定した。


「ムリムリ、だから待ってたんだ。頼むよ」


 その声が聞こえたのか、中から楊の声が聞こえた。


「リック(シー)帰ってきたのか? 早くきて手伝ってくれ」


 そう言われ、司が扉を開けると、幼子の弟弟子たちが駆け寄って来た。


 ◇


「お前は道場にバレなかったのか」


 目の前でぱくぱくピーナッツクッキーを食べるジョイにシグマは尋ねた。


 今思い返すと、なぜあの時黙っていたのか、少しアホらしくも思い始めていた。


「うん。道場にはバレなかったけど、兄貴にさんざん叱られた」


 ジョイはチョコレートミルク缶をあおりながら、横目で答えた。


「『お前のせいで出られなくなった奴がいるんだぞ。反省してそいつに謝れ!』って、パンフレット渡されてさ」


 その言葉に思わずため息がれた。


(なんだ、言われて捜しただけか)


 話を聞いてシグマが質問をした。


「兄貴は元気なのか?」


 自分の椅子から身をひねり、かたわらに座ったジョイに尋ねた。すると彼は、飲み終わった缶をクシャリと握り潰して答えた。


「知らない」


 返事に驚いたシグマの目が丸くなった。


「もう会ってないんだ。だから……」


 家庭の事情を聞くほど野暮やぼではなかった。

 ジョイはそのまま話を続けた。


「『約束果たすんだ』って、ずっと探してた」


 そんな言いつけを守るなんて、よほどジョイは『兄貴』が好きなんだな、とシグマは感心した。


 ジョイはシグマの顔を見て目を細めた。


「だから、あんた見つけたときなんて、ホント嬉しかったぜ」


 笑いかけるジョイに、シグマは冷たく言い放った。


「そのタメ語、やめろよ」


「だってさぁ、俺あのとき、ほんとに四年だと思ってたんだって。まさか五年とは思わなかったよ」


 途端、


 ピシッ!


 ジョイのほおをなにかがかすめた。


 にらみつけるシグマのてのひらには数枚のコインが握られていた。




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