『チョコレートと雨と、10年後の奇跡』

 カラン。


 強く閉まったドアに吊るされたベルが、雨音にかき消されるように鳴った。


「……っ、ごめんなさい、閉店間際に……!」


 少女がびしょ濡れのまま、店に滑り込んできた。肩で息をしていて、前髪は額に張りつき、制服の袖から水滴がぽたぽたと落ちている。


 カウンターの奥――

 静かにココアを淹れていた店長が顔を上げた。


 ブラウスの上にベストを重ねた姿は、あの頃と変わらない輪郭を残しつつ、すっかり大人のものになっていた。


「……寒かったね。あったかいココアにする?」


 少女は戸惑いながら頷いた。

 その目は、ほんのりと涙を浮かべているように見えた。


 ⸻


 テーブルに湯気の立つマグカップが置かれ、少女の前にそっと座った店長は、微笑みながら言った。


「昔、私も同じように、雨の中を走ってこの店に来たことがあるの」


「え……?」


「びしょ濡れでね。怒ってたの。いろいろが、うまくいかなくて」


 少女は黙って耳を傾ける。


「そのとき、ココアを出してくれて……頭を撫でてくれた人がいたの。すごく優しくて、なのに、すごく強い人だった」


「……その人は?」


 少女の声は、まるで自分の未来を問うようだった。


 店長は少しだけ目を細めて、遠くを見るように――


 けれど、その肩にふいにぬくもりが乗った。


 背後から、両腕でやさしく包むように抱きついたのは、長身の女性。ラフなシャツに、少し乱れた髪。けれど、その目は深く優しい。


「……生きてるわよ、ちゃんと」


 少女は目を見開く。


「……えっ?」


「こんなに優しくなっちゃってさ。もう、誰かにココアなんて出しちゃって」


「勝手に話聞いてたな……」


「聞こえるわよ、そりゃ。奥で仕込みしてたんだから。うちの店でしょ?」


 そう言って、店長の頬に口づけしそうなくらいに顔を寄せる。

 店長は真っ赤になって少女の方を向きかけ――やめて! と目で訴えた。


 少女は、ぽろりと涙を落とした。


「……なんか、あったかいです。今日ここに来て、よかった……」


 店内の窓に映る外は、まだ雨が降っていた。


 けれど店の中には、湯気と、記憶と、あたたかさが静かに満ちていた。


(おしまい)

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『犬っころ、月に転がされる』 鈑金屋 @Bankin_ya

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