第10話
王都トリスタリアは、勝利の熱に浮かされていた。
魔王軍を退けたという報せが届いて以来、昼も夜も区別なく祝宴が続き、街路の至る所に提灯が揺れ、酒と笑い声が途絶えることはない。
なかでも、今や「聖王」と呼ばれるトリスタンの武勇を描いた芝居は、もっとも人気を集めていた。天幕の内には観客が溢れ、立ち見の群れが外まで押し寄せている。
舞台の見せ場は、勇壮なる聖剣を手にトリスタンが魔王ネフェルティと一騎打ちを繰り広げ、深手を与える場面である。観衆は歓声をあげ、英雄の名を合唱した。
「───へっ、あの爺がそこまで動けるかよ」
吐き捨てるように呟き、ひとりの男が天幕を後にした。
深く被ったフードに仮面まで付けた姿は怪しげではあったが、祭りの最中であれば却って不自然さは薄れる。都には魔族に扮した者も多く、多少の奇装は誰も気にしない。
むしろ、その男がただの仮装客ではなく、本物の勇者バナージであることに気づく者は誰一人いなかった。
「俺が戦っていれば、確実に奴の息の根を止めていた」
低く呟いた声には、苦々しい響きがあった。
実際、彼は魔王軍四天王の一人──≪魔眼のセラス≫を討ち取った男である。仲間の支えと至宝カルストの力あっての勝利ではあったが、その死闘は間違いなく真実だった。
だが、歴史に刻まれる栄光はすべてトリスタンの名の下に奪われていく。
───見なければよかった。
芝居を目にしたことを悔やみながら、バナージは酒場の扉を乱暴に押し開けた。中はすでに酔客で賑わっており、空席はほとんどない。ようやくカウンターの端に一人分の隙間を見つけると、肩で押しのけるようにして腰を下ろした。
「エールだ!」
卓に銀貨を叩きつける。店主は眉をひそめたが、黙って樽から泡立つ液体を注ぎ、木の杯を差し出した。
「機嫌が悪そうだな、若いの」
嗄れた声が隣からかけられる。
誰かと話す気など毛頭なかったが、その声音には妙な迫力があり、無視できなかった。振り向けば、枯れ木のように痩せ細った老婆が座っている。
魔族の仮装だろうか、額にはねじれた角が一本、もう片方は根元から折れていた。
「そうだ。俺は機嫌が悪い」
エールを一息に呷り、バナージは唇を歪めた。
「どいつもこいつも浮かれやがって……トリスタンの何処がいいってんだ」
「ひょひょ……お主もトリスタン王が嫌いかえ? 気が合うのう」
老婆は歯の抜けた口で笑う。ぞっとする笑みだった。
その落ち窪んだ眼窩の奥に、赤い光がちらりと宿ったように見えたが、酔いのせいかもしれない。
「臆病者のあの男が、魔王と一騎打ち? 笑わせる。毛ほどの傷だってつけられやしない」
「ほう……だが巷では、魔王ネフェルティに深手を与えたと聞くが?」
「戯言だ。もし本当に魔王を倒せる者がいるとすれば……勇者バナージしかいない。あるいは法王庁の賢者ブスマンくらいだろうな」
杯を掲げて追加を注文した時、ふと気づく。隣にいたはずの老婆の姿がない。
代わりに座っていたのは、黒髪を揺らす若い女だった。
真紅の瞳が妖しく輝き、白い指先がバナージの額を軽く突く。
「あらあら……もう酔いつぶれちゃったのね」
高らかな笑い声が響き、視界が闇に沈む。
カウンターに突っ伏したバナージを見下ろし、店主は肩をすくめた。
「やれやれ、態度ばかり大きいくせに、一杯で潰れるとはな」
「ご馳走様。帰らせてもらうわ」
黒髪の女が椅子を立つ。その姿は、酒場の喧噪の中でもひときわ目を引く艶やかさを放っていたが、客の誰一人として彼女の登場を覚えていなかった。
店主が首を傾げる間に、女の影は音もなく路地裏へ消える。
「───無理ね、あなたでは。勇者さん」
夜の闇に溶け込むように、女の声だけが残った。
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