第9話


「───ベル! アベル! しっかりして!」


 肩を激しく揺すられ、アベルは意識の淵から引き戻された。身を起こそうとした瞬間、左腕に鋭い痛みが走り、喉の奥から叫びが迸る。


「……骨が折れています。動かさないでください」


 神官エイダムが短く告げ、低く呪文を唱え始めた。光が滲み出すように患部を覆い、じんわりと痛みを和らげていく。


 その傍らで、シスが顔をぐしゃぐしゃにして泣き崩れていた。

 ──二人とも無事か。全身に鈍い痛みが残っているが、それはまだ生きている証拠だ。アベルは深く息を吐き、ようやく胸の奥に安堵を落とした。


「……本当に、心配したんだから。馬鹿」


 嗚咽混じりの声に、アベルは返す言葉を失う。あの刹那、彼自身も死を覚悟していた。エイダムがとっさに張ってくれた防御の加護がなければ、間違いなく命は尽きていただろう。


「……あいつは? マッドベアは……」


 握ったままの剣には、分厚い毛皮に歯が立たなかった感触だけが残っている。戦慄と無力感が蘇り、アベルは呻いた。


「くそ……逃げないと……」


「アベル、もういいの」


 シスの震える声に顔を向けると、彼女は黒々とした巨体を指差した。


 そこには、小山のような毛皮を横たえたマッドベアがいた。巨脚を投げ出し、裏側を見せたまま動かない。シスもエイダムも微塵も怯えていない。すでに、息絶えているのだ。


「……まさか、お前が?」


 思わずシスを見たが、彼女は首を振る。エイダムに視線を移すと、彼も静かに否定した。


「違います。──あの農夫の方です」


「農夫のおっさんが……? 冗談だろ」


 アベルは耳を疑った。だがシスは涙を拭い、か細く呟く。


「私達も、はっきり見たわけじゃない。でも……間違いないの」


 本当なのか。もしそうならば、ただ者ではない。名のある剣士ですら及ばぬ力量を秘めているに違いない。運命のようなものを覚え、アベルは必死に男の姿を探した。


「……もう、行ってしまったわ」


「名前! 名前は聞いたんだろ!?」


 縋るような問いに、シスは沈黙のまま首を横に振る。

 ただ一つだけ、去り際に残した言葉があったという。


「──『残すなよ』と」


「……何をだ?」


 首を傾げるアベルに、エイダムもシスも答えを返さず、揃って深いため息をつくばかりだった。



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