第6話
「陛下、魔王軍が――撤退を始めました!」
砂塵にまみれた近衛の騎士が、馬上から声を張り上げる。歓喜を押し殺せぬ声音だった。
だが、英雄王トリスタンは険しい表情を崩さない。疲労で鉛のように重い瞼をこじ開け、自らの目で敵軍の退却を確かめながらもなお信じられずにいた。
「……斥候を出せ。何か狙いがあるはずだ」
「御意」
戦況は明らかにこちらが劣勢だった。
狡猾なる魔王ネフェルティ。その妖しい知略に翻弄され続けたトリスタンは、退却すら罠と疑うほど心を擦り減らしていたのだ。
対峙する平原の彼方、幾度もぶつかり合った魔王軍が土煙を上げて遠ざかっていく。兵らは歓声を上げたが、王はただ呟く。
「……次は何を企むつもりだ、ネフェルティ」
その言葉は、勝利に沸き立つ兵士たちの歓呼に掻き消された。
――敵軍から魔王の姿が消えたと、斥候が報せを持ち帰ったのは五日後のことである。
***
「この聖戦を勝利へ導きし英雄王トリスタンを、神の御前において聖人とし、帯剣を許す!」
朗々たる声が大神殿に響き渡る。そこは純白の大理石を切り出して築かれた神の居館。唯一神アケノイアを戴く信仰の総本山であった。
鐘が鳴り響き、荘厳な音色が天を揺らす。新たなる聖人の誕生を告げるその響きに、人々は熱狂の声を合わせた。
「聖王トリスタン! 聖王トリスタン!」
人波に押し流されるような喝采の中で、聖王となったトリスタンは思索を手放さなかった。
――魔王を失った軍勢は瓦解した。四天王の半数は討たれ、残余も各地に散り散りとなった。脅威は唐突に終焉を迎えた。
だが、その勝利の果実を得たのは、魔王軍を退けた己と、四天王を討った若き勇者バナージに他ならない。
「トリスタン王。聖人叙任、誠におめでとうございます」
列席者の中から進み出たのは、黄金の髪を輝かせる勇者バナージであった。その姿に驚きを装い、王は大仰に声をあげる。
「おお、勇者バナージ! この場に駆けつけてくれたか」
演出めいた抱擁を交わす二人。その姿を民衆が目に焼きつけ、神の威光を讃える。それこそ式典の真の目的であった。
だが、民衆の熱狂に隠れて、二人の囁きは別の刃を帯びていた。
「……よう、じじい。大したこともしてねぇくせに、うまいこと聖人の座をかっさらいやがって」
「ふん、クソガキが。四天王の落ちこぼれを斬った程度で英雄面するな」
聖王と勇者――後の歴史書は、両者が犬猿の仲であったとは一行たりとも記さない。
しかしこの瞬間、神殿の奥深くで交わされた毒のような囁きこそ、真実の歴史の一端であった。
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