名前のない金魚
千影えく
私の後輩の話
「私、金魚が好きなんですよー」
昼下がりの教室で、渚ちゃんは不意にそう言った。ちょうど会話が途切れたタイミングだったから、適当な話題をつくったのだろう。金魚。資料をまとめる手は止めずに私は相槌を打つ。
「そうなんだ。どこが好きなの?」
「赤くて、ひらひらしてて、ちいさくて、水の中できらきらしてるところが好きです」
ぎゅっ、と愛の詰まったそれは、存外に幼い回答だった。一つ年下の彼女は一年生ながらもしっかりしていてーー夏休みに先輩と二人きりで委員会の作業をするくらいにはーーだから私は思わず、きらきら、と口からこぼした。プリントに滑らせたシャープペンの線が、不自然に曲がる。
「そうです、きらきらです」
「もっとこう、論理的で賢い理由があるのかと思った」
「そんなあ。先輩、私、普通の十五歳ですよ」
「……それもそっか」
短い沈黙が降りて視線を上げると、渚ちゃんは口に手を当ててくすくすと笑っていた。何がおかしいのかわからない。ただ、肩まで垂れる、真っ直ぐな黒髪が揺れるのがきれいで、私はそれを静かに眺めていた。健康的なその黒は、色素の不恰好に薄い私にとっては羨ましい。
「たぶん、憧れなんですよ」
ひとしきり笑い終わると、彼女は斜め上の宙を見上げた。つられて私も上を見上げる。
「背の高い水槽にいる、うつくしくって華やかな金魚。何匹も泳いでて、でも、目の前にいるのに手は届かないんです」
そんな光景を見たことがなくて、私は曖昧に頷いた。私の目には教室の無機質な天井しか映っていないけれど、渚ちゃんにはきっと、金魚が見えているのだろう。
「それに、ほら、夏祭りとかでよくあるじゃないですか。屋台の真ん中に、大きく」
「ああ、縁日のね。子供がいっぱい並んで」
「はい、形が違くて薄いんですけど。でも、そういうの、いいなあって」
渚ちゃんが何をそういうの、と指し、どこをいいな、と思ったのかはわからなかったが、小さい頃の夢みたいなことだというのなら、私にもわかる。例えば自分の頭より大きいわたあめだとか、五十円くじの一等賞のぬいぐるみだとか。そういう、叶わないで終わって忘れていく夢を懐かしむ気持ちは。
ところが渚ちゃんは、そんな私の中途半端に大人な気持ちを簡単に飛び越えた。
「だから先輩、一緒に金魚買いに行ってくれませんか」
「え」
「金魚、好きなんです。夢は叶えるものですよ」
それに、と彼女は胸を張った。セーラー服の背が平に伸びる。
「今年の夏の目標なんです。素直に生きるって」
面食らった。けれど、なんだそれは、とは言わずに肩をすくめてみる。思春期的な青くささと、言いようのない眩しさ。
「それは……壮大な目標だね」
「はい。だから、先輩、手伝ってください」
私はスケジュール帳も確認せずに、「はいはい」と請け合った。私と違う方向の、けれど懐いてくれる可愛い後輩。夏休みをちょっとわけてあげることくらい、訳ない。
「その前に委員会の資料作成、終わらせないとね」
「あと何回分くらいあるんですか?休日登校」
私は残りの仕事を思い出し、指を折って数える。他の委員は来ないだろうから、二人でやるにはまだまだ先が長い。
「三……や、四かも」
「わー。じゃあ私、次から宿題持ってきますね」
「……まさか担当分終わった?」
「はい」
屈託のない笑顔に、苦笑い。さすが要領のいい後輩だ。
「それならもう来なくても大丈夫だね」
「来たいです。先輩だって、一人じゃつまらなくないですか?」
「まあ確かに。じゃあ明日もここで」
短い約束をして、私はまた資料に向き直った。渚ちゃんは数学のテキストを広げて、教室にはクーラーの作動音だけが聞こえていた。
「先輩」
そのあとに小さい「っ」が入りそうな、少し飛び跳ねた音で呼びかけられる。
「アイス、食べましょうよ」
夕暮れの中、渚ちゃんは軽やかに坂を下りながら言った。確かに7月も終わりに近づいた今日は、昼間ほどじゃないにしても暑い。
「仕事、せっかく終わったんですから」
「まあね。じゃあ、付き合ってもらったお礼に買ってあげようかな」
「わーい、ありがとうございます!」
近くのコンビニに入り、冷凍のアイスコーナーを一周したあと、渚ちゃんはコーンつきのいちごアイスを選んだ。私はそれと同じシリーズのバニラを手に取りレジへ並んだ。
「外でね」
「はい、待ってます」
会話を交わして数分後、会計が終わって自動ドアをくぐると、駐車場前の銀色のU字に腰をかけている渚ちゃんを見つけた。少し上がっている視線の先を追うと、そこはたった今下ってきた坂の上の学校で。それは、どこか不思議な光景だった。その眼差しも、半袖から伸びた白い肌も、まだ新しい靴のつま先も、全部が西日に照らされて丸みを帯びている。纏う雰囲気が消えてしまいそうなほど儚くて、少し焦った。それを誤魔化すみたいに、ゆっくりと意識して声をかける。
「まだ夏休みは長いよ」
渚ちゃんは首をちょこんと傾けて、「せんぱーい」と甘えて笑った。
「アイスありがとうございます」
「いえいえ。こちらこそありがとね」
「それで、夏休みってなんですか」
コーンを両手で持って、渚ちゃんは淡いピンクにかじりつく。数秒後においしいです、と添えられた。
「学校見てたから」
「あー、なんか気になっちゃったんです。遠くからだとあんなふうに見えるんだなって」
「どう見えたの?」
私はチープな匂いのするそれを小さく舐めた。柔らかな甘みが舌を冷やしていく。
「思ってたより小さくて、驚きました。ずっといたのに」
「ずっとって。まだ入学して三ヶ月でしょ。これからの方がもっと長いよ」
当たり前のことを言ったのに、間を置いて「先輩賢いです」なんて返ってきた。冗談めかして、私の後輩は時々つかめないことを言う。普段はしっかりしているその裏側で、一体何を考えているのだろう。それはもちろん、聞かないけれど。部活に入っていない私にとって、渚ちゃんは私の唯一の後輩だ。でも彼女にとって私は、有象無象の先輩の一人。委員会の先輩後輩。ただそれだけ。踏み込むほどの関係ではない。
「あ、先輩」
「何?」
「アイス溶けてます」
手を見るとクリーム色の雫が滴っていて、思わず濁った「あっ」を発してしまった。
「ティッシュいりますか?」
「ううん、大丈夫。教えてくれてありがと」
ハンカチで甘い匂いの右手を拭く。いけない、考えごとをするタイミングじゃなかった。二つのことを同時並行できるほど、私は器用ではないのだから。
気を取り直し、黙ってアイスを口で溶かす。渚ちゃんも静かに食べていた。
ほとんど同時に最後の一口を終えた頃、私は隣をふり向いた。
「そうだ、金魚、いつ買いに行こうか」
「先輩はいつ空いていますか?」
「んー八月の初めの方に夏期講習が入ってるくらいかな。それ以外はたいてい暇」
「じゃあ、金魚の前に行きたいところがあるんですけど」
「え」
ゆっくりと瞬きをした。けれど、渚ちゃんは変わらずまっすぐに私を見ている。黒目がちな瞳と、ぎゅっと引き結ばれた唇。驚きと緊張で、時間が止まったような気がした。
「い、いよ。うん、全然。どこ行きたいの?」
「……博物館に、行きたいです」
少しの間の後、絞り出すように渚ちゃんは言った。
「そうなんだ。じゃあ、行こっか」
「ほんとですか? 嬉しいです。ありがとうございます、先輩っ」
はしゃいで笑う様子はいつもの渚ちゃんで、ほっと胸を撫で下ろした。さっきは何だか違ったように見えたけれど、勘違いだったのかもしれない。
「せんぱい?」
「あっごめんね、何でもないんだ。場所どこがいいかな」
「そうですねー、都内の方か、少し遠くて広い方か……」
んー、と視線を上げて思案する。そんな姿でさえもら頭のてっぺんから足先まで隙がないと思える。それほど、渚ちゃんは完璧だ。完成された女の子で、後輩で。だからきっと、さっきの不安は私の思い込みだ。
博物館楽しみだね、と言うと渚ちゃんはふんわり笑った。本当にかわいい笑顔をする子だな、と私は静かに感心した。
「先輩っ」
駅構内。呼びかけに顔を上げ、読んでいた文庫本を仕舞う私に、渚ちゃんは小さく頭を下げた。膝下のスカートが揺れる。初めて見る私服姿だ。
「お待たせしてすみません」
「全然。私が早く来すぎちゃっただけだよ」
まだ待ち合わせまで十分近くある。渚ちゃんが謝ることはない。
「行きましょうか」
「うん」
駅を出て博物館に着くまで、他愛のない会話をした。基本的に委員会でしか会わない仲なのに、渚ちゃんはうまく私と話してくれる。私の服の話、出かけた場所の話、来月の文化祭の話。ただ相槌を打つだけでも、彼女は楽しそうに先を続ける。私にはできないことだ。
目的地に着いてからは、並んで展示品を見回った。渚ちゃんが選んだのはあまり遠くない、小さな博物館だった。恐竜の骨格標本が置いてあるのが特徴な、誰にでも楽しめそうな所。渚ちゃんらしい選択だと思う。
「大きいね」
何かの恐竜の頭蓋骨を二人で見上げる。目も皮膚も肉もなくなった、無機質で空っぽな姿。
「きれいです」
「……骨が?」
「はい。それに、ずっと昔に生きていて、けれど亡くなってしてしまった生き物が目の前にいると思うと、なんだか不思議で素敵で」
語る渚ちゃんの眼差しは真っ直ぐで。それはいつか金魚の話をしていた時のようだった。私の知っている彼女から、遠くなっていくとき。
「こんなことを言ってはいけないと思うんですけど、死ってどこか、美しいと思うんです。もちろん生も、美しいんですけど」
そう言って、照れ隠しのように小さく笑った。話が終わったことに、言いようのない安堵を感じる。
彼女は時に、ロマンチストで饒舌だ。でもそれは間違いなんだと思う。偶然なんだと思う。渚ちゃんは大して仲の良くない先輩相手に、自分の価値観を表したりしない。
渚ちゃんの全身を視界に収める。黒髪がきれい。姿勢がいい。服装がふさわしい。うん、私の知ってる渚ちゃんだ。
「先輩は……」
「うん?」
「……せんぱい、靴ひも、ほどけてます」
「えっほんと?」
気づかなかった。さすが渚ちゃん、と心の中で呟いた。
昼食を取った後は駅に戻り、雑貨屋などを見て回った。たくさん歩いて、たくさん話した。こんなに彼女と話したのは初めてで、けれど飽きることはなかった。
辺りのお店に入り尽くしたころ、渚ちゃんは不意に立ち止まった。日は暮れ始めていて、影が薄く落ちる。
「先輩、やっぱり、靴ひもほどけてますよ」
「あっ。……本当だ」
道の端に寄ってしゃがみ、アスファルトに垂れたひもをつまむ。
「不器用ですね、先輩は」
声が降ってきた。手を動かしたまま答える。
「うん……器用じゃないからね」
「そうですね。……でも、私も」
「えっ」
引っ張りすぎた蝶々結びの輪が歪む。でも今は靴紐なんてどうでもいい。顔を上げると、渚ちゃんは、なんだか困ったような顔をしていた。
「先輩は、私のこと好き、ですよね」
「うん」
「でも、もしかしたら……苦手だったりもするんじゃないかなって、思うんです」
「……え」
不自然な苦笑い。私の知らない表情。どうしてこんな顔をしているのだろう。胸の奥が重く濁っていく。
「……距離が、遠く感じるというか。……嫌われているわけじゃないというのは、わかってます」
「……遠い、かな」
「……私はそう思います。もっと、仲良くなれたらって」
違う。渚ちゃんは、もっと余裕があって、完璧で、つかめなくて、こんな必死に気持ちを伝えたりしない。私と仲良くなろうとなんてしない。思ったとしても、きっと戯言のような雰囲気でしか言わない。
そういう子だ。……そのはずなんだ。
「……仲良しだよ」
「……」
「もう、十分」
距離が近付く必要なんてない。このままでいい。近付いたら、余計なことに気づいてしまうかもしれない。そんなの何の意味もない。
「……せんぱい」
「何?」
「……冗談です!」
渚ちゃんがにっこり笑った。そう、この顔。いつも通りの、私の好きな顔。
「帰るのが寂しくて。先輩にかまってもらいたくなったんです」
「そっか。でも、次もあるでしょ」
「そうですね。お付き合いお願いしますっ」
お互いの予定を考え、金魚を買いに行く日は夏休み最終日となった。渚ちゃんはまだまだ友達と遊びに行くらしい。満喫していて何よりだ。
「今日はありがとうございました」
改札を通った後、渚ちゃんはそう微笑んだ。
「先輩とおでかけできて、楽しかったです」
「ありがとう」
「来週もよろしくお願いします」
「うん。またね」
「はい、また」
二回目の待ち合わせは、渚ちゃんの方が早く着いていた。私を見るとぱっと顔を明るくし駆け寄ってくる。
「せんぱいっおはようございます」
「おはよう。早いね」
「先輩もです」
今日の渚ちゃんの服もかわいかった。襟付きのシャツにプリーツのスカート。よくわからないけれど、きっと女子高生に人気のブランドなんだろう。髪には金の細いピンがついていて、かすかにヘアオイルの匂いがした。
渚ちゃんは前回と同じく私の服を褒めたあと、
「行きましょうか」
と歩き出した。そしてまた、いろいろな話をする。誰が聞いても満点と思うような雑談。今日は特に完璧だ。どうすればこんな人間になれるんだろう。もしかしたら違う星から生まれたのかもしれない。
目的であるアクアリウムショップに着くと、渚ちゃんは控えめに、けれど確かに目を輝かせて水槽同士の間を進んでいく。その後ろ姿を見て、今日渚ちゃんは一度も金魚の話をしなかったことに気がついた。図書委員の帰りは学校、博物館の行きは恐竜。関連する話をしていたけれど、今日はしていない。なんだか気になった。不思議に思うほどのことではない。ないけれど、少しだけ。
いろいろな魚の水槽を眺めながら奥へと歩く。きれいなもの、かわいいもの、どちらでもないもの。渚ちゃんは何が好きなんだろう。何が好きであっても、かわいくてきれいな渚ちゃんに似合う魚は、存在しないように思えた。
「先輩、金魚です」
ふり返って渚ちゃんが笑う。そして、静かに金魚へ視線を移した。何も語ることはせずに、何十と並ぶ水槽の中をじっと見ていた。
「先輩は金魚、好きですか」
「どうだろう……普通かな」
目の前を泳ぐ金魚を見てみる。ひれがふわふわ頼りなげに揺れ、小さな口が開閉をくりかえし、思っていたより黒目がぎょろっとしている。少なくとも、美しいという感想は抱けなかった。
「ほしかったの、こういう金魚で合ってるの?」
思わず口にしてしまった。渚ちゃんは驚いたように目を丸くしたあと、また微笑む。いつもより少し、優しい顔だった。
「そうですね……合ってはないかもしれません。でも、この子もすごく好きです」
簡潔な回答だった。それがどこかもの足りなく感じて、なんだかおかしな気分だった。
渚ちゃんは金魚を1匹選んで、そしてその子の水槽や餌も決め、会計を済ませ店を出た。渚ちゃんの表情は明るかった。
「よかったね」
「はい。お付き合いありがとうございました、せんぱい」
何もしてないし、このためだけに誘われた理由がわからなかったけど、渚ちゃんが喜んでいるならそれでいいか。そう思って、あいまいに頷いた。
夕暮れの帰り道。渚ちゃんはいつもよりほんの少しだけゆっくり歩く。今日はいつもと違うところが多い。どうしてかはわからないし、わからないままでいいはずだけれど。
「名前、どうしましょう」
「好きなのつけたらいいんじゃない」
「つけられないかもしれません」
「なんで?」
「大切だからです」
よくわからない理屈だった。でも渚ちゃんが言うのなら、それはそうなんだろう。
「がっこう」
学校の見える場所を通ると、渚ちゃんがぽつりと呟いた。
「明日からだね」
「そうですね。でも、私、明日は……明日も行かないんです」
「家の用事?」
「……はい。行けたらよかったんですけどね」
ためらったあと、渚ちゃんは肩をすくめた。
そのあとは、何も言わない時間が何分か続いた。初めてのことで、私は戸惑った。だけど何も言えなかった。
「憧れに近づけました」
前を見たまま渚ちゃんは言った。突然だった。
「そうだね」
「でも、素直には生きられませんでした」
「え?」
渚ちゃんは歩く速さを上げて、私より前を行く。ふり返らないまま、話を続ける。
「先輩の好きじゃない自分を見せるのが怖くて、だから、夏の目標は達成できませんでした。でも、それでもいいですよね。失敗の一つくらい、あってもいいですよね」
「……なんのこと?」
渚ちゃんの後ろ姿についていく。鼓動が速くなる。こわいと、思う。何がかはわからない。
「不器用な先輩が好きです。でも、先輩、きっと不器用すぎるんだと思います」
「……どうして」
「だって先輩、一度も名前を呼んでくれなかった」
ふり返った渚ちゃんは眉を下げて困ったように笑った。私でも、傷ついてることが、はっきりわかるような、そんな笑み。
「そ……んなこと」
ない、とは言えなかった。呼ばなかったかもしれない。自信がなかった。話すのが下手だから。下手なのに、直そうとしてこなかったから。
「でも、いいんです。私も呼べなかったから。先輩のこと、特別だったから、そして呼んでくれなかったから、呼べませんでした。一度もです。だから私もごめんなさい」
何か言おうとして、でも何も言えなかった。謝らないでほしかった。彼女の言う特別の意味と、悲しませた罪悪感に頭がぐらぐらと揺らされている。
「ほんとうに、いいんです。私が決めたんです。先輩の望む私でいようって。上辺だけでも、仲良くなれなくても、それでいいって。だから、この話も全部、冗談ですよ、せんぱいっ」
黒い髪をなびかせて、痛いくらい眩しい笑顔で渚ちゃんは立っていた。私は黙った。とても、最低だった。
「今日は本当に、ありがとうございました」
「……うん」
ようやく出てきた言葉に自分でも絶望した。けれど渚ちゃんはやっぱり優しい顔をした。
「わかってますから、大丈夫です。先輩は顔に出づらいですけど、その代わり、ちょっとの違いでわかるんです」
私はわからないことばかりなのに、なんで渚ちゃんにはわかるんだろう。でもそれが特別な人間だからと言うだけではないことは、今の私にはわかる。それだけは、確かに。
「先輩はいい人です。だから、好きでした。きっとずっと好きだと思います」
そう言ってまた歩き出した渚ちゃんを追いかけた。気がついたら駅に着いていた。
渚ちゃんは私を正面から見つめて、わずかに悲しそうに微笑んだ。黒い髪からヘアオイルの匂いは消えていて、金色のピンも少しずれていた。渚ちゃんも本当は、そういう人なんだ。完璧な人間ではないんだ。そのことが悲しくて、嫌で、そんな自分がもっと嫌だった。
そしてそんなことを一つも伝えられないまま。
「さようなら、先輩」
渚ちゃんは背を向けて歩き出した。
「な……っ」
私はたった数文字の名前が呼べなかった。一人で人並みの中に取り残されて、しばらく立ち尽くしていた。
次の日、始業式の委員会に渚ちゃんは来なかった。いつもは遅刻なんてしない。言いようのない苦い気持ちが胸に広がっていく。そして彼女が来ないうちに集まりは終わり、耐えられなくなって名前も知らない後輩に渚ちゃんのことを尋ねた。答えはすぐに返ってきた。転校したと。親の都合の転勤だったと。
心臓がぎゅっと痛んだ。同時に、理解もした。渚ちゃんがあんなに悲しそうで、あんなに懸命に伝えたがっていたのは、このためだったんだと。
呆然としていると、他の委員の人は帰っていき、教室にいるのは私だけとなった。
ゆっくりと心を後悔が蝕んでいく。私が完璧な人間を求めたからだ。渚ちゃんは、仲良くなりたいと思ってくれていたのに。そのために見せてくれた彼女の取り繕わない姿を、私は拒否したんだ。遠ざけて、何でもできて私が憧れる渚ちゃんを見ようとしたんだ。だからそう振る舞ってくれた。
好きでいてくれてたのに、私も好きだったのに、私の勝手な気持ちで……。
苦しくて、けれどもうどうしようもできなくて、とりあえず帰ろうと立ち上がり、資料を取るために机の中に手を入れた。
指先に固いものが当たり、りん、とかすかな音がした。
出してみると、それは金魚の根付とメモ用紙だった。メモには先輩、とだけ書かれている。金魚は澄んだ赤に花の細工が施してあって、ひれの曲線がうつくしくて。それは、私が理想とするきれいでかわいいものだった。
完璧だった。でも、それが悲しかった。すごく嬉しくて、いとしくて、途方もなく寂しかった。
渚ちゃんとはもう会えない。連絡先も知らないし、どこにいるかもわからないし、きっと二度と会わないだろう。渚ちゃんもそれは望まないはずだ。だって、完璧な後輩でいてくれたのだから。最後まで、私のために。
「……先輩にしてくれて、ありがとう」
こぼれるように口をついた。どうして、渚ちゃんに言ってあげられなかったのだろう。さよならも、好きも、ありがとうも、どうして今さら伝えたくなるんだろう。
力が抜けて、椅子に座り込んだ。机の金魚を拾い上げて、蛍光灯に照らした。それは渚ちゃんの言うように、きらきら、だった。
金魚を買った後に言っていた言葉を思い出した。
名前をつけられない、と。大切だから、と。
確かに、つけられるわけもなかった。大切だった人の名前すら呼べなかったのだから。
揺れる、作られた金魚を見つめ続ける。痛みがじくじくと体の深くを刺す。忘れなければいいと思った。
彼女には、生きて、幸せになって、そして静かに忘れてほしいと思った。
でも、もしも叶うのなら。
あの金魚が水槽を泳ぐとき、私のことをほんの少しだけ、思い出してほしい。
名前のない金魚 千影えく @nanohana_yagi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます