第34話 懐かしい人々の下へ

お義父様の命日のミサの帰り道、途中で体調を崩した私はそれ以来ずっと臥せったままだ。

あれから何日たったのだろう。

毎朝お花とカードを届けて枕辺を見舞ってくれるクロードとヴィクトリアの顔を見る事で、あぁ、今日も朝を迎えられたと安堵する。


逝くのが怖い訳ではない。

もう一度この目にあの丘の風景を焼き付けておきたいのだ。



◆◆◆

領主として葬儀を取り仕切り、大公邸の皆で弔問の対応に追われる日々がようやく落ち着いて、慰霊碑にお義父様の名を刻むために領内一の石工を伴って丘の上の教会の扉を潜ったのは、お義父様を迎えたあの日から2か月が過ぎた頃だった。

名入れをしてもらっている間、教会で祈りを捧げた後、二人の墓標の前に座りいつもの長話をする。


(もう二人ではないわね。お義父様もきっとご一緒ね。来るのがすっかり遅くなってごめんなさい。言い忘れていたのだけれど、棺の中のお義父様の胸のポケットにオフィーリア姉さまの形見の小枝の髪飾りを入れたのよ。入れる時に何を入れたのかお伝えしなかったから気になっていたの。でもきっとお分かりよね?

これからパーシヴァルの大公就任の準備をするの。しばらくは忙しくてなかなか会いに来られないけれど、引退したら毎日でも来られるようになるわ。

そうそう、お義父様の喪が明けて春になったらルイスとマルグリットの娘のヴィクトリアがガレリア侯爵家の末っ子で子爵位を継いだロバート卿の下へ嫁ぐことが決まったのよ。ルイスは元王子とはいえ爵位を持っていないから私の養女にすると言ったんだけど、大公息女なんて恐れ多いって断られてしまったの。そしたらチャールズが養女にすると言ってくれて、フォルン伯爵令嬢として嫁ぐことになったのよ。もちろん私も後ろ盾になるけれど、ずっとそばで成長を見守って来たヴィクトリアに一時でもお義母様って呼んでもらえると思ったのに残念だわ。それとね、ルイス夫妻がヴィクトリアの輿入れについてガレリア領の中にある子爵領へ移り住むのですって。二人は長い間ずっと支えてくれたから、これからは好きな事をして幸せになってほしいわ。寂しいけれど・・・)


取り留めなく話す私をレイヴンが少し離れた位置で見守ってくれている。

私の参謀であり、今では側近として付き従ってくれてるレイヴンには、私がブレナン女大公を引退した後の身の振り方をまだ聞けずにいる。

騎士団とパーシヴァルの参謀としては、お義父様とレイヴンがその才能を見出して育て上げ、めきめきと頭角を現したトマスという青年が付いている。

トマスの成長と入れ替わるように、レイヴンは参謀としての一線を退き私の側近となったのだった。


常に影のように付き従うレイヴンと私の関係を口さが無く噂されたこともあった。

一代限りの騎士爵の息子であったレイヴンが、父母を相次いで病で亡くした後に当時の騎士団長の養子となり、公爵であったお義父様にその才能を見出されて歴代最年少で参謀として取り立てられ、更には新たな主となった女大公の側近にまで上り詰めたのだ。

その過程で向けられる嫉妬や嫌がらせなどは相当なものだと、お義父様と当時の騎士団長の口ぶりから察することが出来た。

それにも折れず、腐らず、周囲を圧倒的に凌駕する実力を付ける事でいつの間にか彼を誹謗中傷する者がいなくなったという。その裏の血の滲むような努力はいかほどだっただろうか。

そんなことを微塵も感じさせず、常に冷静で穏やかな物腰で付き従い、出過ぎず的確な助言をしてくれる頼りになる年上の男性。

その感情が今まで支えてくれた人々への信愛の情と違うものだとはっきりと意識したのは、慰霊祭で白のサッシュベルトを身に着けたレイヴンの姿を目にした時だった。


有能で物腰の柔らかなレイヴンに近づこうとする女性が大勢いる事は知っている。

婿がねとして多くの家から望まれている事もお義父様から聞かされていた。

それと同時にレイヴン自身にその気がなく、養親の騎士団長がそうした縁談や紹介を断るのに苦労しているとも聞いていたのに。


その中のどなたかを見初めたというの?

貴方の心を独り占めしているのは誰なの?

貴方の紅茶色の瞳にもう私を映してはくれないの?


初めての感情に翻弄され、それから数日は気も漫ろで何をしてもいつものように捗らなかった。

このままではいけない。

彼に想い人が居るならこの思いは摘み取って上手く行くように後押ししよう。

まだ芽吹いたばかりの今なら痛みは少ないはず。


そう意を決して盤上の模擬戦を申し出た。

模擬戦の間は、従者たちも侍女たちも盤上から少し距離を置いて控えている。

声を押さえれば皆に内容は聞こえない。


模擬戦の終盤、レイヴンの名の入った駒を動かしながら呟いた。


「白の矢の向く先、紫の花の名は?」


レイヴンは私の名の入った駒を正面に動かして答えた。


「射手は(白)( bianca)の眩しさ故に目が眩み、永遠に放つ事はありません」


紅茶色の瞳に私だけを映してそう告げられた。

ここ数日の私の様子でレイヴンには私の気持ちは気付かれていたと思う。

その上で、想い人は私であり、しかし永遠にその想いは表に出さないと言われたのだ。

それは私を護る為だとはっきりわかる。

私とレイヴンの関係を勘ぐった口さがない噂は、今は鳴りを潜めてはいるものの、ほんの少しのきっかけで今度は更に大きく膨らんでいくのだ。

彼の今までの努力と功績を、女大公の男妾などと言う不名誉で汚す事は決してしない。

その日以来、私とレイヴンは今まで通りの距離を保ち続けた。


乗馬の訓練を終え、先に馬を降りて私に手を差し伸べるレイヴン。

彼の手を取ることが出来るのは、馬を降りるこの時だけ。

その手から伝わる温もりだけを恃みに、私もこの感情を墓場まで持っていく。



パーシヴァルの大公就任を見届け、私が女大公を引退した後の身の振り方を相談すると、レイヴンは笑って『ビアンカ様に要らないと言われない限りどこまでもお供しますよ』と言い、側近として支え続けてくれた。

身軽になった私は、毎年ブレナン領の慰霊祭を終えると手元に残した出版事業の商談の要となるガレリア領へ赴き、お母様から譲られた別邸に滞在して、王国で一番美しいと言われるガレリアの初夏を過ごす事を楽しみにしていた。

お母様とトビアス閣下とシェリル様のお墓参りも兼ね、一人娘のヴィクトリアの結婚と共に移り住んだルイス夫妻やフォルン伯爵となったチャールズの家族に温かく迎えられ、彼らの子や孫たちに囲まれた交流も心地よかったのだ。

穏やかで博識なレイヴンは請われるままボードゲームや勉強や剣の練習に快く付き合っていて皆から慕われていた。

『養父も亡くなり、天涯孤独の私には過ぎた幸せです。

叶うことなら人生で一番幸せな時を過ごせたこの地で眠りに付きたい』

折に触れてそう口にするレイヴンの幸せそうな顔が見られる事もこの地で過ごす理由の一つだった。


そうしてこの地で思い出と幸せを積み重ね、子供たちも次々と巣立って行った頃の事だった。

その日はお天気が良かったのでガレリアの初夏を存分に楽しむために遠乗りに出かけたのだった。

その帰り道のもう間もなく別邸に到着するという場所で、私の乗った馬が、鷹に追われて草むらから突然飛び出してきたウサギに驚いて暴走した。

出来るだけ落ち着いて馬を宥めたけれどうまくいかなかった。

目前にある低い石垣は下に2メートル程の段差になっていて、私を乗せたまま飛び越えたら私も馬も無事では済まない。馬が飛び越える前に飛び降りる覚悟を決めて手綱を離し、振り落とされる瞬間、追いついて馬から飛び降りたレイヴンに抱き留められ、そのまま石畳の地面にたたきつけられた。


「ビアンカ様! ビアンカ様!ご無事ですか」


そう言ってレイヴンの伸ばした手が私を探して空を切る。

目の前にいる私が見えていない。


「私は大丈夫、あなたが守ってくれたから大丈夫よ。

私はここにいるわ」


レイヴンの頭を膝に乗せ、手を握って必死に話しかけた。


「もうすぐ助けが来るわ。もう少しの辛抱よ、大丈夫、私がずっと側に居るわ」


レイヴンは存在を確かめるように握った私の手を両手で握り返し、その目は私を探し続けている。


「ビアンカ様、ご無事で良かった。

どうかお願いです、名を呼んでください」


私はレイヴンの手を握りしめたまま頬に宛てて何度も何度も彼の名を呼んだ。


「レイヴン、レイヴン、私はここにいるわ。だめよレイヴン!目を閉じないで!レイヴン!」


目を閉じたまま私の呼びかけにも答えは無いが大丈夫、弱々しくも握った手には力がありまだ脈がある。知らせを受けて駆けつけてきたガレリア家の人々によって本邸に運ばれる間も、ずっと手を握り名を呼び続けた。


本邸に用意された部屋で医師の診察と治療を受けている間もレイヴンの容態が気になり気が気ではなかった。

早くそばに行かなければ、ずっとそばに居ると約束したのに、名を呼び続けなければレイヴンが私を置いて逝ってしまう。

応急処置を済ませた私は、周囲の制止を振り切ってレイヴンに付き添い名を呼びつづけた。


レイヴン レイヴン 目を開けてもう一度私を見て。 

レイヴンお願いよ、私を置いて逝かないで。


私の願いは届かず、レイヴンの意識は戻ることなく静かに息を引き取った。




ずっと足の感覚がなかった事も目に見える幾つもある大きな傷が全く痛まない事にも気づいたのはレイヴンの葬儀が終ってからだった。


傷が癒え、車椅子に乗ってブレナン領へ戻った私は真っ先にレイヴンの名を慰霊碑に刻んだ。

周囲へは、レイヴンは私を護る為に命を落とした事を公表し、その行動を賞賛すると共に側近を死なせてしまった事への贖罪を誓った。

レイヴンは彼の希望通り幸せな思い出の詰まった温暖なガレリア領で安らかに眠っている。

いずれ私もその傍で眠りにつくと決め、遺言として残している。


レイヴンは必ず迎えに来てくれる。

私が逝くその日にきっと。




◇◇◇

カーテンを開けた窓から抜けるような青空が見える。

今日は目覚めた時から少し気分が良い。

朝、私室に見舞いにやって来たロバートとヴィクトリアにおねだりして丘の見えるテラスに連れて行ってもらった。

久し振りにダフネに優しく髪を整えられ、薄化粧をしてもらうとなんだか心も引き立つようだ。

丘の斜面は若草色にその装いを変え、開け放ったテラスの窓からは爽やかな初夏の風が舞い込んでいる。

新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んで、車椅子を押すロバートとそばに座ったヴィクトリアとダフネに、昔、皆で過ごしたガレリアのようねと話しかけた。



不意に目の前に広がる景色が懐かしい風景に移り変わった。

丘の斜面を覆う水色の花畑の頂上には二人の墓標も教会もない、子供の頃に三人で駆け回った懐かしい風景だった。

見送った人々との思い出の走馬灯が終わりを告げたことを悟った時、後ろに気配を感じ車椅子が押された。


振り返らずとも誰なのかはわかる。


しわくちゃなおばあさんになった私を見て、彼に嫌われたらどうしよう。

そんな少女のような心配が心を過ぎる程に、最期まで口にする事のなかった胸の内に秘めた感情はあの頃のまま暖かな光を灯している。


風景の手前で車椅子が止められ、前に回った彼が振り返り私に手を伸ばした。


あの時と同じ。


レイヴンの紅茶色の瞳に写っているのは、あの日思いを告げられた私の姿だった。

その瞳を見つめたまま手を取ると、ふわりと体が軽くなりそのまま導かれるように風景の中に吸い込まれた。


地面に足を付けて立つのは何年ぶりだろう。

見上げるとレイヴンの懐かしい眼差しが目の前にあった。

微笑みを返し、促されるまま丘の上に視線を移す。

そこには水色の花畑の中に並んで立つレナート兄さまとオフィーリア姉さまの姿があり、オフィーリア姉さまが大きく手を振っている。


やっと辿り着けたのね。

すぐに行くわ。

思わず駆け出そうとして、ふと振り返った。



丘の見えるテラスで、車椅子に坐り微笑みを浮かべて眠るように動かなくなった私を、ロバートが支え、ヴィクトリアとダフネが手を取り静かに見送ってくれている。



幸せだったわ。

本当にありがとう。



風景の中の住人となった私は皆に別れを告げ、懐かしい笑顔で恭しく手を差し出したレイヴンの手を取って丘の上で待つふたりの下へ向かう。



ずいぶん待たせてしまったわ。さあ、私の自慢話を聞いてちょうだい。

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