第13話 ep3 黒ずんだ魔女の森


13話 黒ずんだ魔女の森


 フィリストの北方、黒ずんだ森。

 そこには、地図にすら載らぬ「怨念小屋」があると噂されていた。


 森の入り口に立った時点で、すでに空気はよどんでいる。湿った風が衣服を貼りつけ、まるで何かに引きずり込まれるかのように重苦しい。木々は幹の半ばから黒ずみ、葉は今にも落ち尽くそうとしていた。かつて繁った緑はどこへ消えたのか、この森だけが別の死の世界に繋がっているかのようだ。


「……ジメジメして気色悪いな」

 剣を背負ったカイルが、吐き捨てるように言った。


「同感だよ。空気がねっとりしてる。人の気配もない」


 俺は額の汗を拭いながら応じた。まだ昼のはずなのに、森の中はすでに黄昏のような薄闇に包まれている。


 カイルが声を張る。

「そっちには何かあったか?」


「いや、何も。人っ子ひとりいないよ」


 その時だった。

 ――ワオォォン!


 森の奥から、鋭い遠吠えが木霊した。低く、長く、耳の奥に爪を立てるような声。鳥たちが一斉に飛び立ち、森の静寂はかえって重苦しさを増す。


「……狼か」

 カイルは即座に剣の柄に手をかける。

「剣は常に抜けるようにしておけよ。ここじゃ何が出るか分からん」


「了解」


 俺は息を整え、能力を解放する。

 意識が肉体からふわりと離れ、視界が一気に広がる。空へ、さらに上空へ――。

 だが、すぐに限界が来た。


 どんよりとした雲が厚く覆い、上空からはほとんど森の地形が見えない。濁った水の中で目を開けているような、そんな閉塞感。


「……駄目だ。見通せない」


 探索を続けて一時間。日はみるみるうちに傾き、森は闇へ沈みつつあった。フィリストの地方は夜が早い。油断していると、あっという間に星空に閉ざされてしまう。


 その時、かすかな光が闇を裂いた。


「……あれは?」

 森の奥に、一筋の明かりが瞬いている。松明か、あるいは焚き火か。


「おーい、カイル! なんか見つけたぞ!」


 二人で慎重に近づいていく。足音を忍ばせ、落ち葉を踏む音すら気にしながら。やがて光源の輪郭が明らかになってきた。


「……家だな」


 カイルが低く呟く。北の森のはずれに、確かに一軒の家が建っている。

 だがその瞬間。


 ――ぐわぁあああああっ!!


 背後から重い咆哮が轟いた。

 振り返った俺の目に飛び込んできたのは、腐敗し、肉のそげ落ちた巨大な熊。骨が剥き出しになり、眼窩の奥には暗い炎が揺らめいている。


「っ!! カイル、危ない!!」


「うわぁっ!?」


 熊が大木を薙ぐような腕を振り下ろす。地面が震え、腐臭が一気に広がった。


「――天転契約! 反転盾界!!」


 俺は即座に詠唱を走らせた。透明な結界が弧を描き、熊の爪を受け止める。その衝撃は腕の骨がきしむほどだったが、結界は辛うじて耐え、力を反転させて弾き返す。


 ドゴォン!


 腐敗熊がのけぞり、土煙が舞い上がる。


「カイル! 無事か!」


「あ、ああ……助かった」

 カイルは荒く息をつき、剣を構え直した。その瞳は怯むどころか、むしろ炎を宿している。

「どうやら……こいつは“魔女の守護神”ってやつらしいな」


「なら斬るまでだ! ――斬鉄剣! 水面斬り!!」


 カイルが踏み込み、剣を振り下ろした。水面を割るような斬撃が熊の身体を切り裂く。腐臭と黒血が飛び散り、獣の叫びが夜空を震わせた――その時。


「ストォォォップ!!」


 鋭い声が森に響き渡った。

 黒いマントを翻し、ひとりの女がこちらへ駆けてくる。


 長い黒髪、若さを残した顔立ち。しかしその瞳は年齢に似合わぬ強さを宿していた。


 女は俺たちの前に立ちふさがり、両手を広げて叫んだ。

「その熊に手を出さないで!」


「なっ……?」


 彼女が近づいてくる。顔をよく見れば、どこかで見覚えがある。


「……あんたは……魔馬車に乗っていた……たしか、えっと……」


 女は口角を上げた。

「リゼリア。私の名は、スコッチ・リゼリア」


 カイルが目を細める。

「その家……まさか、あれはお前の家か?」


 リゼリアは微笑んだ。

「ああ、そうよ。怨念小屋――あれが私の家」


「……は?」


 俺とカイルは同時に声を上げた。驚愕と疑念が入り混じった叫びだった。


「お前が怨念小屋の魔女!? こんなガキがかよ!」


「ガ、ガキ!? 失礼ね、私は18歳よ!」


「ガキじゃねぇか!」


 カイルが吐き捨てるように言うと、リゼリアは頬を膨らませた。


「それより!」

 彼女は指を鳴らす。すると腐敗熊はおとなしく背後に退き、森の影に溶け込んでいった。

「この森の夜は危険よ。立ち話してる場合じゃない、早く家に入りなさい」


 俺は肩をすくめた。

「怨念小屋の魔女との初対面がこれか……」


 噂に聞いた「怨念小屋」は、骸骨を飾り立てた呪われた館を想像していた。だが、実際に目の前に現れた家は違った。


 白木の壁に、手入れされた庭先。窓からは温かな橙色の光が漏れ、玄関扉には新しい鉄の取っ手が光っている。王都の街並みにあっても違和感のない、むしろ立派すぎるほどの家。


 扉を開けて一歩中へ踏み込むと、薪の弾ける音が耳を打った。暖炉の炎が部屋を照らし、木製の家具や清潔な絨毯が整然と並んでいる。

 キッチンには調理器具がきらめき、壁には本棚が並んでいた。


「……なんだこれ」

 カイルが眉をひそめる。

「怨念小屋ってより……貴族の別荘じゃねぇか」


 俺も唖然としながら呟いた。

「ここ、本当に“怨念小屋”なのか……?」


 リゼリアはいたずらっぽく笑い、肩をすくめた。

「噂ってのは、往々にして尾ひれがつくものなのよ」


 そう言って、彼女は暖炉の前に腰を下ろした。




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