第12話 ep2 怨念の魔女
第12話 魔女編 怨念の魔女
フィリスト地方の朝は鈍く、どこか湿った匂いが漂っていた。
霧が薄く町並みを覆い、空気そのものが色を失っているかのように、全てが灰色に沈んで見える。
アダはその景色を見慣れてしまわぬよう、胸の奥で小さく息を吐き出しながら、超天派ギルド――いや、この地方唯一のギルド支部へと足を運んだ。
石レンガ造りの二階建て。だが「五年前に建てられた」という新しさは微塵もない。
壁の色はすでに褪せ、屋根は所々欠け、窓ガラスは曇っている。建物そのものが、土地に蔓延る空気に侵食されているかのようだった。
ギギ、と扉を押す。蝶番が悲鳴をあげるように揺れた。
中にいたのは、たった一人の職員だった。
「――あ! あんたか! 本当によかった、来てくれて……」
机の上に紙束を山のように積み上げていた男が、顔を上げた。
髪はぼさぼさで、眼鏡の奥の瞳は血走っている。名前はジェース。支部唯一の職員にして、支部そのものを支える柱だった。
「ここは……忙しいですか?」
アダが問いかける。
「忙しい? ははっ、冗談だろ。ここに冒険者なんて来ると思える? 来るのは雑談しに来る婆さんと、勝手に住み着いた黒猫ぐらいだよ」
自嘲するような笑みを浮かべながら、ジェースは椅子の背にもたれかかった。
その瞬間、ぎしぎしと木が軋んだ音が、やけに響いた。
「……そうですか」
アダは小さく相槌を打った。
今回、自分がこの支部に来たこはジェースの留守中に代理で受付をするためでもある。
だが、目の前の様子では――代理する必要もなさそうだった。
「じゃ、俺は休暇を楽しんでくる! ここは頼んだ!」
書類を片付けると、ジェースは大きな鞄を担ぎ、足早に出て行った。
その背中は軽いのか重いのか、アダには測りかねた。
……残されたのは、アダ一人。
木造のカウンターに腰をかけ、待機する。
二時間。誰も来ない。
昼の鐘が鳴り、窓の外では細い風が木々を揺らしているだけ。
「……小説でも書いてみるか」
アダはぽつりと呟き、懐から革張りのノートを取り出した。
長距離の送迎の合間、彼はこうして時折、物語を書き留める。冒険者としてではなく、送迎士として見てきた風景を物語にするのだ。
その最初の一文を書き始めたとき――
ガタッ!
建物全体が震えた。
「……?」
視線を扉へ向けた瞬間、ガタガタッと重い音が続き、扉が勢いよく開いた。
「誰だ!」
咄嗟に声を張るアダ。
入ってきたのは、旅装束の男だった。
長身で、背に古びた剣を背負っている。髪は灰色が混じり、目つきは鋭い。どこか荒んでいるが、同時に妙な静けさを纏っている人物。
「……って、あなたですか。あの時の……馬車に乗っていた。たしか、カイルさんでしたね?」
アダの記憶がよみがえる。
数日前、送迎車の中でひときわ目立っていた客だ。無口で、乗客たちとも距離を取っていた。
カイルは無言で中へ進み、カウンターの前に立つと、どっかりと腰を下ろした。
「ここの酒はな、なんだか辛いんだ」
不意に口を開く。
「だが、それを黒いチーズと一緒に食うと案外いける。……まぁ、そんな話はどうでもいい。俺はクエストに挑戦しに来た」
「クエスト?」
アダは眉をひそめた。
「この地方で言ったら……あれしかないですよね」
机の引き出しを開け、一枚の依頼書を取り出す。
紙は黄ばみ、何度も折られた跡がある。
――【怨念小屋の魔女 討伐/生け捕り/情報提供】
依頼の文字を目にした瞬間、部屋の空気が冷えたような錯覚を覚えた。
「そう、それだ」
カイルは短く頷いた。
「噂じゃ、夜の二十二時に出るそうだな」
「……」
アダは依頼書を見つめ、少し考え込む。
この地方の冒険者は誰も受けようとしない依頼。受ければ最後、命を落とすか、帰ってきても心を壊してしまう。
事故率五割という数字は、誇張でも何でもなかった。
「……あの」
アダは口を開いた。
「もしよろしければ、私も同行させてもらっていいでしょうか?」
「なんでだ?」
カイルが眉を上げる。
「興味があるんです。それに……あなたがもし死ぬようなことがあれば、遺留品ぐらいは回収できますから」
一瞬の沈黙。
そして、カイルは不意に笑った。乾いた笑みだった。
「……いいだろう。OK、行こうぜ」
握手は交わさない。ただ視線がぶつかり合う。
その瞬間、二人の間に奇妙な共鳴が生まれた。
互いに孤独を抱え、互いに危険を承知で前に進む。
窓の外。
沈みゆく太陽が、赤黒い光を大地に落としていた。
フィリストの夜が始まろうとしていた。
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