第2話 北の国境行き
第2話 北の国境行き
夜明け前の街は、まだ眠りの中にあった。
だが俺にとっては、ここからが一日の始まりだ。
朝五時。
いつものように厩舎に向かい、相棒である魔馬たちに餌を与える。
魔力を含んだ草に噛みつく音が静かな朝に響く。手綱を撫でると、魔馬たちは安心したように鼻を鳴らした。
「よしよし……今日も頼むぞ」
次に魔馬車の点検だ。車輪に魔力を循環させる刻印を確認し、軋みのないことを確かめる。油を差し、魔力炉に触れて動力を調整する。
どんな任務でも、冒険者を乗せた以上は無事に送り届けねばならない。だから準備だけは徹底する。それが俺の流儀だった。
背後から声がかかる。
「アダさん、おはようございます。今日の依頼はこちらになります」
ギルド長、マリスさんだ。まだ若いが、冷静沈着で誰よりも冒険者を思う人だ。
「おはようございます。……ほう、今日は北の国境ですか」
差し出された依頼書に目を走らせる。行き先は北国境を経由し、その先のバラス王国まで。危険度は高いが、その分やりがいもある。
「なるほど。今日も忙しくなりそうだ」
俺は軽く笑みを浮かべ、魔馬車に腰を下ろした。
---
朝六時半。
始発便の出発時刻だ。
「北国境経由、バラス王国行き。まもなく発車いたします!」
号令とともに、二十名ほどの冒険者が車内に収まる。戦士、魔法使い、弓兵、そしてひときわ目を引く勇者の姿も。
それぞれが己の武器を抱え、ざわめきながら座席についた。
車輪が回り出し、魔馬車は城門を抜けて北へと向かう。
都市の防壁を超えた途端、空気が変わる。湿った風、獣の遠吠え、草原を揺らす影。ここから先は人の支配が及ばぬ領域だ。
冒険者たちのざわめきが一瞬止み、息を呑む音が混じる。
その緊張を破ったのは、突然の――。
――キィイイイイイイッ!
車輪が石畳を擦り、急停車した。
俺はすぐに手綱を抑えながら後方へ声を飛ばす。
「急停車、申し訳ありません! 前方に魔物が出現しました」
すぐに背後から声が上がる。
「運転士さん!」
大柄の青年が立ち上がり、肩を叩いてきた。金髪の勇者アルトだ。
「俺が倒そうか? 一撃で片づけてやる!」
「待って、私も協力するわ!」
銀髪の魔法使いエリスが杖を握り、身を乗り出す。
俺は軽く手を上げて首を振った。
「大丈夫です。すぐに対処いたしますので」
そう告げると、冒険者たちの視線が一斉に俺へと注がれた。
期待と不安とが入り混じった眼差し。
送迎士にそこまで求めるのは酷だが……まあ、仕方ない。
俺は外に出た。朝靄の向こうで、小柄な影がこちらを威嚇している。緑色の肌、粗末な槍。ゴブリン種だ。
「……厄介な場所に出やがったな」
俺は深く息を吸い込み、右手を掲げる。
体内の契約が脈打ち、血と魔力が震える。
「――天転契約」
空気が揺らぎ、頭上に三つの扉が浮かび上がった。
古代の聖句が刻まれた光の扉。その隙間から漏れるのは、女神の歌声。
「――天扉無限解放」
扉から光の槍が放たれる。
浄化剤を纏ったそれは、ゴブリンの群れを一瞬で呑み込み、轟音とともに爆ぜた。
――ドォオォオオンッ!
白光が収まり、残されたのは焼け焦げた大地だけ。魔物の影は、どこにもなかった。
俺は深く息を吐き、手を下ろす。
振り返れば、馬車の窓から冒険者たちが目を見開いて俺を見ていた。驚愕、畏怖、そして称賛の視線。
「皆様、お騒がせしました。では、再出発いたします」
淡々と告げ、御者席に戻る。
魔馬たちは何事もなかったかのように走り出し、車輪が再びリズムを刻んだ。
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「おい、あんた! 今の……すげえじゃねえか!」
勇者アルトが身を乗り出し、目を輝かせる。
「レベルどんくらいなんだ? あの光、普通の人間じゃ使えねえだろ!」
横でエリスも息を呑んだまま。
「……まるで神官の儀式みたい。でも、あんな大規模な浄化術、聞いたことない」
俺は小さく笑い、首を横に振った。
「大したことはありませんよ。送迎士ですからね、護身程度には必要なんです」
笑いながらも、心の奥で冷や汗が滲む。
本当は「護身」などという規模ではなかった。あの術は――俺が秘める“契約”のほんの一端にすぎないのだから。
だが今は、余計なことを話す時ではない。
俺は馬車を操りながら、まだ長い北への道のりを見据えた。
「では、出発します」
御者台に腰を戻し、手綱を軽くしならせる。魔馬がいななき、再び北への道を駆け出した。
背後からは、まだ小さなざわめきが聞こえる。先ほどの戦いを目の当たりにした冒険者たちが、興奮冷めやらぬ様子で囁き合っているのだ。
――死体に群がっていたゴブリンか。
ふと視線を戻すと、先ほど倒した魔物の残骸が目に入った。
頭を潰され、黒煙となって消えかけている。だが、本来なら処理班が後に来て、浄化まで徹底するのが筋だ。放っておけば別の魔物を呼び寄せる原因にもなる。
(死体処理もちゃんとやらないとな……送迎士の仕事は終わりなき雑務だ)
心中でそう呟きながらも、今は時間を優先する。
何より俺には信念がある。
馬車はその後、順調に進んだ。
やがて見えてきたのは、灰色の石壁が連なる北の国境。
幾重にも築かれた防衛拠点、見張り台には槍と弓を持った兵士が立ち並ぶ。
ここを越えれば、いよいよバラス王国の領域だ。
「まもなく北国境です。魔力鍛錬、討伐隊の皆様はここで下車願います」
俺の声に、数名の冒険者が荷をまとめ、降りていく。
勇者アルトもその一人だった。
「なぁ、運転士さん!」
降り際、アルトが振り返って声をかけてきた。
「よかったらオレのパーティにこない? アンタなら、きっとどんな敵でも倒せる」
仲間を誘うその笑顔は、眩しくて真っ直ぐだ。
俺は苦笑しながら、首を横に振る。
「すみません、私はギルド職員ですから。送迎士の仕事があります」
「……そっか。でもまあ、考えといてね!」
軽く手を振り、彼は仲間とともに国境へと消えていった。
彼の背中を見送りながら、胸の奥にほんの少しの温かさが残った。
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馬車は再び走り出す。
残った乗客たちは目的地に向かい、道中を楽しげに過ごしていた。
「そういや、さっきから魔物ほとんど見ないな。なんでだ?」
一人の冒険者がぼやく。
「フハハハ! 俺様の力に怯えて近寄れねぇんだろうよ!」
隣の大柄な男が胸を叩き、大声で笑った。
俺は苦笑を浮かべ、御者席で小さく首を振る。
実際のところは、俺が前日の夜にひとりで討伐しておいたからだ。
(遅れ零――それが俺の信念だ)
冒険者を安全に、そして時間通りに送り届けるために。
送迎士という仕事は「走る」だけでは務まらない。
だから俺は、夜の闇に紛れて先回りし、魔物を狩って道を掃除しておく。
そうすれば、道中の脅威はぐっと減る。
……まあ、たまにさっきのゴブリンのように小さな影を見落とすことはあるのだが。
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昼が近づくころ、車窓の景色は大きく変わっていた。
青く澄んだ川を渡り、緑濃い山を抜け、遠くには王国の尖塔が見え始めている。
「ご乗車の皆様、まもなくバラス王国に到着いたします」
告げると、車内にざわめきが広がった。
安堵、期待、そして緊張。人の数だけ感情が入り混じる。
「下車後に、ゲートにてパスポート審査がございます。また、お荷物の確認をお願いいたします」
いつも通りのアナウンスを終えると、冒険者たちはそれぞれ荷を抱えた。
やがて馬車は王国の正門前に到着した。
巨大な門が開かれ、国境警備兵が整列している。
「本日も超天ギルド送迎車をご利用いただき、ありがとうございました」
冒険者たちは次々と降りていき、王国の街並みへと消えていく。
それぞれが新たな依頼へと、あるいは酒場へと向かうだろう。
馬車に残されたのは、俺と魔馬たちだけになった。
ひと息つき、手綱を軽く撫でる。
「さて……次の便は南行きだったな」
俺の仕事に終わりはない。
今日もまた、人を送り届けるために、ひたすら走り続けるのだ。
――ただの送迎士として。
だがその影に、誰も知らぬ“バケモノ”の力を秘めながら。
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