【J】第31話

 素っ気ない室内に賑やか過ぎる鳥の歌が響く。

 中流階級用のタウンハウスの部屋は調度も飾り気なく、入り切らない本が床に堆かった。机の紙束の上、重しのように乗るシンギング・バードボックスの銀の中に作り物の赤い小鳥は吸い込まれる。

 ソファに眠るジェーンの赤い髪が揺れ、傍ら、と言うには僅かに遠い椅子に座る部屋の主は顧みた。視線の先、王太子の宝物が瞼を動かす。


「……ここは……」

「僕の部屋。街で遊ぶ時用に借りてるの」


 ぼんやりとした後、驚いたように起き上がろうとし、ジェーンは少し眩んだ様子を見せた。それでも彼女は辺りを窺う。ジョンは肩を竦めた。


「女の子はここに来ないよ」


 耳が音を拾うや赤くなった彼女を見つめ、華やかな噂の絶えない伯爵継嗣ロード・ハイドは息を漏らし、笑いを浮かべる。含む視線を流され、ジェーンは唇を曲げそうに結んだ。


「本当に判りやすい。デイジーみたい。そう、その膨れ顔。可愛い」


 頰の辺りのふっくらした柔らかさをジョンは指先で突いた。これはこれで愛らしい。だが、ジョンが欲しいのはこの顔ではなかった。これは自分に兄を見て、甘えも許されたがる彼女だ。

 この表情を向けられる度、その奥に彼は王子の手さえ拒む強さを探す。離宮の苑でセント・ジョンズワートの若草を見付け、除くのが自分の役目、とプリンスさえ待たせる時の瞳の明るさがそこに隠れているのだ。いつも流されて弱々しい姿の奥に。


「妹さんですか」

「うん。家は姉、兄、妹と亡くなって、よりにもよって双子だけ両方、生き残った」

「そんな言い方……」


 咎めるように気遣うヘーゼルの目にジョンは少し求めるものを見出し、目を細める。それから彼は顔を窓へと向けて視線を外した。


「跡取りは病人が出ると真っ先に遠ざけられるでしょ? 普段、デイジーには僕の方が構っていたけれど、あの子が熱を出すと一緒にいられなくて、エドが慰めるの。デイジーはエドに懐いて僕には膨れっ面、拗ねてばっかりだった」


 諦めたように苦笑すると、灰青色の瞳が端に寄ってジェーンを見る。


「君が似てたんだ。だから、初めからエドと君が逃げれば良い、と思ってた。僕は君を捕まえる役。エドは一緒に飛んでく役」


 都の捜索から一時的に身を隠すため、彼はこの部屋に最低限の着替えや荷物、貸し馬車を用意した。暗がりに紛れて郊外へ行き、最も知られていない家で馬に乗り替え、離宮外苑のアプリコット林へ駆ければ良い。

 部屋に置いて来たセント・ジョンズワートにエドワードが気付くか、王太子の祝賀で都に集中している警備を避ける場所として、あの場所が思い浮かべば、自分の役割は果たせる可能性がある。エドワードが間に合わないなら、南の港へ行き、対岸の国で潜伏先を整え、後で入れ替わる手もあるだろう。

 ポケットで紙が皺折れる感触がし、彼の目はシンギングバード・ボックスを一瞬、見遣った。


「でも、その予定なら君をここで目覚めさせてない」


 ジョンは目縁を狭め、葡萄柄の銀のフラスク・ボトルを手に揺らす。アルコールの強いドラウジ・シロップを含ませただけでよく眠っていたジェーンの意識を取り戻させず、先へ進もうと思えば、簡単だった。

 今からでさえ、まだ計画は戻せるかもしれない。

 彼の手は自然とフォブチェーンを手繰り、古風なアイアゲートの指輪に触れていた。

 クラレンドン伯爵の後継ぎの指輪。これに似た唯のアゲートさえ強請っても貰えなかったエドワードに与えられたのは、娘を失い、引き継ぎ手のいなくなった金の約束の指輪フェデリングである。両親含め、数代が結婚や婚約に際し使って来た、結び合う手と幸せの駒鳥の卵を象った二本一組の指輪がジョンの頭にちらつく。


 ——この子はエドの駒鳥。


 出会った十二歳の時、そう思って彼はジェーンとの距離を置いた。幼くして彼が価値あるもの爵位を奪ってしまった兄弟に舞い降りた駒鳥。二人を無事に幸せな未来へと繋げるのが自分の務めの筈だ。

 にも拘らず、本心を暴こう、とばかりに物事は動き、王太子はジョンにエスコートを依頼した。

 掌に包むのを諦めた小鳥が何かと彼の元へと寄る。彼女を連れて逃げるならエドワードより上手く潜り抜ける自信が彼にはあった。どこまでも追っ手を避け、何をしてでも二人、灯火を消さず生きてみせる。


「僕と行かない? 王子様の籠から逃げて一緒に」


 その言葉は遂に溢れて唇を振動させた。本意を隠そうとする切なさがブルーグレーの瞳に漂う。ジェーンは唯、頭を横に振った。その素直さにわざとらしい怪訝な表情を彼は近付ける。


「どうして?」

「どうして、って……」


 絶句する彼女にジョンは肩を竦めた。

 眠る中さえ自分が『帰りたい』と呟いていたことをジェーンは知らない。そして、彼女は無意識に何処にもない帰る先へ指を伸ばす。

 彼は冷笑気味に目を細めた。


「籠に帰って王子様と暮らすつもりもないのに、楽に死ねるかも判らない程、疎まれ続けるの? そこを出られるなら相手なんて誰でも良いでしょ」

「良くないです」

「……裏切らないかどうかは大事かな。でも、僕は君を傷付けも、売りもしなかった」


 その過去形に気付いたようにジェーンの瞳が丸く浮かび上がり、妖花と呼ばれる異なる色彩がその中央で光に揺れる。


「頼まれたのですか? エド……ミスター・ハイドではなく貴方が?」

「実は別件で余計なことを知っててね。きっと僕を試してる。僕にも逃げる理由はあるの」


 それを言うジョンはどこか軽い。只、少し思案げに天井を見上げると、表情を消した。


「ソフィも君を傷付ける話は持ちかけられた。次は間違いなくエドだ。あいつは頭は回っても優しいから付け込まれて苦しむ。そうなる前に君と僕が消えてエドは伯爵を継げば良い」

「ロード・ハイドがいらっしゃる以上……」

「本当のロード・ハイドはエドだよ」


 眉間に皺を寄せて言い返すジェーンに彼は微笑みながら視線を流す。

 一瞬、何を言われたか判らず、小鳥のような円な瞳で首を傾げた後、彼女ははっと息を飲んだ。それに向き直り、ジョンは頷く。


「エドがジョン・ハイド、僕がエドワード・ハイドの筈なんだ。僕はジョンの記憶の中に薄らジョニーと呼んで、エディと呼ばれていた感覚がある」


 まだ幼い日々。仲良く同じ部屋で遊んでいた二人だが、乳母は別だった。自分には生まれたばかりの妹と同じ乳母がつき、双子の兄弟の乳母は長兄と同じ。それは間違えようのない記憶だ。


「僕がいなくなったら父が対処する。誰かが何処かで取り違えても僕達では仕方ない。親とそうは顔を合わせない頃だし、伯爵はどうとでも言い繕い、取引できる」


 心配があるとしたらエドとリチャード様の性格だけど、という言葉をジョンは飲み込む。

 ジェーンは彼が思うよりずっと落ち着いて話を聞いていたが、やがて顔を曇らせ、ぽつり、と尋ねた。


「ロード・ハイドは何故そこまで逃げる必要が?」

「突き詰めると陛下に睨まれてる。それ以上は僕と一蓮托生の人にしか教えない」


 王女の部屋にジェーンが撒いたハーブへ何者かが加えたジギタリス。

 前王崩御の日の隠された事件を知ることは誰にも余りにも危険である。王太子を惑わす<まつろわぬ島>の妖花と見做されているジェーンがその背景を知って良いのは、少なくとも王国の力が直接、及ばない先へ逃れてから、と彼は考えていた。

 その沈黙を少し恨めしげに睨んでいた彼女は諦めたように目線を落とす。


「……ロード・ハイドのお近くには力をお持ちの方がいらっしゃる筈です」


 自分が逃げることより、彼に助けを求めるよう忠告することを考える幼馴染に彼は淡々と答えた。


「力を持つ人は切り捨てる力も持ってる」

「お父様は?」


 親に都へ出された身でありながら、当然のように言って見つめるヘーゼルの瞳にジョンは呆れと感嘆のどちらを感じているのか判らない。只、顔は茶目っ気を失わない少しの皮肉さを浮かべて笑っていた。


「僕が家のために打ち明けないように、父は家のために知らないふりをする。僕達はそういう判断もするから」

「ですが! 伯爵様は陛下にもお目にかかれますよね?」


 身を乗り出すように反駁するジェーンの目は熱がこもり、ジョンを真っ直ぐに見つめて来る。

 この目だ、と彼は思った。温室の三人の中でジョンに一番、遠かった羽ばたく鳥の瞳が今、眼前にあり、手に届く。


「そんなに心配してくれるなら一緒に逃げて欲しいな」


 彼はジェーンの頬に掌を近付けた。途端に身を竦めて怯える駒鳥へジョンは間近に微笑む。


「助けてよ」


 指先が淡いアメジストの耳飾りに触れた。

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デイフラワーは波を越える 小余綾コウ @koyurugi

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