第二節

悪夢

 その晩はうまく眠れなかった。

 薄紫色のワンピース、艶やかな黒髪、血に塗れた長い牙。三メートルはありそうな体躯で俺の顔を覗き込み、ぽろぽろと大粒の涙を流していた。

 悪夢だ。ひさしぶりに見た。小さい頃はよく悪夢を見ていたらしいけど、大人になってからはそんなに見ていなかったのにな——。


 目を開き、知らない景色に一瞬動揺する。そうだ、俺はハウスヽヽヽに来たんだった。

 見慣れない古びた天井、白熱電球、埃の匂い。その全てが俺に現実を突きつける。身体中が痛い。歪んだ硬いベッドのせいか、低すぎる枕のせいか、昨日歩きすぎたせいか。


 外から話し声が聞こえる。知らない声だ、ルイ達ではない。いや、違う、聞いたことがある。俺はこの声を知っている。最初に大門ヽヽで聞いた声だ。

 この声は——キーゼルか。おそらく一人はキーゼルだ、低く澄んだ声。


 俺は目を擦り、痛む体に鞭打って立ち上がる。ギシ、とベッドが音を立てる。その音を聞いてか、部屋の外が突然しんとした。

 数秒の沈黙のあと、いくつかの足音が遠ざかる。

 そんなに人目を避けたいなら他人の部屋の前なんかで話し込むなよ——と思ったが、まあ仕方がないのかもしれない。井戸端会議のようなものなのだろう、多分。


 朝食を取りに行こうと部屋を出る。

 顔を上げると、キーゼルの青い瞳と目が合った。


「……おはよう」


 まだいたのかよ、の言葉を飲み込んで、努めて友好的に話しかける。共同体で生活していくのなら、コミュニケーションは必要不可欠だ。挨拶はその基盤中の基盤。いけすかないヤツとでも仲良くしないといけないのは、大人の辛いところだな。


 キーゼルは黙ってこちらを睨むと、値踏みするように部屋の中を覗き込んだ。


「へえ、結構いい部屋住んでるじゃん。四階に新人が来るなんて久しぶりだな」


 ニヤけ面で続ける。


「ルイに気に入られたか。わざわざこの部屋をくれてやることないだろうに」


 俺が扉を閉じると、キーゼルが不満げにこちらを見る。キーゼルが浅く息を吸ったとき、隣の扉が音もなく開いた。


「おはよ、トウマ。キーゼルも」


 鮮やかな橙色の髪、少し高くて軽薄そうな声。


「ああ。おはよう、ルイ」


 その背から、ミノリも姿を現した。

 同じ部屋で寝泊まりしていて、あのルイ君ヽヽヽという親しげな呼び方——そうか、コイツら恋人同士か。

 思えば、男女二人で常に一緒に行動しているんだから、そりゃあそうに決まっているんだ。色恋沙汰に疎すぎた。俺が恋に無縁なせいだ、クソ。


「——おはようございます、トウマさん。よく眠れましたか?」


 不意に声をかけられ、動揺して声が裏返る。女に「おはよう」なんて言われたの、いつぶりだ?

 懸命に取り繕いながら「お陰さまで」なんて言っていると、ルイが俯いて肩を振るわせた。その肩を小突き、キーゼルの方に向き直る。


「挨拶くらいしたほうがいいぞ、キーゼル」

「馴れ馴れしく呼ぶな、バカが感染うつる」


 キーゼルは軽く屈むと、小馬鹿にするように舌を出す。そうして、「人が殺されたっていうのに呑気なヤツだな」と言い残し、廊下に消えていった。


 呑気——俺のことを言ったのか?


「気にしないでいいよ、キーゼルは誰にでもあんな感じだから。基本一匹狼なんだよね、あんまり人と仲良くしたがらないっていうか」


 ちょっと気難しい人だよね、とミノリが同調する。なんか……昨日より明るくなったな。人がひとり死んでるんだ、コイツらも昨日は普段と違ったのかもしれない。


 そのまま雑談を続ける二人を交互に見る。「損な性格してるよねー」「きっとひとりが好きなんだよ」「そうかなあ、そうは見えないけど」と口々に好き勝手なことを言っている。


 やっぱり、昨日より雰囲気が明るい。ミノリはもちろん、ルイも心なしか気分が良さそうだ。

 ——今がチャンスかもしれない。ずっと知りたいと思っていたんだ、あの女のこと。キーゼルやノエル、ハナモモのことも。昨日あの場所でなにがあったのか。


「なあ……ちょっといいか?」


 二人が雑談を止め、俺のほうを見る。どうしたのー、と間延びした声を出すルイに、俺は意を決して切り出した。


「昨日なにがあったのか知りたいんだ。あの女が何者で、なんで死んでたのか……ハナモモが、その、殺した……っていうのは、本当なのか?」


 ルイがミノリと顔を見合わせる。


「あー、それね……そうだよね、やっぱ気になるよねぇ……」


 目線を逸らし、あきらかに気まずそうだ。なにか説明しにくい事情があるんだろうか。

 だとすると……やっぱり、殺されたのかな。


 小さく息を吸い込むと、ルイがぽつりぽつりと語り出した。


 ——あの子、アヤっていうんだけどさ。ここに来た頃から、ちょっと雰囲気が違ったんだよね。不思議なオーラがあるっていうか。誰にでも優しくてかわいくて、アヤのことが好きって人も多かったと思うよ。だから……あんまり考えたくないけど、妬んでたんじゃないかな、アヤのこと。

 昨日はね、大門で爆発音がして、駆けつけた人たちが倒れてるアヤを見つけたんだ。その場にいたのはアヤとハナモモだけだった。大門っていろいろ特別な場所だから、だからあんなことになっちゃったんだろうね——。


 しばらくの沈黙のあと、背後から暗い声がする。


「——違う。違うよ、ルイさん。あれはただの事故だったんだよ」

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