Sec. 06: To Keep a Stiff Upper Lip - 02

 焦りで、研究発表を聞くこともできない。


 昨日の夜、クロフォードが自室から姿を消し、代わりに脅迫文があった。血文字は利き手ではないほうの手で書かれており、筆跡がわからないようにされていた。血液はどれもクロフォードのものだった。部屋は封鎖され、夜会は中止となった——これだけ明白な暴力があったのだから、当然だ。遅すぎるくらいである。


「レイ」


 藍鍾尤だった。レイは彼の疲れきった様相に同情を覚え、二人で会場を出た。相変わらず研究発表は行われていて、ハウエルズの意図は何もわからなかった。まだ第四、第五の被害者が出るかもしれないのに、夜間に出歩くことを規制しただけだなんて。


「先生は……」


 彼は力なく首を横に振り、目を伏せる。藍鍾尤は夜じゅう一人で捜してくれていたが、それでも見つからなかったのだ。調査を中止しろと言われてこそいるけれども、従っても従わなくても、クロフォードの命は危ない。魔法使いの肉体など、使い道は無数にある。


 レイは会場の端にいたローマンと目配せをし、三人で会場を出た。刻一刻と、彼の命は危機に晒されている。あんな脅迫状に従っている場合ではない。少なくとも表向きは従っていても——裏では、クロフォードを捜さなければ。


 レディ・モルガン・スクエアにやっぱり人影はなく、作戦会議にはうってつけだった。レイたちは以前と同じカウンターに腰かけ、コーヒーを三つ頼む。


「アダムは、やっぱりダメか?」


 藍鍾尤は重い沈黙を破り、そう尋ねてきた。頷いて肯定する。レイは何度もアダムに通信を試みてもらっていたが、そのいずれでも、繋げないと言われていた。魔術的なジャミングが行われているらしかった。犯人は、ずいぶん用心深いようだ。


「座標の特定もできないらしい。というか、先生が持ってる端末ピアスに接続できないって……」


「今のクロフォードは首輪つきだ。魔法の使えない魔法使いなんて、一般人以下だもんな」


「鍾尤、客室の開錠ログはどうなってる? 宿泊客のいない部屋が開けられた形跡は?」


 ローマンは苛立ちを隠そうともせず、しきりに指でカウンターの天板を叩いている。


「ありません」彼は首を横に振った。「不審な動きは、どこにも」


「なら、オレたちに知らされてねえ部屋がある可能性は?」


「船長に確認しましたが、そういう場所は知らないと」


 しかし、ならばいったいどこに消えたのか。


 ハウエルズが犯人だとしても、レイと別れてからあの短時間でエレベーターを上がり、アドラムを刺してクロフォードを連れ去るなんてことが、できるだろうか? 共犯がいるということだろうか。あるいは、ハウエルズは犯人ではないのか。


 レイは右手首の印を見下ろす。春、ウェールズで起こった連続吸血鬼殺人事件を解決したときに、クロフォードと交わした契約の印だ。今朝から、断続的に熱を持っている。


「だったら、全部の施設と客室を片っ端から捜査するしかないだろうが」


「ですが、表立って動けばクロフォードが……」


 藍鍾尤の焦燥感は、レイにもわかる。ローマンの苛立ちもそうだ。クロフォードは不死でこそあるが、痛みを持たないわけではない。それに、だからこそ、何をされるかわからない。魔法使いの肉体を加工した儀装など、余るほどの買い手が我先にと群がるだろうし。


「あの、手がかりになるかわからないんだけど、実は……」


 レイは今朝見た夢の話をした。


 クロフォードと感覚を共有したこと、どうやら目隠しをされていて何も見えなかったこと、犯人は何も喋らなかったが、クロフォードを殴れるだけの力は持っているらしかったこと。床が木材のようだったこと。何かを飲まされていたこと、心臓部を切開されているらしかったこと。


「まずいな」ローマンが焦りに顔を歪めながら言う。「魔法使いの心臓なんざ、それこその素材だ。相手の目的がなんであれ、達成できるだろう——取り出せればの話だがな」


「でも、心臓を直接剥がされたら……」


「アイツの心臓には加護が宿ってる。古い呪いだ。触ろうとしても弾かれて、滅多なことじゃ剥がせねえはずだが……」


「だが?」レイは子どものように先をせがんだ。切実な頼みだった。


「アイツの意思でそれを受け入れるヽヽヽヽヽなら、話は別だ」


 しかし、クロフォードが易々と心臓を渡すとは思えない。彼も、己の肉体の価値を知らないわけではないはずだ。


 ならば手段はおおよそ絞り込める。魔法使いに催眠をかけられるような魔術師は稀有であるから、人質を取るか、精神を従属させる強力な魔術を使うか。仮に後者であれば、魔素の揺らぎはこの船のどこにいても感知できるだろう。相手に軽い暗示をかけるならまだしも、クロフォードのような主席執行者の、精神を従えるなんて。大掛かりな魔術でしか不可能だ。そうでなければ、主席になどなっていない。


 レイの手首が熱を持つ。チカチカと点滅するように、断続的に。


「これ、見てください。先生と契約したときのものです。今朝から、熱くて」


「……なるほど」藍鍾尤は顎に手を添えて頷いた。「となると、たぶん重要なのはその印だな。断続的に光ってる……座標を送っている可能性はないか?」


「なら、モールスだろう。その形式で座標を送るにはこれしかない」


 ローマンがレイの手首に視線をやりながら、断言する。それは、クロフォードの弟子としての経験を想起させる口ぶりだった。


 右の手首にある印は、わずかに発光してさえいる。レイは手帳の後ろのほうのページを新しくめくり、そのパターンを書き出した。長く熱を放つ期間と、一瞬の熱を放つ時間。


 ツー・トン・トン、トン、ツー・トン・ツー・トン、ツー・トン・ツー、トン・トン・トン・トン・トン。そこで、熱は途切れた。レイはモールス符号に詳しくはなかったから、助言を求めて二人の顔色を窺った。藍鍾尤とローマンは、二人して険しい顔をしている。


「DECK5……」


「これだけか?」藍鍾尤が眉を八の字にする。


 レイが頷くと、ローマンはバーテンダーに声をかけてパンフレットを受け取った。


 中には、船内のマップが載っている。客室の紹介から各種施設の利用時間まで。賢者はそれをカウンターに広げ、デッキ五を指差した。


「この階のどこかに先生がいる、ってことですね?」


 デッキ五には客室とレストラン、ミーティング室、インフィニティプール、ランドリー、客が出られるパティオという甲板がある。特に怪しい場所はない。船長の言うことが真実なら、隠し部屋なども存在していないはずだ。


「ミーティングルームは大して使われてないはずだが、立ち入り禁止ってわけでもない。クロフォードを監禁するには不適当だろう」


「とすると、やはり隠し部屋が……」


 魔術は物理法則に従う、とされている。それを証明する理論もある。物理法則を外れることができるのは、魔法だけ。ならば船長にも知られぬ隠し部屋を作るなど、不可能ではないのか? レイは答えを求めてローマンを見た。


 彼は考え込むように真剣な顔でパンフレットの船内図を見つめていたが、無骨な指先でミーティング室を指す。「怪しいとしたら、やっぱこの辺りだな」


「乗客が入れるエリアで空白なのはこの辺だ。隠し部屋があるならここだろう」


「行ってみましょう。だめなら、他の手を探せばいい」


 藍鍾尤はパンフレットを畳んでレイに手渡し、ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干して席を立った。ローマンも同じようにする。レイは藍鍾尤から受け取ったそれを、さらに小さく折りたたみ、ポケットにしまった。

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