Sec. 06: To Keep a Stiff Upper Lip - 03
階段を降り、右手の通路を進む。ミーティングルームには誰もいなかった。
中へ入る。楕円形に配置された机と椅子はまるでオフィスで、ロンドンにある事務局のデスクを彷彿とさせる。レイは耳を澄ませ、わずかな悲鳴すら聞き漏らすまいとした。
「————」
かすかに、幻聴のような声が聞こえた気がする。隣の部屋からだ。
「隣です!」
レイが叫ぶや否や、ローマンは弾かれたようにミーティング室を飛び出した。慌てて後を追う。ミーティングルームの向かいはランドリーになっていて、隣は乗員が使う何かの部屋になっているらしかった。
だが、ドアは固く閉ざされている。魔力錠に違いなかった。
「クソッ……
ローマンが呪文を怒鳴り、ドアノブを捩じ切る勢いで回す。開け放たれたドアの先から漂う濃い鉄の臭いが、ツンと鼻を突いた。レイは迫り上がる胃液をなんとか飲み下しつつ、部屋のなかを覗き込む。
配管が剥き出しにされたエリアに、椅子が一脚置かれていた。そこに、クロフォードが座っている。足首を椅子の脚に縛りつけられ、両手は後ろ手に縛られ、厚手の黒い布で、目隠しがされていた。周囲には夥しい量の血液が飛び散っており、彼の白いシャツは白蝶貝のボタンに至るまで、血に濡れている。
特筆すべきはやはり、胸部が切開されているらしいところだろう。血は止まり、少なくとも傷の表面は塞がりつつあるように見える。胸元を彩る呪いの印は頬にまで伸び、あの春と同じ、彼が人の在り方から外れてしまったことを示唆しているように思えた。容疑者として嵌められた首輪のせいで、治癒魔術に回せるだけの魔力が生成できないのだろう。
レイが思わずたたらを踏むと、藍鍾尤に背中を支えられた。
「あんたはここにいろ」
彼はそう言い残すと、踵を返して駆け出していった。
春も血にまみれた事件を追ったが、何度目の当たりにしても、血には慣れない。レイは意を決するとクロフォードの元に歩を進め、観察した。
ローマンが黒い布を外した。俯く彼の、セットの崩れた前髪の隙間から、黄金色の瞳が覗く。クロフォードは眩しげに目蓋をひくつかせ、閉じた。あれだけ厚手の布で覆われていたのなら、順応がうまくいかなくても不思議ではない。
しかし、おかしい、と思う。レイにも言語化できないが、何かがおかしい。
よく見れば、クロフォードの目元には涙らしい痕があった。彼が、何かに怯えるように、ゆっくりと目蓋を持ち上げる。うすらと開かれた褐色の天蓋の、重たげな睫毛にけぶっているのは——ほとんどが黒に塗りつぶされた金だった。
「先生……?」
瞳孔が、不自然なほどに開いている。このぶんではろくに見えていないだろう。焦点もほとんど合っていない。彼は何かを言おうとして口を開いたが、荒い息とあえかな、意味を持たぬ声だけが残った。喉のなだらかな隆起が、苦しげに上下する。
ローマンが手早く手錠を破壊し、首輪にも指をかける。黒く金属質なそれを砕く。硬い音を立てて割れた首輪の破片を床に落とし、しゃがみこんでクロフォードの顔を覗き込む。
「おい、大丈夫か?」
散瞳した彼を見て、ローマンは顔を歪める。そして肩に置こうとしていた手を引っ込め、拳を強く握りしめた。レイは異様な光景に喉が渇くのを感じながら、焦燥感に駆られる。
何か、彼の弟子として、何かしなければ。助けにならなければ。あれほど信用できない人でなしとこき下ろしていたのに、結局はこう思ってしまうのだ。レイは自分の中途半端さに嫌気がさし、涙さえ滲みそうになった。けれど、今泣きたいのは決して自分ではない。
「水を持ってくる。コイツのこと見ててくれ、レイ」
ローマンは立ち尽くすレイの肩をぽんと叩いて、部屋を出ていった。
恐る恐るクロフォードに近づき、声をかけてみる。
「先生」返事はない。「立てますか」
「…………」
はく、と口が動く。それでも意味を持った言葉は出てこなくて、いつもの流麗な口調は見る影もなかった。レイは怖気で震える手を、拳を握って押さえつけ、先刻のローマンと同じようにしゃがみこむ。下から覗くと、彼の眼差しが虚ろであることを理解させられた。
手錠と首輪を壊したからか、傷は急速に治っていった。血という痕跡だけを残して、何事もなかったかのように完治する。だのに、散瞳は治まる気配がない。
クロフォードは後ろに回していた手をゆっくりと前に持ってきて、背もたれから体を起こした。手首には手錠の痕だけでなく、暴れたのか血も滲んでいる。あのとき飲まされたものが毒だとしたら、相当な苦しみを経験したのだろう。
全ての動作は緩慢に行われ、目蓋は時おり震え、閉じられたりもした。立ちあがろうとしているのだと気づき、いつでも受け止められるように体勢を整える。クロフォードは震える脚でわずかに立ちあがったが、すぐにバランスを崩して倒れ込んでしまった。レイは咄嗟に全身で彼を受け止めた。上背があるぶん、少し重い。彼は一切汗をかいていない代わりに、体温がひどく高くなっていた。春に受け止めたときは、もっと冷たかったはずだ。これも異常の一つなのだろうか。
「待たせた——っておい、立てるわけないだろ!」
戻ってきたローマンは手にミネラルウォーターのボトルを持っていたが、それを放り投げてレイと代わってくれた。クロフォードよりも背の高い彼のほうが適任には違いない。
レイはボトルを開けてクロフォードに差し出してみたが、彼がそれを受け取って自力で飲めるような状態にないのは明白だった。口が渇いて話せないのだろうから、まずは口内を濡らしてやらなければ。
ローマンに肩を貸されて無理やり立っている彼の口元に、飲み口を持っていく。首を傾けるので合わせてボトルも傾けてやると、角度が合わなかったようで、注ぎすぎて口から水があふれた。彼のスーツのトラウザーズにシミができる。
「わ、悪い、大丈夫か?」
レイは慌ててボトルを離した。咳き込む勢いですら弱々しく、今にも死にそうな雰囲気すらある。荒い呼吸と言葉になりきらない音。瞳孔が不自然に開ききった双眸から、大粒の涙がこぼれおちる。呻くような、泣くような声さえ聞こえてきて、明らかな異常に動揺してしまう。魔術で治療するにしろ、クロフォードは魔法使いである。彼を構成する式は魔術師のそれとは比べ物にならないくらい複雑で、難しいだろう。
「こっちだ、頼む!」
藍鍾尤の声がする。数人の足音と一緒だった。
姿を見せた執行者たちは、手際よくクロフォードを担架に乗せ、医務室へ搬送していく。投げ出された白い指先が震え、何かを探すようにうろついた。レイは心配になって、床に落ちていた彼のジャケットを拾い、執行者たちの後を追いかけた。
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