Sec. 02: The Man of the Jackpot - 03
レイは藍鍾尤と共にクロフォードの部屋を出て、階段でデッキを一つ上がり、現場へと向かった。
現場は封鎖されており、ハウエルズや執行者を含めて誰の出入りも許されてはいない。入口のドアは宿泊客が体内で生成する魔力の波長で認証する仕組みになっていて、偽装も不可能であるため、必然的に宿泊客以外の人間が勝手に出入りすることはできない。
つまり、密室だ。バルコニーが取りつけられてこそいるものの、すぐ外側は海であり、万が一侵入者があっても、窓はドアと同じロックが掛かっている。そしてもし割られれば、すぐに執行者が駆けつける。この船は安全であると、そう保障されていた。
ならば、チェンバーズは本当に殺されたのか?
「執行課、藍鍾尤だ。捜査権限に基づいて、入室許可を」
藍鍾尤が警察証のような手帳を広げて告げると、ドアの前に立っていた執行者はレイを一瞥し、ゆっくりと脇にどいた。藍鍾尤は、トラウザーズのポケットから白い手袋を二組取り出す。一組をレイに渡した。綿でできたそれは、遺留品に指紋を付けないようにするためのものらしかった。
蹴り破られた扉は、クロフォードの代わりに誰かの手で修復されたようだ。おそらく執行者だろう。レイはドアノブに手をかけ、そうっと開いた。
室内は、レイたちが押し入ったときのままだった。クロフォードが蹴破ったドアが乗り上げていた机にも、いくらか痕が残っている。ベッドの上にも、変わらず人体の構成式の一部が散らばっていた。
肉体を失った構成式は薄れていくはずだから、固定するような魔術が使われたらしい。額縁に入れることで式を固定する絵画魔術もある。おそらく、それが応用されたのだろう。
「今のところ、あんたの推理はどうだ? 何から調べる?」
藍鍾尤は閉めたドアにもたれて、そう尋ねてくる。
「今は……『チェンバーズが本当に死んだのか』から、調べたい」
「あんたは、あいつが死んだと思ってないのか。根拠は?」
「遺体は確認されてない。ベッドの上の構成式も、式海の残滓しかない」
寝台の上の構成式は、式海だけを残している。人体を示している、ということに気を取られて、どの部分が残っているのか確認することを失念していた。
式海は、生命の変動情報を示している。移動すれば、その存在が元いた場所に、多少は式海が残る——そこにその存在がいた、という証拠として。すぐに薄れてしまうものであるため、証拠として捕まえておくことは難しい。ほとんど現行犯でなければ掴めないものだ。この船にさまざまな分野の魔術の研究者が乗っていて、彼らが実演のために使う素材や儀装があったからこそ、チェンバーズの式海を留めておけるだけで。
「じゃあ——『神隠し』か、やっぱり?」
藍鍾尤は眉間を狭め、わずかに顎を上げた。頷いたレイを見て、レイがいるベッドのそばに歩を進める。茶色い革靴がほんの少し床に沈んで、薄く足跡を残した。
「魔素の濃度を調べてみよう。あんたが預かってる眼鏡、あれなら見えるはずだ」
そこで、レイは胸ポケットからクロフォードのサングラスを取り出し、かけた。
「アダム? 魔素の濃度を測ってくれるか?」
ここにはいない執事の名を呼び、藍鍾尤はレンズを覗き込む。アダムはクロフォードの自宅——ファトラ館に常駐している執事型魔術儀装であり、こんなところにはいない。
しかし、まるでSF小説のガジェットのように、レンズに文字が表示された。同時に、アダムの無機質ながらも丁寧な音声が、レイの耳元に届いてくる。
『現在、半径三メートル以内の魔素濃度は約二十パーセントで、平均的な濃度です』
「アダムって、どこにでもいるのか……?」
『補足:当機はサー・クロフォードが所有する儀装の全てを端末としています。眼鏡、車、バイク、杖、傘、ピアスなどが含まれています』
「はあ……」レイはうんざりしてため息を吐く。「とにかく、魔素の濃度は変わってないんだな? それなら、肉体が魔素に還ったって可能性はない」
物質が破壊され、構成式だけの存在となったとき、式は時間をかけて魔素へと還元されていく。そうなるとその場所の魔素は量が増えるため、濃度も高くなる。しかし、チェンバーズが宿泊していた部屋の魔素濃度は変化していない。
すなわち、ここでは誰も死んでいないということだ。
「鍾尤、魔素の濃度を測れる儀装はないのか? これを証拠として出せば、先生を解放してもらえるはずだ」
「もちろんある。待ってろ、すぐ調べさせるから」
藍鍾尤は耳に手を当て、インカムで執行者に指示を出した。
すぐに一人の執行者が、四角い機械を持って現れる。彼は真面目そうな顔をしていて、何も言わず会釈をすると、計測器を持って部屋を歩き回り始めた。シーティングエリアからベッドのそばに慎重に近づき、旧式の携帯電話のようなそれをかざす。
レイたちは壁際に立ち尽くしていた。やがて彼はこちらに戻って、どうも、と軽く頭を下げた。「計測、終わりました。魔素濃度に異常はありません」
「よし。データ、印字してくれ」
彼が儀装を操作すると、頭の部分からレシートのような紙が出てきた。藍鍾尤はそれを受け取り、満足そうに微笑んでレイに回す。感熱紙には魔素濃度が二十パーセントであることがきっちりと示されており、異常なし、とも記載されていた。
「じゃあ、行くか。ミス・ハウエルズはたぶんセッション会場にいるままだ」
レイは頷き、藍鍾尤を連れてチェンバーズの部屋を出る。デッキ八から、エレベーターに乗ってデッキ四へ。会場にはまばらに人影があり、みな口を揃えてクロフォードの話をしていた。彼が殺したのか。彼にしかできない殺害方法なのだから『彼が殺した』以外の推理は不可能ではないのか。レイはそれらを無責任なゴシップだと切り捨てて、まっすぐにアデライン・ハウエルズの元に向かった。
彼女は気を揉んでいる様子で、腕を組み、しきりに指で腕を叩いていた。レイを認めると眉をひそめ、藍鍾尤を見てはいっそう辟易した表情を浮かべる。
「貴方たち、捜査権を主張して、勝手に捜査したのですってね」
「その件については申し訳ない。おれの独断で、レイに協力してもらったんだ」
ハウエルズの眉間に皺が寄る。藍鍾尤はこの船ではそれなりに高い地位にいるようだが、警備員という立場上ハウエルズは雇用主に当たる。彼女には頭を下げる側なのだろう。
「ミズ・ハウエルズ、これを見てください」
レイは魔素濃度が印字された感熱紙を突き出した。眼鏡の赤いフレームを指で押し上げ、彼女はそれを受け取る。碧眼が紙を滑る。すう、と細められ、レイを見下ろした。彼女は高いヒールを履いていて、レイよりも背が高く見える。レイだって百七十センチを超えているというのに。
「これを私に見せて、何が言いたいのかしら?」
彼女が苛立っていることは明白だった。レイは眩暈を覚えそうになりながらも、小さく息を吐いて気持ちを落ち着ける。
ハウエルズのような教師には出会ったことがある。セカンダリースクールに通っていたころ、自分の主張を最後まで話さないと議論してくれない教師がいたのだ。そこでレイの、積極的に自分の意見を口にするという性格が形作られたと言ってもいい。なので、彼女のような人間と相対することには慣れている。
「魔素の濃度に異常はありません。ということは、何かの物質が魔素に還った事実もない。つまり……キース・チェンバーズは、まだ死んでいない可能性があります」
「それで?」
「ミスター・チェンバーズの消失は『失踪』である可能性があり、そうだとすると魔術師にも……ミスター・シャーロック以外にも、犯行は可能です。彼を解放してください」
レイは強い口調で言って、彼女の目をまっすぐに見据える。
もしもチェンバーズの不在が『失踪』によるものであるなら、魔術師にも犯行は可能だ。たとえば藍鍾尤が示したように、魔術師と契約している妖精による連れ去り。あるいは、幻想域に通じるゲートの機能を有する儀装の持ち込み。もしくは、チェンバーズが自らの意思でこの船を降りた可能性。そもそも、水は異界への門や境界として古くから語られてきている。船内のドアもゲートとして利用できるだろうし、チェンバーズのように『魂の流転』を研究していた者であれば、冥界——異界との繋がりも研究していただろう。
一級の魔術師が行う改竄は、魔法使いのそれに匹敵するという。チェンバーズがそうでなかったとは、レイには思えない。錬金術は万物を流転させるすべであり、あらゆる魔術の基礎ではあるが、魂は流転するものではないからだ。それを研究テーマにしているなら、それなりの才覚があったはずである。
ハウエルズの青い瞳にじろりと見下ろされ、レイはたじろいだ。
「それがなんだと言うの? 彼が第一容疑者であることに変わりはないわ、彼は魔法使いなのだから。貴方、シャーロックのトランクの中身を知らないの?」
「トランク?」なんでも入る、空間拡張の魔術がかかった旅行用の鞄のはずだ。
「あれは、幻想域に繋がっているのよ」
レイは言葉を失い、否定を求めて藍鍾尤を振り返った。藍鍾尤はため息をついて、首を横に振る。事実だ、と言いたいのだろう。まさかあのトランクがそんなふうになっているなんて——中に手を突っ込んだことのあるレイでも、まるで知らなかった。あのときは、ただ思い浮かべたものが手の中に自然と収まるような魔術がかかっているのだと思って、感心するだけだったのに。
「仮に失踪だったとしても、魔法使いであるシャーロックには彼を連れ去る手段が無数にある。だったら、シャーロックを拘留しておくのが一番正しいと思わない?」
ぐ、と詰まる。ハウエルズの主張は正しい。弁明しなかったこと以前に、犯行を容易に行えるのはクロフォードだけ、という事実がある。ならば彼を拘束しておくのが最適だ。
レイが立ち尽くしているあいだに、ハウエルズはインカムで執行者に指示を出していく。副責任者だった藍鍾尤を臨時で責任者に昇格、クロフォード抜きで警備体制を構築し、発表を再開するという。腕時計を確認すれば、もう一時間が経っていた。
自分は失敗したのだ。レイの腹の奥底に泥のような感情がわだかまり、喉の奥がぎゅっと締まる感覚がした。情けなさに泣きたくなる。欠けそうなほど強く、歯を食いしばった。
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