第4話:光里の居場所

 夜が明けると技巧白夜街の雰囲気は一変する。


 ――そう感じるのは『カフェ・ドロエット』でアルバイトをしている安慶田光里あげたみつりも同じだった。


 駅やバス停に向かって小走りになる学生やサラリーマンの姿。


 交差点で信号待ちをする自転車や通勤客の群れ。

 

 車の列が途切れなく続く幹線道路。


 平日は忙しなく、慌ただしい光景が目に入る。

 

 本日は土曜日。

 人々が社会における自身の役目を忘れ、自分のために時間と金をもっとも使える日である。


 中でも、技巧白夜街一番区『ソルヴィ・ミレティア』は、一日中人の波が形成され、人々は街から溢れんばかりに建ち並ぶ、最新技術を取り込んだレジャー施設や商店街、レストランに続々と入店していく。


「光里~、これ、五番テーブルさんのモーニングね」


「は~い、あッ! 井波さん、お待ちのお客様もモーニングです! ドリンクはホットコーヒーです」


「りょうか~い。刈谷、三番と六番のモーニングは?」


「今、ちょ、う、ど、出来た!」


「セナ、これ配膳して! あとユアはバイキングの補充を頼むわ」


 店内を休むことなく駆け巡る三人のホールスタッフと厨房で汗をかきながら黙々と料理を作り続ける二人。

 五人は一息つく間もなく、入れ代わり立ち代わりの利用客に翻弄されながら業務を続ける。


 ここは『カフェ・ドロエット』。


 朝九時オープンから十一時現在まで客足が衰えることなく、キャパシティ四十人の室内は常に満席状態。

 客の目当ては、地元新聞にも掲載されるほど絶品のハニーナッツチーズトーストとバイキングのモーニングセット。

 それと、この店の看板とも言えるレトロで可愛らしい制服を着たバイトの女子たち。


 時刻が十二時を回った。

 入り口に吊るされた休憩の札が回転する。


 店内では、急遽シフトに入った光里がまかないとして出してもらったハニーナッツチーズに、シナモンをたっぷりかけて、オリジナルの味にしたトーストとブラックコーヒーで一服していた。


「悪いねぇ、光里。休日だってのに」


「大丈夫ですよ。今日は特に何の予定も入れてませんでしたし。それにしても、今日はホールスタッフ少ないですね。……ついに井波さんのパワハラが本領発揮しましたか」


「あんたへのまかない、料金分取ってやろうかしら」


「いや~、井波さんはこの街一番の美女ですよね~」


 光里はそんなことされてたまるか、と必死に井波に媚びを売る。


 この店の店長である井波桂里奈いなみかりなは二十三の時にこの店を開き、二十七歳になった今では、十人のスタッフでも手いっぱいの繁盛を呼び込むほどの人気店に成長させた。


 彼女の姿は一目で記憶に焼き付く。


 肩口から緩やかに波打って落ちるアーモンド色の髪。整った顔立ちはもちろんのこと。慈愛と施しを含意した輝きを放ちつつも、どこか人を不安にさせる神秘性もある聖女のような瞳が視線を引き寄せる。

 高く伸びた脚線としなやかな腰の曲線は百七十の長身をさらに際立たせ、単なる美しさのほかに、妖しく人を惑わせる魅力を備えていた。


「なんだなんだ。井波はまた従業員をいじめてるのか? おっかないねぇ~」


「刈谷、あんたは減給ね。もう決定事項だから」


「おいおい、俺にはそんな脅し効かないぜ。お前と何年の付き合いだと思ってるんだよ……なぁ、本当マジじゃないよな?」


 井波は何も言わず、ただ微笑みを返した。


「刈谷さん、これはマジですよ」


 しょぼくれた顔を見せる刈谷幸次かりやこうじは、キッチン担当の一人。身長は井波よりも頭一つ高く、中肉中背。スタッフの中では最も古参で、年齢は井波と同じ二十七。

 陽気なお調子者であり、店内の雰囲気は基本的に彼のテンションに左右される。


「見なよ、ユア。刈谷さんがまた余計なことを言って後悔しているよ」


「見たわよ、セナ。……これまでの付き合いから考えれば、この後、刈谷さんは情けない顔で井波さんに謝罪すると思うの」


「……ユアのその予想は当たっているよ。ほら、もう謝っている」


 話に入ってきたのは、今日出勤しているホールスタッフの播磨瀬奈はりませな播磨優愛はりまゆあ

 双子の姉妹は、光里と同じ高校に通う一つ下の後輩で学園内で知らない者はいない。


 中性な顔をしている瀬奈は、その見た目とサバサバとした性格のため、校内でも店内でも女子人気が著しく高い。妹の優愛と比べ、勉学に苦手意識を持つが、彼女のポテンシャルが最も発揮されるのはスポーツである。特に剣道においては、同学年で彼女の右に出る者はいない。


 妹の優愛は、ショートボブの瀬奈とは反対に、黒い髪を腰まで伸ばし、落ち着いて物事を俯瞰する性格である。所作、振舞は中世貴族を彷彿とさせ、可憐な花と呼ぶにふさわしい女性像である。勉学では常に上位をキープし続け、その明晰さと美貌から男子の間では学園のアイドルと称されている。


「ユアちゃん、セナちゃん、二人に良いことを教えよう。この刈谷幸次、頭を下げるのは他の誰よりも早い」


「それの何が良いことか私には分からないけど……ユアは分かる?」


「私もセナと同じ。こういう時は、意外にも頭の回転が速い光里先輩の考えを聞きましょう。先輩はどうお考えで?」


「そうねぇ、やっぱり大人になると凝り固まったプライドが邪魔して自分の過ちを謝罪できない人が増えるから……ってちょっと、意外って何よ! 私はこう見えて優等生なんだぞ!」


「三人とも、俺のボケをそんな真剣に受け取らないでくれ……恥ずかしくて仕方がない」


 休憩時間の店内に広がる従業員たちの声がピークに達した。


 他愛もない会話で笑い合い、下らないことで言い合いをしたり、真剣な相談をしたりすることが出来る、この場所、この時間。

 

 光里はこの時間を大事にしている。


 この時間だけが、光里が唯一、本当の彼女でいられる時間。


 ――あぁ、やっぱりここが一番だ。


 学園だと周りの指標になるような模範生徒として過ごさないといけないけど、ドロエットはそんな仮面をする必要はない。


 友達と過ごす授業時間とか休み時間は確かに楽しいけど、ふと冷めた自分が囁く。ここにいる人たちは喋り相手なだけで、決して心を許し、素の自分を預けて良いわけじゃないって。


 弓道部員たちとも、部活の時以外も話したり、遊んだりするけどそれが特段楽しいってわけではないんだよね。

 彼らとの関係は言うなれば、付き合い……かな。


 家族とは……


 (いや今更、との記憶を思い出すのは止めよう。気分が悪くなるし、せっかく幸せな時間を過ごしているんだから)


 刈谷さんがまだ双子にいじられている光景をみながら、私は最後の一口のトーストを頬張った。

 酸味が強いブラックコーヒーで口の中に残った甘ったるさを流し込んで皿とカップを片付ける。


「ごちそうさまでした。美味しかったです」


「はい、お粗末様。そういえば、新商品の案だけど何か思いついた?」


「ふふん、二週間も貰ったんですから考えられましたよ! どうですか、これ!」


 私は、シナモン三色団子のレシピを見せた。

 本当はすぐ思いついたんだけど、一日や二日で出した案が通るわけがないからね。

 あえて、長い期間をもらったってわけ。


「う~ん……却下……かな?」


「えーっ! 何でですか!」


「いやね~、う~ん、なんというか……え~これ、却下なのかな」


 おやおや? これはもしかしたらいけるかもしれないか?

 ならば、ここは畳みかけるしかない!


「井波さん、これはドロエットをさらに盛り上げるきっかけになりますよ! 子供受けスイーツ系としても、コーヒーと紅茶に合うカフェ系スイーツとしても、真新しい和洋折衷系としても! ハニーナッツチーズトーストに引けを取らない人気商品になるに決まっています!」


「え~」


「かぼちゃとの組み合わせは、ほんのりとした甘さと秋らしいオレンジが特徴なのでシーズン向きです。キャラメルとかチョコを使うのが無難ですけど、よもぎとかあんこ、きな粉を合わせるのも美味しいんです」


「……うちは外観も内装も洋風寄りなのに和はどうなんだろう……(けど、せっかく光里が考えてくれたし、案としても良い点もあるから)」


 お、井波さんが目を瞑ったということは……あと少しかな?

 ほんとにこの人は押しに弱いなぁ。


「……試しに作ってみようか」


「やったー」


 胸も大きければ懐も大きいんだから。

 ……にしても大きいなぁ。


「なに?」


「いいえ、何も」


 視線を逸らした先の壁にかけてある時計が、営業再開の一時半を指そうとしていた。


「あ、そろそろオープンですね。準備してきます」


 更衣室に向かい、ロッカーからショートエプロンを取り出すために手を伸ばす。

 それとは別に無意識に、一つの引き出しを撫でる。

 ここに眠っているのは黒いグローブと無線機、それと予備弾薬。

 あの仕事は、今はまだ動かない。


 ホールに戻ると、井波さんと刈谷さんは厨房の換気扇をつけ、いつでも調理を開始できる状態、セナとユアは制服を着こなし、カウンター前でお盆を持って整列している。


 私はドアにかかった札をオープンにするため入り口に歩み始める。


 ドアの小さな透けガラス越しに大量のお客さんが見えて、正直この後の大変さを考えると気が滅入るけど、これもだから。


 私は若葉のような緑の木の扉を静かに開けて、札を回した。


「お待たせしました。カフェ・ドロエット、午後の営業を再開いたします」

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