第6話

 朝の準備を済ませ、いつもの通学路を歩きながら、私は『飽きた儀式』について考えていた。

 今の私の日常は、何も変わっていない。

 期待していなかったはずなのに、どこか小さな失望も感じていた。


 教室に着くと、クラスメイトたちはいつも通りに会話に夢中だった。

 私がそこにいるかいないか、誰も気にしていない。

 相変わらず透明人間のような存在感の薄さだ。

 ただ静かに自分の席に着き、教科書を取り出した。

 窓際の席からは、スミレが友人たちと楽しそうに話している様子が見えた。


 彼女たちの輪の中に、自分の居場所はもうない。

 いや、このクラスに居場所はない。

 もはや、いないもの同然だった。


 昨日の私たちの最後の会話が何だったのか、スミレはまるで何もなかったかのように振る舞っている。

 それも彼女なりの気遣いなのか、それとも私との関係がもはや彼女にとって重要ではなくなったからなのか。

 どちらにしても、彼女の世界から私は消えつつあった。


 休み時間、スミレの笑い声が教室に響く。

 彼女の周りには常に人がいて、笑顔が絶えない。

 私はそれを見ないようにして、窓の外の景色に目を向けた。

 遠くに見える木々の揺れる様子を眺めながら、『私』という存在について考えた。

 誰にも見られず、誰にも記憶されず、この世界でいないもののように生きている。


 それは悲しいことだろうか、それとも自由なことだろうか。


 放課後、私はいつもより少し早く家路についた。

 誰とも言葉を交わさない一日が終わり、心の中に奇妙な静けさが広がっていた。

 家に着くと、すぐに自分の部屋に向かった。


 机の引き出しに入れておいた『飽きた』の紙を確認しようと思った。

 昨夜の儀式の痕跡として、それはまだ残っているはずだった。

 引き出しを開けると、そこには紙はなかった。


 その紙の代わりに、見覚えのない一冊の本が置かれていた。


 青い本。


 私は驚いて立ち止まった。

 この本は誰が置いたのだろう。

 両親だろうか。でも彼らが私の机の引き出しに本を入れる理由はない。

 それに、この本には表紙にタイトルがなく、ただ青い布で装丁されているだけだった。


 記憶にない本。

 私が買った覚えも、借りた覚えもない。


 手に取ってみると、ごく普通の本だった。

 ゆっくりと開いて、本を開いた。


『教室の最後列、窓際の席。中学二年生になった私にとって、それは偶然にして最高の場所だった。人目を引かず、かつ外の景色を眺められる特等席。』


 さらにページをめくると、スミレとという女子中学生が出てきた。

 そして、昼食時の気まずさ、そして隣のクラスの前で偶然聞いてしまった会話まで、すべてが詳細に書かれていた。


 これは…私自身の日常だった。

 新学期の初日の様子が克明に描写されている。

 私が感じたこと、考えたこと、すべてがそこに書かれていた。


 まるで誰かが私の頭の中を覗き、そのままを文章にしたかのようだった。

 しかし、それは不可能なはずだ。これは誰かの悪戯なのだろうか。

 でも、ここまで私の内面を知っている人間がいるだろうか。


 教室で『透明人間』のように扱われている私の内心など、誰が知り得るというのだろう。


 私はパラパラと本を飛ばしていく。

 ページをめくると、最後のほうには『飽きた儀式』のことも書かれていた。

 保健室でその儀式を知り、実行するまでの経緯が、私の心の動きまで含めて描写されていた。


 スミレとの最後の会話、彼女との決別に至る感情の機微まで、あまりにも正確に記されていた。


 そして最後のページに目をやると、そこには今この瞬間の様子が書かれていた。

 私が本を開き、驚き、恐怖を感じながらページをめくる様子まで。

 まるで私が今まさに体験していることが、リアルタイムで記録されているかのようだった。


 私は恐怖で本を落としそうになった。

 これは何なのか。誰がこんなことをするのか。


 それとも、これは『飽きた儀式』の結果なのだろうか。

 もし本当にこの本が私の現在を記録しているなら、この本自体が何か超自然的なものではないのか。


 本を閉じて深呼吸した。

 冷静に考えなければならない。

 これは誰かの仕業かもしれないし、あるいは私の幻覚かもしれない。


 もしかしたら、私はストレスで現実と妄想の区別がつかなくなっているのかもしれない。


 でも、もう一度本を開くと、そこには確かに私の日常が描かれていた。

 そして最後のページには、私が本を閉じ、深呼吸し、再び開く様子までもが描写されていた。


 窓の外を見ると、日が傾き始めていた。

 部屋の中が薄暗くなりつつある中、私は再び本を開き、最初から読み始めた。

 自分自身の物語を読むという奇妙な体験。


 それは恐ろしくもあり、どこか魅惑的でもあった。


 この本は何を意味しているのか。なぜこれが私の引き出しに現れたのか。


 『飽きた儀式』は本当に何かを変えたのだろうか。

 それとも、これはすべて偶然の一致なのか。


 読み進めるうちに、私は不思議な感覚に囚われた。

 まるで自分が物語の登場人物であるかのような、そして同時に読者でもあるような二重の感覚。

 私はその既視感のような、揺れる船にいるような感覚を手繰る。


 そして気がついた。

 この世の真理についてを。完璧に完全に感じるかのように私はそれを完璧に理解したと直感した。

 真理を知った私は、それを二度と忘れることがないようにしなければならない。

 だから、机の引き出しから、いつも書いている日記を取り出した。

 使い慣れたシャープペンシルを走らせ始めた。


 教室の最後列、窓際の席。

 中学二年生になった私にとって、それは偶然にして最高の場所だった。

 人目を引かず、かつ外の景色を眺められる特等席。


 新学期の始業式を終え、初めて教室に足を踏み入れた瞬間、私は自分の名前を見つけて密かに安堵した。


 もうひとつの救いは、小学校からの唯一の友人であるスミレと同じクラスになれたことだった。

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