第5話
儀式について知ってから一日が過ぎた。
保健室で見つけた『飽きた儀式』は、馬鹿げたものだとわかっていながらも、私の頭から離れなかった。
真っ白な紙を五センチ四方に切り、黒いサインペンで六芒星を描き、その中央に赤いボールペンで『飽きた』と書く。
そんな単純な行為が何かを変えるとは思えない。
それでも、何か特別なことをしたいという気持ちが私の中に残り続けていた。
朝の教室は、いつもと変わらない喧騒に満ちていた。
窓際の席に座り、私は静かに授業の準備をしていた。
視界の隅で、スミレが友達のグループと楽しそうに話しているのが見えた。
彼女の笑顔は明るく、私のいない世界で完全に溶け込んでいるようだった。
それを見て、わずかな羨望と共に諦めの気持ちが湧き上がった。
授業が始まり、いつものように私は教科書の文字を丁寧にノートに書き写していった。
周囲の存在を気にすることなく、自分の世界に閉じこもる。
それは孤独であると同時に、ある種の平和でもあった。誰にも期待されず、誰にも失望させる心配もない。
ただそこに存在するだけの静かな世界。
昼休みになると、クラスメイトたちは小さなグループに分かれて食事を始めた。
笑い声や談笑が教室中に広がる中、私は一人静かに弁当を開いた。
ときおりスミレと目が合った気がしたが、彼女がこちらを見る様子は、そこらの風景を見ているのと何も変わらない。
そのスミレの態度を見て、かつての親友との間に生まれた深い溝を、改めて実感した。
最後の授業が終わり、他の生徒たちが次々と帰路につく中、私はいつものように窓の外を眺めていた。
教室がほぼ空になったとき、予想外の足音が私の机に近づいてきた。振り返ると、そこにはスミレが立っていた。
「ちょっといい?」
スミレだった。
その声には、有無を言わせないものが感じられた。
カバンを持つ手が少し震えているようにも見えた。
私は一瞬動揺したが、表情には出さないようにした。
「いいよ。」
私は短く答えた。
心の奥に何か予感めいたものがあった。
今日がある種の区切りになることを、二人とも感じていたのかもしれない。
「最近、私を避けてるよね。」
スミレの声は静かだったが、その言葉には重みがあった。
彼女の目はまっすぐに私を見据えていた。
その直球の問いかけに、私は言葉を失った。
確かに避けていた。
あの会話を聞いてから、意識的に距離を取っていたのだから。
私は答えなかった。
窓の外に広がる校庭に視線を移した。
そこでは部活動に向かう生徒たちが、元気に歩いていた。
彼らの活気ある姿が、どこか別世界のもののように思えた。
「何かあったの?何か私が言ったこと?それとも、した事?」
スミレの言葉には焦りが混じり始めていた。
彼女は私との関係が壊れつつあることを、確かに感じていたのだろう。
しかし、その本当の理由に気づいているのだろうか。
あの日、廊下で聞いた会話のこと。
『疲れる』『気を遣う』という言葉。
それが全てを変えてしまったこと。
私は黙ったまま窓の外を見続けた。
何を言えばいいのだろう。
あの日のことを告げるべきか。
それとも適当な理由をつけて誤魔化すべきか。
どちらにしても、もう元には戻れない。
私たちの間に存在していた薄い糸すら、既に切れかけていた。
沈黙が続くことに、スミレはさらに焦りを見せた。
「なんでなの?どうして話してくれないの?小学校の時は違ったよね。もっと…もっと話してくれたよね。」
彼女の言葉には懐かしさと共に、どこか非難めいたものも含まれていた。
確かに私は変わった。
けれど、変わったのは私だけではない。
彼女も、私たちの関係も、全てが変わっていったのだ。
依然として黙ったままの私に、スミレはついに我慢できなくなったようだった。
「もういいよ。無理に話そうとしなくてもいい。あなたがそうしたいなら、そうすればいい。」
その言葉には諦めと、わずかな怒りが含まれていた。
スミレは深いため息をついて、かばんを手に取った。
「でも覚えておいて。私はいつでも話を聞く。でも、あなたが話さないことを選んだんだよ。」
最後にそう言い残し、スミレは教室を出て行った。
彼女は、私のことを『あなた』といった。
その他人行儀な言い方が私とスミレとの距離感を物語っているようだった。
そして彼女の背中を見送りながら、私の胸に奇妙な感覚が広がった。
喪失感と解放感が入り混じったような、複雑な感情だった。
スミレが去った後、教室には私一人だけが残された。
静寂の中、窓から差し込む夕日が机の上に長い影を落としていた。
私はゆっくりと立ち上がり、かばんを手に取った。
今日という日が、私とスミレの関係に明確な区切りをつけた、とそう感じた。
家に向かう途中、私の胸に奇妙な感覚が広がった。
喪失感と解放感が入り混じったような、複雑な感情だった。
終わりの悲しさと、軽くなった心。
相反する感情が私の中で渦巻いていた。
今まで曖昧だった関係に、はっきりとした決着がついたことの安堵感だろうか。
それとも、これから完全な孤独を生きるということの喜びなのだろうか。
家に着くと、いつものように両親の姿はなかった。
ふと寂しさが込み上げてきた。
両親は忙しく、スミレとも別れ、私には本当に誰もいなくなってしまった。
それは自分で選んだ孤独だとはいえ、時折胸が痛むほどの寂しさをもたらした。
でも、もう後戻りすることは決してない。
夕食をとり終え、自分の部屋に入った。
制服を脱ぎ、机に向かった。
引き出しから日記帳を取り出し、今日の出来事を記し始めた。
『今日、スミレと最後の会話をした。彼女は私が避けていることに気づいていた。問いただされたけれど、私は何も答えられなかった。言葉にするなら、疲れた、が一番近いかもしれない。』
シャープペンシルを走らせながら、私は思い返した。
小学校時代のスミレとの思い出。図書委員として一緒に過ごした時間。
本の整理をしながら交わした会話。
それらは確かに温かな記憶だった。
『不思議なことに、決別の後、悲しいという感情よりも、すっきりしたという感覚の方が強かった。でも今、一人でこうして書いていると、寂しさも感じる。これが終わりの形なのだろうか。すっきりとした解放感と、消えない寂しさが同居している。』
書きながら、涙が頬を伝うのを感じた。
スミレの前では見せなかった感情が、ようやく解放されたかのようだった。
でも、それは悲しいだけの涙ではなかった。
『スミレにとって私は『気を遣う相手』だった。そして私にとっても、彼女との会話は次第に義務になっていた。お互いに本音を隠し、表面的な関係を続けることに、疲れていたのだと思う。だからこそ、今日の別れは必然だったのだと思う。でも、それでも寂しい。』
日記に綴る言葉は、私の心の整理を助けてくれた。
書くという行為によって、混乱していた感情が少しずつ明確になっていく。それは一種の浄化だった。
『スミレは最後に私に話をしてから別れていった。だからきっと、私たちの友情は、本物だった。少なくとも、あの時は。時間が経ち、人が変われば、関係も変わる。それは悲しいことだけど、自然なことでもある。』
日記を書き終えた後、私は購入した画用紙を取り出した。
『飽きた儀式』――ネット上で見つけたこの儀式について考えた。
この儀式で、本当に何かを変えるとは思えなかった。
それでも、スミレとの決別という大きな区切りの後、何か新しいことを始めたいという気持ちが強かった。
真っ白な画用紙を取り出し、定規で丁寧に五センチ四方の正方形を二枚切り取る。
黒いサインペンで、二枚の紙にできるだけ正確に六芒星を描いた。
細い線によって、星型が出来ていった。
そして最後に、赤いボールペンで星の中央に『飽きた』と書いた。
完成した二枚の紙を手に取り、しばらく見つめていた。
この小さな紙に何ができるというのだろう。でも、儀式というものは時に意味を持つ。
それは物理的な効果ではなく、心理的なものかもしれない。今の世界に『飽きた』という気持ちを形にすることで、何か新しいものへの扉が開くかもしれない。少なくとも、自分の中で何かが変わるかもしれない。
一枚を枕の下に滑り込ませ、もう一枚は机の引き出しに入れた。そして再び日記を取り出し、追記した。
『今日、『飽きた儀式』を実行した。荒唐無稽な迷信だと知りながらも、試してみることにした。期待しているわけではない。ただ、今の世界に少し飽きたという感覚があるから。正確には『飽きた』というより『疲れた』のかもしれない。人の目に映らない存在でいることに。スミレとの別れを経て、何か新しいものを求めている。それがこの儀式に表れているのだろう。』
シャープペンシルを走らせながら、私は自分の本当の気持ちを探っていた。
『もし明日、何も変わらなくても構わない。それでも、この儀式を実行した私は、今日の私とは少し違うだろう。スミレとの関係に区切りをつけ、自分で何かを選び、実行したという事実だけで。』
日記を閉じ、ベッドに横になった。枕の下に潜む小さな紙の存在を感じながら、目を閉じる。今夜の私は、悲しみと解放感が混ざり合った複雑な感情を抱えていた。それでも、少しだけ未来に期待するような気持ちで眠りにつくことができた。明日は何が待っているのだろう。
翌朝、私は特に変化を感じないまま目覚めた。
枕の下から紙を取り出し確認すると、赤いインクで書かれた『飽きた』の文字がそこにあった。
期待していなかったとはいえ、何も起こらなかったことに微かな失望を覚えた。
もっとも、別の世界に行けるなどとは思っていなかった。
ただ、何か変化があるかもしれないという薄い期待があっただけだ。
それが叶わなかったことは、ある意味で予定通りだった。
部屋は同じで、外の景色も同じ。
現実は何も変わらなかった。
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