第4話

 スミレとの距離は日に日に広がり、教室での私の存在感はさらに希薄になっていった。

 クラスメイトたちは私が近くにいることに気づかず、まるで透明人間のように扱う。

 いつからだろう、彼らの視界に私が映らなくなったのは。

 それとも初めから見えていなかったのか。

 何にせよ、私はほとんど存在しない人になっていた。


 休み時間の会話の輪に入ることもなく、私は窓際の席で本を読むか、ただ外を眺めるかして過ごすようになった。

 それは自ら選んだ孤独であり、ある意味では心地よいものでもあった。

 誰にも期待されない、誰にも気を遣わない自由。


 ただ、矛盾しているけれど、その静寂の深さに時折不安を覚えることもあった。


 体育の授業があった。

 陽気に誘われ、クラスメイトたちは活発に動き回っていた。

 授業の内容はバトミントンだ。

 ダブルスで行われる、それは2人組を作らなければならない。

 おのずとチーム分けが始まり、みんなで仲良く自然にチームが出来ていった。

 予想通り、私は最後まで残った一人だった。

 消去法で、知らないと人と私は組まされた。

 相手は友達と組むことが出来ずに意気消沈している。

 ただ、私にとっては、それはもう慣れていた。


 ゲームが始まると、自分のチームの順番が回ってくるまでに待機する時間があった。

 私とダブルスを組んだ女子生徒は、まるで私がそこにいないかのように、ほかに待機しているチームの女子生徒と会話している。

 私は広いコートの隅で、ただほかの試合を見つめるだけだった。

 ここにいる意味はあるのだろうか。

 ただの背景として存在しているだけではないのか。そんな疑問が浮かんでは消えた。


 体育館の明るさと騒がしさが、次第に私を圧迫してきた。

 胸がキリキリと痛み始め、息苦しさを感じた。


「先生、お腹が痛いです。保健室に行ってもいいですか?」


 体育教師は特に詮索することなく許可を出した。

 周囲の生徒は気にもかけない。

 私が抜けても、クラス全体には何の影響もないことを、誰もが分かっていたからだろう。

 いないのも同然の存在が、実際にいなくなることに誰も気にとめない。

 それは残酷でありながらも、正直な反応だった。


 静かな廊下を通り、保健室へと向かった。

 しかし、ドアを開けても中には誰もいなかった。

 それでも私には都合が良かった。

 誰にも説明する必要がなく、ただ一人で静かに過ごせる場所が欲しかっただけだから。


 説明しなければならないことほど疲れるものはない。特に、存在そのものが薄い自分の状態を説明するのは。


 白いカーテンで仕切られたベッドに横たわり、天井を見つめた。

 体育館の喧騒から離れた静寂が、少しずつ私の心を落ち着かせていく。

 本当は腹痛などなかった。ただ、あの場所から逃げ出したかっただけだ。


 この手の言い訳には、既に慣れていた。

 日常から少しだけ距離を取るための小さな嘘。


 天井の白い面を見つめながら、私は考え始めた。もし私がこの学校にいなかったら、何か変わるだろうか。

 誰かが私の不在に気づくだろうか。

 スミレでさえ、私との関係を面倒に感じていたのだ。

 両親は仕事に忙しく、家で顔を合わせることもほとんどない。

 私が消えたとしても、世界は何も変わらないのではないか。


 その考えは恐ろしいものでありながら、奇妙な安心感ももたらした。

 世界に影響を与えられないということは、責任からの解放でもある。

 誰かの期待に応える必要も、誰かを失望させる恐れもない。ただ存在するだけでいい。

 それは一種の自由だった。

 けれど同時に、底なしの孤独でもあった。


 しかし、ただ存在するだけの意味とは何だろう。

 私は本当に『存在』しているのだろうか。クラスメイトたちの目には映っていないようだし、家族との会話も最小限だ。

 唯一の証明は、大学ノートの日記帳に綴られた言葉だけかもしれない。

 それでも、書き続けることで自分を確かめている。

 それが私の儀式のようなものだった。


 スマートフォンを取り出し、突発的に検索欄に『存在しない方法』と入力した。

 半分冗談のつもりだったが、検索結果に意外なものが表示された。

 匿名掲示板のスレッド『異世界へ行く方法』。好奇心に駆られ、そのリンクをタップした。

 どこか心の奥で、自分を変える何かを探していたのかもしれない。


 画面には様々な書き込みが並んでいた。

 『鏡の間で名前を三回唱える』『満月の夜に川の流れに向かって自分の名前を告げる』『廃墟で一晩を過ごす』


 それらは荒唐無稽な儀式の数々だった。

 どれも根拠のない迷信にすぎなかったが、不思議と読み進めずにはいられなかった。


 そして、一つの投稿が私の目を引いた。『飽きた儀式』と題されたもの。


 『この世界に飽きた人のための儀式。真っ白な紙を五センチ四方に切り、黒いサインペンで六芒星を描き、その中央に赤いボールペンで『飽きた』と書いたものを二枚作成する。一枚は枕の下に入れて眠り、もう一枚は机の引き出しなどに保管する。これにより、『飽きた』世界から別の世界への扉が開く可能性がある。』


 荒唐無稽な内容だとわかっていても、その単純な手順に私は惹かれた。

 この世界に『飽きた』。

 その言葉が私の気持ちを的確に表しているように思えた。

 特に希望があるわけではなく、特に絶望しているわけでもない。

 ただ、すべてが色あせて見える。


 そんな感覚を『飽きた』という言葉が言い表していた。疲れ切った心の状態。

 それは絶望ではなく、ただの諦めに近い。


 保健室のベッドで横になったまま、私はさらにスレッドを読み進めた。

 ある人は『成功した』と報告し、別の人は『何も起こらなかった』と書いている。

 自称霊能者らしき人物は『危険な儀式』と警告し、別の人は『単なる暗示効果』と分析していた。

 ネット上の匿名の声たち。おそらく私と同じような孤独を抱えた人々の言葉なのだろう。


 儀式を試してみるべきだろうか。

 非科学的なものに頼るのは、一種の敗北のようにも思えた。

 けれど、何も変わらない日常の中で、自分の意思で選ぶ小さな変化。

 それだけでも意味があるのかもしれない。


 たとえそれが『飽きた』という否定的な言葉を通してでも。


 私はこの儀式を本気で信じているわけではなかった。

 しかし、何か行動を起こせるという事実だけで、わずかな希望が湧いてきた。

 自分の存在に意味を持たせる何か。たとえそれが意味のない儀式だとしても、自分で選び、実行することに意味があるのかもしれない。

 それとも、これもまた現実からの逃避に過ぎないのだろうか。

 どこかで、そんな自己嘲笑も感じていた。


 チャイムが鳴り、次の授業を知らせる音が響いた。

 私はゆっくりとベッドから起き上がり、保健室を後にした。

 教室に戻る途中、『飽きた儀式』のことを考えていた。本当に試してみるべきだろうか。

 準備するものは簡単。白い紙、黒いサインペン、赤いボールペン。家にあるものかもしれないし、なければ学校からの帰り道で買うこともできる。


 けれど今は、まだその決心がつかなかった。

 こんな儀式に頼るのは、あまりにも子供じみているように思えた。

 もっと冷静に、現実的な方法で自分の状況を変えるべきなのではないか。


 でも、どうやって?

 スミレとの関係を修復する?


 それはもう不可能だ。


 新しい友達を作る?

 どうやって?


 考えれば考えるほど、堂々巡りになる。

 結局、私には勇気が足りなかった。

 現実を変える勇気も、荒唐無稽な儀式に頼ることにも。


 だから今日は、ただ日常に戻ることにした。

 それでも、『飽きた儀式』の存在は私の頭の片隅に残り続けた。

 自分を変える可能性を秘めた、小さな希望の種として。



 教室に戻ると、体育の授業は既に終わっていた。

 次の授業が始まるまでの短い休み時間、クラスメイトたちはまるで私がそこにいないかのように会話を続けていた。

 私はそっと自分の席に着き、教科書を開いた。

 いつもの日常に戻る。

 けれど、心の中には小さな変化があった。『飽きた儀式』という言葉。

 まだわからなかったが、その言葉が私の中で少しずつ根を下ろし始めていることは確かだった。


 帰り路に、私は文房具店に立ち寄った。

 『飽きた儀式』に必要なものを買いに行くというわけではなく、ただなんとなく足が向いただけだった。

 店内をぶらぶらしていると、白い画用紙と黒のサインペン、赤いボールペンが目に入った。


 すぐに『飽きた儀式』が頭に浮かび、一瞬躊躇した。


 けれど結局、それらを手に取りレジに向かった。

 まだ儀式をするかどうか決めたわけではない。

 ただ、選択肢を持っておきたかっただけだ。


『明日、もしかしたら試してみるかもしれない。』


 そう思いながら、私は再び家への帰り道に戻った。

 変化は、少しだけ近づいていた。

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