第3話

 転機は登校後の廊下での出来事だった。

 その日の朝は、いつもより少し早く私は教室に着いていた。

 教科書を机の上に並べ終えると、スミレが教室に入ってきた。私に気づくと、彼女はすぐに私の机へと足を進めた。


「おはよう。今日、放課後一緒に帰らない?」


 スミレの提案は、いつものことだった。


 正直なところ、一緒に帰るという提案に複雑な気持ちがわいた。

 一方では嬉しさがあり、もう一方では憂鬱さがあった。

 またあの気まずい沈黙が続くのだろうか。

 何を話せばいいのか、また悩むことになる。

 でも、そんな気持ちは隠さなければならない。

 彼女との繋がりが細くなるのは怖かった。


「…うん、いいよ。」


 私はそう返事をした。

 するほかになかった。

 もう何度も、断りをいれたからだ。

 ここで断ることはできない。それは義務感に似たものだった。


「あ、でも放課後ちょっと他のクラスの子と話す約束があるから、教室で少し待っていてくれる?すぐ戻ってくるから。」


 またしても彼女の新しい友達の話。

 胸の内で何かが縮むような感覚があったが、表情には出さないよう努めた。

 前向きに考えることにした。

 そう、今の待っている時間で会話の準備をする時間ができる。

 何を話すか考えておけばいいのだ。


「わかった。廊下で待ってる。」


 最後の授業が終わり、チャイムが鳴ると、スミレは急いで教室を出て行った。

 私は机の上の教科書をゆっくりとカバンに入れ、約束通り待つことにした。

 十分ほど経っても彼女が戻ってこないので、廊下に出て様子を見ることにした。


 隣のクラスの前まで歩いたとき、聞き覚えのある声が耳に入った。

 スミレと、おそらく彼女の新しい友達たちだろう。私は無意識に足を止めた。


「ねえ、これからどうする?新しいスイーツのお店ができたんだけど、行ってみない?」


 これは知らない女子の声だった。


「行きたいけど…今日はあの子と一緒に帰る約束してるんだ。」


 スミレの声には、微妙な躊躇いが含まれていた。

 私は息を殺して聞き続けた。自分が『あの子』と呼ばれていることに、少し違和感を覚えた。

 名前で呼んでくれてもいいのに。


「え~、またあの子?いつも無口で何考えてるかわからないよね。正直、怖いし。あの子と一緒に行動するのはねぇ?私はちょっと嫌だな。」


 別の女子の声。

 私の心臓の鼓動が一瞬止まったかのように感じた。

 『怖い』という言葉が、予想外の痛みをもたらした。

 私は怖がられていたのか。

 そんなつもりは全くなかった。ただ、何を話せばいいのかわからないだけなのに。


「うん…小学校からの友達だから、一応誘ってるんだけど…正直、疲れるんだよね。何を考えてるかわからないし、会話も続かないし…。」


 スミレの言葉が、冷たい刃物のように私の胸を貫いた。


『疲れる』 


 その一言が、これまでの関係の本質を暴き出していた。

 私は彼女にとって『疲れる』存在だったのだ。

 一方で、私も彼女といると疲れることを認めざるを得なかった。

 会話を続けるための努力、笑顔を維持するための緊張。

 実は、私たち二人はお互いに疲れを感じていたのだった。


「じゃあ、一緒に帰るの適当に理由つけて断っちゃえば?私たちと来た方が絶対楽しいよ!」


 一瞬の沈黙の後、スミレの声が続いた。


「そうだね。何か適当に言って断ろうかな。いつも一緒にいると気を遣うばかりで…。彼女といると、みんなの雰囲気も重くなるし。」


 その瞬間、私の体から全ての力が抜け落ちた。

 これまでうっすらと感じていた違和感が、一気に確信へと変わった。

 スミレにとって私は、『気を遣う相手』でしかなかったのだ。形だけの友情、義務感からの付き合い。そんな言葉が私の頭の中で渦巻いた。


 不思議なことに、ショックと同時に、どこか解放されたような感覚もあった。

 これまで気づかないふりをしていた現実を、ついに認めざるを得なくなったのだ。

 スミレとの関係が『本物の友情』ではないという事実。そしてそれは、私自身も薄々感じていたことだった。


 足音を立てないように、私はその場を離れた。

 教室に戻り、カバンを手に取り、急いで下駄箱へと向かった。

 靴を履き替え、校門を出る頃には、心に奇妙な静寂が広がっていた。


 不思議なことに、私は涙を流さなかった。

 むしろ冷静さが全身を包み込んでいた。

 これは単なる真実の発見。

 私がずっと感じていた違和感の正体が、今明らかになっただけなのだ。

 スミレが本心を話していたのは間違いない。それを偶然耳にしてしまっただけのこと。


 家路を急ぐ足取りは、いつもより少し早かった。

 頭の中は空っぽでありながら、同時に様々な思いで一杯だった。

 これまでの関係、交わした言葉、共有した時間。私たちの友情はいつから形だけのものになったのだろう。

 小学校の図書委員だった頃は、確かに心から楽しかった。本の話をしている時だけは、私も言葉に詰まることなく話せた。


 いつからそれが変わってしまったのだろう。


 中学に入って、彼女の交友関係が広がり始めた頃だろうか?

 私はその変化についていけなかった。

 彼女は次々と新しい友達を作り、私はただそれを眺めているだけだった。

 彼女が私を置いていったのか、私が彼女についていけなかったのか。その境界は曖昧だった。


 しばらくして、ポケットの中でスマートフォンが振動した。

 メッセージ通知だ。

 画面を確認すると、スミレからのメッセージだった。


『ごめん、急に先生に呼ばれちゃって。長くなりそうだから、今日は先に帰っちゃって?』


 その嘘が、奇妙なほど痛みを伴わなかった。

 むしろ予想通りというか、シナリオ通りに事が運んでいる感覚だった。

『先生』という口実は安易だが、私にも思いつくような言い訳だった。


 私は返信しなかった。

 何を書けばいいのか、言葉が見つからなかった。

 沈黙だけが、今の私にできる最も正直な応答だった。


 同時に、なぜか安堵感も感じていた。

 今日、無理に会話を続ける必要がなくなったのだから。

 その気持ちを持っている自分に対して、少し自己嫌悪も感じた。

 友達との時間を面倒に思うなんて、私はなんて冷たい人間なのだろう。


 そう思ったけれど、一方で安堵している自分がいることは確かな現実だった。



 私が家に着くと、いつものように誰もいなかった。

 この孤独感だけが私の存在を認めてくれるようにすら思えた。


 私はいつものように制服から着替えて、自分の部屋に入り、勉強机に向かった。

 引き出しから青い表紙の大学ノートを取り出し、シャープペンシルを手に取る。

 シャープペンシルを手にした瞬間、心の中の靄が少しずつ晴れていくのを感じた。

 ようやく自分自身と向き合える時間が来たのだ。


『今日、私は真実を知った。』


 日記にシャープペンシルを走らせながら、私は自分の中に確かな決意が芽生えるのを感じた。


『スミレにとって私は、もう友達ではない。ただの重荷。それなら、もう彼女に気を遣わせることはしない。明日から、本当の一人になろう。でも不思議と、悲しくない。むしろ、すべてがはっきりしたような気がする。』


 言葉を紡ぎながら、私は今日感じた複雑な感情を整理していった。

 確かにショックはあった。でも同時に、どこか解放された感覚もあったことを認めざるを得なかった。


『正直に書けば、私自身も彼女といるとき、常に緊張していた。次に何を話すべきか、どう反応すべきか、ずっと考え続けなければならなかった。それはとても疲れることだった。でも、それを認めることができなかった。彼女を失えば、完全な孤独になると思っていたから。』


 文字を通して、私は自分自身の本当の気持ちと向き合っていた。

 言葉にすることで、混乱していた感情が少しずつ形を成していくのを感じた。


『でも今は思う。本当の孤独とは、形だけの関係に縛られることかもしれない。互いに気を遣いあって、本音を言えない関係。それは実は最も孤独な状態なのではないか。』


 今までぼんやりと感じていた違和感が、言葉となって浮かび上がってきた。

 友情の形を守るために、自分自身を偽ることの虚しさ。

 それはある意味で、最も深い孤独だったのかもしれない。


『これからは偽りの関係に縛られるよりも、一人でも自分らしくいることを選ぼう。それが本当の意味で自由なのだと思う。』


 私はそう日記に記載した。

 何の変哲もない大学ノートに書いた私の言葉は、とても私の心にしっくりときた。



 その日から、私は変わり始めた。

 スミレが私を誘うたびに、様々な理由をつけて断るようになった。


 家での用事、保健室での休養、担任との相談…。


 どれも真実ではなかったが、もはや罪悪感は感じなかった。

 誰も私の嘘に気づかなかった。

 いや、彼らにとってすれば、私の用事が嘘であると気がついたとしても、それはどうでも良いことになっているのかもしれない。


 その証拠に、スミレも次第に事を察したかのように、誘いの頻度は減っていった。

 朝の挨拶だけが習慣として残り、それも次第に形だけのものになっていった。

 私たちの間に広がる距離は、もはや誰の目にも明らかだった。


 クラス内での私の存在感は日に日に薄れていった。

 不思議なことに、その状況は私にとって想像していたほど辛いものではなかった。

 確かに孤独ではあったが、それは自分で選んだ孤独だった。

 表面的な関係を維持するストレスから解放された安堵感の方が、私の中では大きかった。


 休み時間、スミレが私の机に近づき、最近の様子を尋ねた。


「なんだか最近、話してなかったね。」


 彼女の声には、少しだけ心配の色が含まれていた。

 本当の心配なのか、それとも形だけの心配なのか、もはや区別がつかなかった。


「特に何もないよ。」


 淡々と答える私に、スミレは少し困った表情を浮かべた。


「そう…なんだか変わったね。前はもっと話してくれたのに。」


 その言葉に、私は教科書に目を落としたまま黙っていた。

 変わったのは間違いない。

 でも、その変化は私自身の選択だった。

 もう戻ることはできない。

 そして、戻りたいとも思わなかった。


 変わったのは私だけではない。

 スミレも変わっていった。

 いや、恐らく変わったのではなく、互いに本音を隠していただけなのだろう。

 彼女は義務感から私と付き合い、私は孤独への恐れから彼女との関係を続けていた。

 その真実に気づいた今、以前の関係に戻ることなど不可能だった。


 スミレは少し待った後、ため息をついて自分の席へと戻っていった。

 私たちの間に広がる溝は、もう埋めることができないほど深くなっていた。


 その日の日記には、こう記した。


『今日、スミレが話しかけてきた。前と変わったね、と言われた。でも変わったのは私ではない。ただ、現実に気づいただけだ。誰も本当の私を見ていない。この教室で、私はまるで存在しないかのよう。でも不思議と、それは辛くない。むしろ、すべてが鮮明になったような気がする。』


 シャープペンシルを紙の上で動かしながら、私は考えた。

 この孤独は自分で選んだものだ。

 そして、それは必ずしも悪いことではない。

 この静かな場所で、私は少しずつ自分自身を見つけ始めていた。


『言葉を失くしても、言葉は私の中にある。誰にも読まれない言葉こそが、本当の自分を表現する場所なのかもしれない。偽りの関係よりも、真実の孤独を選んだ今、私は初めて自分自身に正直になれたような気がする。』


 日記を閉じた。

 そして、私は思った。

 明日もまた、私は教室の窓際で一人、世界を観察するのだろう。

 それが私の選んだ生き方。そして今はそれが、私にとって唯一の居場所だった。

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