第2話


 学校の終業のチャイムが鳴り、教室は一斉に騒がしくなった。

 私は黙々と教科書をカバンに詰め始める。窓際の席は下校時にも特権がある。

 誰にも邪魔されず、自分のペースで準備できるのだ。


「一緒に帰ろう?」


 振り返ると、スミレが立っていた。

 彼女の言葉に少し驚いた。


「うん。」


 短い返事だけで、私はカバンを持って立ち上がった。

 本当は少し面倒だと感じていた。

 これから十五分、二十分と会話を維持しなければならない。


 何を話せばいいのか。沈黙が続いたらどうしよう。

 そんな不安がよぎった。 

 でも、そんな気持ちを認めるわけにはいかなかった。


 …ああ、面倒くさい。


 私の心は、そう思ってしまった。

 いやだめだ、そんなことを思っていては…。


 そう、だって、スミレは小学校からの大切な友達だ。

 一緒にいることを面倒だなんて思ってはいけないだろう。

 そう自分に言い聞かせた。

 スミレは軽やかに廊下へ出て、私はその後に続いた。


 校舎を出ると、四月の風が二人の間を吹き抜けた。

 スミレは相変わらず話し上手で、クラスの出来事や休み時間に聞いた噂話を次々と語ってくれる。

 私は主に聞き役に徹する。


 時々頷いたり、簡単な相槌を打ったりしながら、彼女の言葉を受け止める。

 なぜなら、それしかできないから。


 ただ、それだけのことでも心の中では適切な反応を探して必死だった。

 笑うべきところで笑えているだろうか。

 驚くべきところで驚けているだろうか。

 自分の反応が不自然に見えないか、そんなことばかり考えていた。


「ねえ、最近元気ないみたいだけど、大丈夫?」


 突然のスミレの質問に、私は一瞬言葉に詰まった。

 彼女は私のことを見ていてくれたのだ。

 それが少し嬉しかった。


 同時に、見透かされたような気持ちになり、動揺した。


「別に…いつも通りだよ。」

「そう?なんだか昔より無口になった気がするけど。」


 スミレの言葉は的確だった。

 確かに私は言葉を失いつつあった。

 小学生の頃は、まだこんなに沈黙が多くなかった。

 話せば話すほど自分の言葉が空虚に聞こえる。

 そんな恐怖が私を支配していた。


「そうかな。気づかなかった。」


 誤魔化すように答えると、スミレはにっこりと笑った。

 彼女の笑顔は眩しく、時に私を圧倒した。

 その明るさを前にすると、自分の内側の暗さがより際立って感じられる。


 でも、その光が消えると、私はきっと完全な闇の中に取り残される。

 そんな気がした。


「そうそう、今度の日曜日、みんなでカラオケに行くんだけど、一緒に来ない?」


 いつものパターンだ。

 スミレは新しくできた友達の輪に私を引き込もうとしてくれる。

 優しさからなのか、それとも義務感からなのか。

 いずれにせよ、私はその誘いにいつも躊躇した。


 私の心は『行きたくない』と叫んでいた。


 知らない人たちの中で、何を話せばいいのか。

 どう振る舞えばいいのか。

 そんな緊張と疲労を考えるだけで、胸が痛くなる。

 でも、私が完全に一人になるのは良くない気がした。

 いや、実際のところ、私が一人でいるのをスミレやほかの生徒に知られるのが嫌なのだ。


 だから、孤独が欲しい私はそのバランスを取るのが、いつも難しかった。


「誰が行くの?」

「去年からの友達と、あと新しいクラスの子も何人か。みんないい子だよ。」


 見知らぬ人の中に放り込まれる恐怖。

 それは私には大きすぎる試練だった。

 けれど、スミレとの繋がりを保つためには、時にはそういう場所にも足を踏み入れなければならない。

 彼女を失えば、教室での私の居場所もなくなる。

 そう思うと、すぐに断る勇気が出なかった。


「考えておくね。」


 曖昧な返事に、スミレは少し残念そうな表情を見せたが、すぐに明るく話題を変えた。

 私は罪悪感を覚えた。

 彼女の好意を適当な返事で流してしまったことに。

 でも、その場で返事をすることはできなかった。


 たぶん、断ることができないから。


 分岐点に差し掛かると、スミレは手を振って別れた。

 彼女の家は私とは反対方向にある。

 一人になった途端、私の肩から力が抜けた。

 スミレといると、無意識に背筋を伸ばし、表情を取り繕っている自分に気づいた。


 それは疲れることだったが、必要なことでもあった。


 これからの一人の時間とは、私にとって考える時間でもあった。

 学校での孤独と、家での孤独。

 でも、あれこれと人前で悩んでいるよりも、私は孤独の方がまだ心地よい気がしていた。

 人に見られていない安心感。それは束縛からの解放でもあった。


 確かに、誰かと何か会話したい、そう思うこともある。

 でも、会えば会ったで何を話せばいいのかわからなくなる。

 矛盾しているけれど、私は完全な孤独も嫌であり、かといって、人との関係も面倒だった。


 家に着くと、予想通り誰もいなかった。

 ああ、今日も両親は夜遅くまで帰ってこないだろう。


 さっさと身支度を済ませてから、私は自室に逃げ込む。

 そして、大きな勉強机に向かい、教科書を広げる。

 宿題は数学と国語。難しくはないが、面倒だった。

 特に数学は私の苦手科目で、問題を見るだけで気が重くなる。


 一方で国語の宿題は少し違った。

 言葉を紡ぐことには、不思議と抵抗がなかった。

 直接誰かと話すときのような緊張はない。

 紙の上では、自分の思考を整理し、ゆっくりと言葉を選ぶことができる。

 そこには自由があるような気がした。


 宿題を終えてベッドに横になっていると、スマートフォンの通知音が鳴った。

 画面を見ると、スミレからのメッセージだった。


『今日は一緒に帰れて嬉しかった!日曜日のこと、考えてくれた?みんな楽しみにしてるよ!』


 画面を見つめながら、私は返信に迷った。

 スマートフォンでのやり取りは私の苦手とするものだった。

 文面から相手の本当の気持ちを読み取れない面倒さ。自分の言葉が誤解されるかもしれない恐怖。

 そして何より、返信する義務感に縛られる息苦しさ。


 小さな画面の向こうに広がる他者との繋がりは、私にとって何よりも不快感を感じるものだった。

 指先だけでいつでもどこでも繋がれる、それが息苦しい。


 結局、笑顔のスタンプを一つ押して送信した。

 それ以上の言葉は浮かばなかった。


『了解!また明日ね!』


 スミレからのメッセージだ。彼女はすぐにそう返してきた。


 そこでやり取りは終わり、私はほっと胸をなでおろした。

 これが精一杯の社交だった。


 一人だけで夕食を終えた私は、入浴を済ませた後、私は机の引き出しから水色の大学ノートを取り出した。

 このノートは日記帳だった。


 すでに三冊目に入っていた。


 いつも使っているシャープペンシルを手に取った瞬間、心が静まるのを感じた。

 これから始まる時間は、私だけのものだ。

 誰も侵入してこない、完全な自由の空間。

 緊張も、期待も、取り繕う必要もない。


 ただ自分自身と向き合う時間。


 シャープペンシルを使って、日の日付を書く。

 そして、ゆっくりと一日の出来事を綴り始めた。


『今日はスミレと一緒に帰った。彼女は私の沈黙に気づいていたようだ。でも、何を話せばいいのかわからなかった。言葉が見つからない日々が続いている。』


 書きながら、私は考えた。

 なぜ毎日こうして日記を書き続けるのだろう。

 誰にも読まれることのない言葉を紙に残す意味は何なのか。


 それでも、この瞬間だけは私は自由だった。

 文字を通して、自分の心の奥深くへと潜っていける。

 日常の会話では決して触れられない本当の自分の気持ちを、ここでなら素直に表現できる。


『スミレから日曜日のカラオケに誘われた。行きたいような、行きたくないような。みんなの中で浮いてしまうのがわかっているのに、スミレとの関係を保ちたい気持ちもある。でも、本当のところ、そんな面倒な人間関係より、ただ一人で本を読んでいたい。そんな自分もいる。それを認めることができないのは、完全に孤独になるのが怖いからだろうか。』


 一語一語、丁寧に綴りながら、私は自分の中に流れる感情を確かめていた。

 口に出せない言葉でも、ペンなら紙の上に残せる。

 それは一種の魔法のようだった。

 言葉が紡がれていくにつれて、混乱していた思考が少しずつ整理されていく。

 それは不思議な心地よさだった。


『今日も、スマホでのメッセージに言葉を返せなかった。スタンプ一つで済ませてしまった。これでいいのだろうか。でも、無理に言葉を並べるよりは、沈黙の方が正直なのかもしれない。人と関わることは疲れる。なのに、完全に切り離されるのも怖い。この矛盾にいつまで苦しめられるのだろう。』


 書いていると、現実の世界では曖昧だった感情が、紙の上では鮮明になっていく。

 自分でも気づかなかった思いが、文字となって姿を現す。

 それは時に驚きであり、発見でもあった。

 文章の世界には、現実にはない自由があり、明晰さがあった。


 日記の最後に、私はいつも自問自答を書き留めていた。


『私はなぜ書くのだろう。誰にも届かない言葉を、なぜ毎日綴るのだろう。』


 その答えは、いつも同じだった。


『それは、書くという行為そのものが、私の存在を証明しているからだ。言葉を残すことで、私はここに確かに存在している。たとえ誰にも見られなくても、この言葉は私だけのものとして、ここにある。話せない私でも、書けば世界を創れる。そこには私だけの宇宙がある。きっとそうだと、私は思っている。』


 日記を閉じ、引き出しにしまう。

 窓の外は既に暗く、街灯だけが点々と明かりを灯していた。

 明日もまた、同じ日常が繰り返される。教室の窓際の席で、私は静かに一日を過ごすのだろう。


 けれど、この日記だけは私だけの真実を映し出す鏡だった。

 誰にも見せない、私だけの世界。現実では言葉を失っても、ここでは雄弁になれる。

 話せなくても、書けば自由になれる。

 それこそが、私の唯一の救いだった。

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