教育方針の困惑

@wlm6223

教育方針の困惑

 私はキリスト教徒の家に生まれた。

 物心つく前に洗礼は済ませており、食前に軽くお祈りをしてから「いただきます」を言うのが普通だと思っていた。

 小中高とミッション系の学校に通い、上智大学へ進学し、今は普通の商社マンをやっている。

 私には妻と二人の姉弟の子供がいる。

 私は彼らに宗教を強要しなかった。

 法律で信教の自由が認められているというのもあるが、自分の前半生を思い出すと、如何に宗教教育が時として害悪になるのも知っていたからだ。

 例えば人類創造について。

 キリスト教では神に似せなられて神が人間をお造りになった、と教えている。が、私は賢いエテ公が進化して人間になったという進化論を信望している。

 例えばマリア様の処女懐胎について。

 ありえん。医学的にありえない。私は子供たちが生まれた過程を知っているので、どうしても疑義を持ってしまう。

 数え上げればきりがないが、こういった自分の経験上・生活の上での聖書の教えと相容れない事象が多いため、何故キリスト教が世界三大宗教にまで上り詰めたのか、ときおり不思議に思う。だから大学生の頃から毎週日曜日の午前中に教会へ礼拝へ行くのは止めた。それは幼い反抗心も多分にあったが、どうも私の身の回りがキリスト教の教えと合致しない事柄が多くなってきたからだった。

 とはいえ、私の成長過程で身についたキリスト教的・聖書的生活規範はどうしても身に纏わり付いて離れなかった。

「あなた、どうしても実家にいた頃の習慣が抜けないみたいね」

 妻はときどきそう言った。それは私が不意にやってしまう言動を意味しているのだが、その言動の根源はキリスト教の教義に則した生活態度を表してしまうかららしい。

 私にその生活習慣が一体何を示しているのか分からなかったが、その生活態度の一挙手一投足にまで、キリスト教の教義が私に染み込んでいるのだろう。

 幼児教育というのは恐ろしい。もう私もいい歳だ。それでも幼い頃から親しんだキリスト教の影響を拭い去れないのでいたのだ。

 そういったことを私は何となし予見していたので、子供たちは宗教的教育をしない、普通の幼稚園へと通わせている。

 うん。これで子供たちは普通の日本人としてやっていける。私は内心でホッとした。

 実をいうと私の経歴からして、キリスト教の教えを知らない普通の日本の家庭というものを知らない。だから私は家族と過ごす時でも、そのキリスト教の影響をもろに受けた人間であるのを、なるべく誤魔化すように子供たちと接触していた。

 時には甘く、時には厳しく、そして曲げてはならぬことは曲げず、子供たちに接していた。

 私は私の教育方針の指針として新渡戸稲造著「武士道」を参考にした。

 古い本のため現代では通用しない部分も多いが、著者がキリスト教徒でもありそれでも日本人としてのアイデンティティーを立脚しているところが気に入ったのだ。その内容を子供たちによく噛み砕んで教育するには役立つと思ったからだ。

 ただ如何せん、内容が古い。これでは令和の人間ではなく明治の人間が育ってしまう。そういう危惧もないではなかったが、日本人の本質はそうそう変わっている筈はない、と踏んで私は「武士道」を読み解いていった。

 子供たちの成長は早い。姉弟ともに同じ幼稚園に通わせているのだが、上の子の方はもう今年で卒園だ。月日が流れるのは早いが子供たちの成長はもっと早い。私はそう実感した。

 上の子の卒園式が執り行われた。子供たちの父兄が一同に会するのはこれが初めてだ。彼らはごく普通の家庭、いや、彼らこそ本当に現代に生きる日本人の家庭を育んだ人々なのだ。

 父親達は一斉にスマホで卒園式の様子を撮影した。中には本格的なデジカメを持ち込む者もいた。まあ、愛する我が子の晴れ舞台なのだから、その胸中は察するにあまりある。

 幼い子供たちがよちよちと卒園修了書を一人ずつ貰っていく。愛らしいその行儀の良さを見て、私はこの幼稚園の教育が間違っていなかったと思った。恐らく他の父兄も同じように思っただろう。

 卒園式が一通り終わり、懇親会へと場をかえた。

 懇親会? 今更卒園する子供たちの父兄が顔を合わせて何を「懇親」するのだろうか。

 私は不思議だったが、その場の流れに沿って妻と共に懇親会へ参加した。

 開場は幼稚園の最寄駅の居酒屋だった。

 座敷席五十席を借り切っての宴会だった。

 「懇親会」が始まった。その「懇親会」の実情はただ園長と保育士たちへの接待の場だった。母親達は園長先生へと群がり、あぶれた母親達は自分達の家庭の裕福さをアピールしあいマウントの取り合いをしていた。父親達は酔眼でその様子を見守っており、中には口論する者もあった。

 あちゃー、これがモンスターペアレントか。

 彼らは「武士道」に登場するような日本人ではなかった。やはり、私の教育方針は既に古色蒼然として現代では通用しないものだったのだと痛感した。

 私は本当に隣人を愛していけるだろうか。

 この隣人の醜態を見るにつけ、その自信はなくなっていった。

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