紗幕 華が咲いていたところ

 夕焼けに染まって淡い赤色に彩られた砂浜に続いていたのは、二人の足跡だけだった。それも所々は打ち寄せる白い波に掻き消され、二人がどこから来てどこへと行くのかを包み隠してしまう。だが、今はそれで良かった。過去も未来も、波打ち際を歩く二人にとっては今は考えたくなかった。大事なのは、自然が二人を覆ってくれている今なのだから。

 男は、目の前を歩く少女から目を離さない。曲線つばの麦わら帽子を被り、白無地の涼しげなワンピースに身を包んだ少女の素足を波が濡らし、歩くたびに足に触れた海の水が微かに揺れる。一瞬水面から宙に浮かんだ水飛沫がきらりと輝き、少女の足の上を流れてまた水面に戻って行く。それだけで、男を悩ませていた厄介なものたちは消え去ってしまう。今、この瞬間が永遠に続けばどれだけ良いだろうか。叶うはずがないと分かりきったことを呟きつつ男はそんなことを願う。願うだけなら自由だろう。叶うかどうかは別だ。

 日が落ち始め、薄暗くなるにつれて砂浜とその近くの林の境界線としても機能する樹々の長い影が砂浜に広がり、それも時々二人を包んだ。赤い海の輝きから生まれる白い波が少女の足をなぞり、その度に少女はくすぐったい、と微笑む。ああ、そうだなと相槌を打っていると、突然前を歩いていた少女が男の方に振り向いた。ワンピースのスカートの部分が体の回転にやや遅れて始まり、広がりながら弧を描く。片手で麦わら帽子を、もう片方の手でワンピースの裾を抑えながら振り向いた少女は、黙ってそれを見つめたままの男に優しく語りかける。それは奇妙なことに、母が子に話しかけるようでもあった。

「これからどうしましょうか。ここにもそう長くはいられないでしょうし。またどこか、知らないところに行ってみるのも面白いと思わない?」

「そうだな、いずれここからは立ち去らなければならないだろう。少なくとも、ここは兵士がいるべきところではない」

 男の言葉に、またその話ね、と少女は目を伏せた。麦わら帽子に隠れた顔は見えない。だが、喜んでいないことは確かだった。冷たくなり始めた風がいつも以上に体を冷やす。

「兵士さんがいるべきところは戦場か、基地でしょう。それとも、私を置いて行くつもりかしら?」

「君を危険な目に遭わせるわけにはいかない。君を失えば、死ぬまで止まらない一人の兵士が残されるだけだ」

 男は、自分でも言っていて恐ろしくなることを敢えて口にする。それが、男が抱えている恐れでもあった。こうして穏やかな時を過ごしていたとしても、ふとした時に自分の手が血に塗れていることを思い出してしまう。それは、自分自身の意思とは無関係に溢れ出す忌まわしい記憶の再生でもあった。人間として暮らすことを望みながらも、兵士としての自分がそれを拒む。どこへ行ってもその繰り返しなのだ。

「あなたはもう兵士ではないけれど、そうだとしても今更穏やかに暮らして行くことは難しいのよね。それは分かるわ。兵士としてのあなたを否定するつもりはないのよ」

「君は人間としてのこの名も無き男と、兵士としてのこの名も無き男の両方を知っているだろう。兵士として生きた時間をなかったことにはできないし、それを兵士が許してくれないことも分かるはずだ」

「それも分かっているつもりよ。でも、時々不安になるのよ。ここのところは毎晩だわ。あなたは私と一緒にいるのが嫌になったんじゃないかって。離れたいんじゃないかって」

「そういうわけでは、ない。こちらとしては、君のためを思ってのことなんだ」

「良いのよ。私から離れたいなら、寧ろそう言ってほしいわ。着飾った言葉なんて聞きたくないのよ」

 そう言うと、少女は再び男に背を向けて黙ってしまう。勿論、男は少女と一緒にいることを嫌だと思ったことなどはなかった。寧ろ、少女と離れて一人で生きて行くことなどは考えられないほどだが、言葉をどれだけ尽くしても今の少女の耳には届かないことも分かっている。そうなれば、取るべき行動は決まっていた。

 男は背を向けた少女に手を伸ばして後ろから優しく抱きしめると、そのまま両腕で少女の背中と膝裏を支えながら抱き抱えた。あっという間に男の両腕によって宙に持ち上げられてしまい、慌てた少女は上擦った声を出す。

「ちょっと、いきなり何するのよ。降ろしなさいよっ!」

「君の不安を解消させるには、こうするしかないだろう。それともやめた方がいいか?」

 男にじっと見つめられた少女は、麦わら帽子で顔を隠し、男が着ていた白いTシャツを小さな手でキュッと掴むと小さく呟いた。やめなくていいけど、と。

 少女を抱き抱えたまま男は浜辺に建てられた白いログハウスに戻り、砂浜を一望できる大きな窓に面する部屋に置かれたダブルベッドにそっと少女を乗せた。自由になった両手で額の汗を拭い、カーテンを閉める。


 ベッドに座った少女は、それを黙って見ているだけだった。

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THE YASKALAW(ヤスカロウ)《一億の飛翔》編 大屋易門 @Yasukado0079

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