終幕 安き華は散らず

 子どもたちの明るい声が響く。色鮮やかな滑り台やうんていを彩るその声は、木陰に頭上を覆われた木製のベンチにまで届いていた。ベンチには顔を合わせないまま二人の男が座り、恐れを知らない子どもたちの微笑ましい姿を眺めている。昼下がりの肌にまとわりつくような陽気に晒された緩い風が木陰を潤し、男たちに眠気を与えない。もっとも、ここで眠るつもりは少しもなかったのだけれども。

「ということで、羽畑の件は武装組織のテロ未遂として片付けられるそうだ。上もそちらの関与を掴んでいるらしいが、今日ここに来たのは逮捕するためではないんだよ」

 子どもたちが遊具から離れて鬼ごっこを始める。ベンチを覆う木陰にも声が届かなくなってから、男たちのうちの一人である百比良が目線だけを動かして横に座る男へと声をかけた。それに対し、もう一人であるヤスカも目線だけで返答の姿勢を示す。木陰に入り込んだ風が頭の後ろで一本に束ねた長い髪を揺らした。頬に触れる束ねた髪を手で振り払いつつ、再び百比良を捉えていた視線を前に戻す。子どもたちが作った砂の城は傾き始めていたが、キラキラと無数の小さな輝きが瞬く砂場はまだ健在だった。そういうものだろう、と声に出さずに呟いて風景の鑑賞に区切りを付ける。現実に向き合うとしよう。

「今回敵対したのは武装組織と言っても、実際にはあくまでもあの警備隊の連中だからな。お前たちも、このヤスカの利用価値というものを知っているのだろう? これからどのような『仕事』を依頼するつもりかは知らないがね」

「そうだ。だが、これから伝えることはあくまでも俺が依頼しようというものだ。そこに上の思惑も何もありはしない。俺の、俺自身の祈りを現実にするための行動なんだ」

 ほう、とヤスカは再び視線を砂場から隣に座る男に移した。薄れつつあった興味の回復が招いた結果であった。かつての百比良の上司に対する高評価とは裏腹に、その腰巾着程度にしか思っていなかった男がこうも闘志を感じさせるようになるとは。その闘志を燃やす過程でこのヤスカを利用しようとするのはどうかとも思ったが、仕事屋としてはそれに口を出すこともないだろう。仕事屋は『仕事』を選ぶことはできるが、その『仕事』をヤスカに依頼するべきかどうかについて意見するべきではない。そう言い聞かせてきた。

 ヤスカが視線を向けると、百比良はベンチから立ち上がって木陰の外に出た。こちらに振り向くこともなく、輪郭が輝く背中を見せたまま重苦しく語り始める。

「早い話が、俺にはできないことをしてほしいんだ。タケさん、俺の上司だった武藤さんの仇討ちだよ。タケさんを撃ったであろう奴のことは分かっているんだ。お前を疑っていたこともあったが、もうそれはない。鬼兵という奴なんだ。そいつを始末してほしい」

 百比良の切実な訴えは背中からも伝わってくる。それを存分に受け取った上で、ヤスカは同情も共感も示さず、ましてや慰めの言葉もかけない。下手な慰めの言葉に意味はないことも分かっているが、仕事屋として優先するべきことは情報の収集だった。ここでヤスカが認識したのは、あの武藤を撃ったという実行犯が鬼兵と名乗る男、ということと、その男の始末が百比良が依頼したい『仕事』の内容ということくらいだった。警官が暗殺を依頼する時代か。この国ならではかもしれない。そんなこともないかもしれないが。顔に出さずに苦笑すると、ヤスカは話を聞く意思を示すために『仕事』の依頼には欠かせない言葉を返す。その非情さの裏には、仕事屋としての責任が見え隠れしていた。

「二億五千万だ。この間の『仕事』の報酬を貰い損ねたから、その分割高になるがね」

「構わないさ。手元になくとも借りられる社会に感謝するつもりだよ」

 一捜査員には到底支払えないであろう金額の提示にも怯むことなく、百比良は肯定の意を即答する。武藤という掛け替えのない上司の仇のためなら、全てを捧げても構わないという覚悟を感じさせる口調だった。実際、百比良はそのつもりだった。

「法の外の悪魔を討つためには、他の悪魔の手を借りる必要があることに気付かされたんだ。皮肉にも、お前と関わったことでな。お前に依頼しようと思う前には自分で鬼兵を始末しようとも考えたが、それはできなかったんだよ」

「そうだろうな。武藤はお前が手を血に染めることを望まないはずだ」

「ああ、違いない。タケさんや俺はどこまで行っても警官なんだ。人を殺そうだなんて考えても実際にできるわけがない。俺たちはお前のような悪魔とは生きている世界が違う」

「それで良い。自分の生きている世界から無理にはみ出そうとしない方が、賢明だよ」

 珍しくヤスカが百比良たちの立場を肯定すると、当の百比良は勢い良く振り向く。その顔は少しだけ歪んでいる。喜びと悲しみが同居した顔、と言った方が適切かもしれなかった。そんな顔を隠そうともせずに、百比良は一枚の写真をヤスカに手渡す。

「それが、鬼兵の顔写真だ。二年前に撮られたもので、タケさんが持っていたんだ」

 国衛官の制服を着た男の顔写真をヤスカはじっと見る。軽薄な笑みを浮かべた男の顔が写っている。その笑みを浮かべる口とは別に、男の目が気になった。こちらの世界を知っているようにも見える、輝くことを知らない瞳は笑っていない。

 更に言えば、この写真の男の顔は羽畑で散々痛めつけられた男のようでもあった。いや、間違いなく見た、と「兵士」が告げている。その直感に間違いはないはずだ。

 あの狙撃屋が鬼兵だったのか。そう確信すると、ヤスカはその写真を丁寧に百比良へと返却する。返された側の百比良は既に標的の顔を覚えたのかと思ったが、その勘違いは返却の後に口を開いたヤスカによって否定される。

「悪いが、この『仕事』の依頼は聞かなかったことにさせてもらうよ」

「何故だ? 二億五千万では足りないとでも言うつもりか」

「そうではない。悪魔同士が知らない所で勝手に戦い、お前が消し去りたいと思った方が敗れ去っただけのことだ」

 つまり、鬼兵という男は既にこの世にはいない。他界した男を始末することはできないだろう、とヤスカは百比良に告げる。これで百比良も膨大な借金を負わずに済むわけだ。寧ろ、得をした方だろう。百比良がヤスカに『仕事』を依頼せずに済んだことは、寧ろ武藤を喜ばせるかもしれなかった。これは百比良にとっても喜ぶべきことのはずだ。

 だが、そんな予想とは裏腹に百比良は悲しそうな表情を浮かべて沈黙を貫く。その表情を見たヤスカは、百比良の極めて「人間」的な思考を察する。恐らく、百比良は武藤と同じように鬼兵を撃ち殺して欲しかったのだろう。実際のところ、鬼兵は惨たらしい最期を迎えたわけだが、そういう末路を望んでいたわけではないらしい。その思考が分からないわけではない。分からないわけではないが、やはりそれは表の世界で生きている者の考え方だった。ヤスカは百比良の高望みをそれとなく嗜める。

「悪魔は何の代償も払うことなく始末されたのさ。それだけでも幸福だと思うべきだな」

 鬼兵の最期は、確かに百比良が望む形ではなかった。そうだとしても、当の鬼兵からすれば理不尽なものだったことには違いないだろう。こちらの世界に生きる者が辿る末路としても、悲惨な部類だ。こちらの世界に生きる者が、自分の望んだ形でその生涯を終えることがどれだけ難しいかも示している。このヤスカを含めた者たちは、他人の命を脅かす『仕事』を行ったりするのと同時に、他の誰かからもその命を狙われているのだから。それぞれが他人を自分の望んだ末路に追い込もうとする、そんな競争の参加者たちなのだ。

 百比良は、その競争にヤスカという代理人を参加させる前に、標的がその代理人として雇うはずだったヤスカによって倒されたという部外者に過ぎない。部外者には不相応な望みは捨て去るべきなのだ。そのヤスカの意思は、目の前の部外者に痛いほど伝わった。

「そうだな。今日のことは忘れてくれ。俺も忘れよう。今はただ、タケさんの冥福を祈る方が俺らしいよ。その方がタケさんのためになるってことだろう?」

「そこまでは薦めていないが、そうすると良い。悪魔と長時間話すのはお勧めしないよ」

 子どもたちの声が甦りつつある木陰のベンチから百比良は立ち去ってい行く。公園を出るまで、一度もヤスカの方に振り向くことはなかった。そのまま進め、風が強くとも。

 百比良が立ち去っても尚、ヤスカはベンチに座り続けていた。益々強まった日差しが木陰の周りの地面に照り付け、木陰との明暗の格差をより激しくさせて行く。鬼ごっこを楽しんでいた遠くの子どもたちも、噴水から噴き出る水の柱を浴びて涼しくしようと努めている。少し目を細めながら、子どもたちを濡らす水飛沫が輝くのを眺めていると、ヤスカは水筒の水が無性に飲みたくなる。一気に飲み干して喉を潤したくなる。そう思ったときには、足元に置いた紙袋から色褪せた水筒を取り出して蓋を開けていた。

 そのまま躊躇うことなく水筒を傾け、体に冷んやりとした液体を流し込む。喉が音を立てて上下し、爽やかさを自分自身で増幅させた。口から喉へ、喉から食道へ、そして胃へと、液体が通り抜けて行く感覚を清涼感と共に味わった。冷たさが体に染みて行く。

「涼しそうですね。こんなに日差しが強いなんて思いませんでした。まだ五月なのに」

 そうしていると、例のはきはきとした口調と共に見知った顔が木陰に現れる。声の主の頭の後ろで、艶のあるポニーテールが揺れた。ありふれたデザインのセーラー服とは異なり、黒いワンピースを着ている。今は亡き会長の実の娘、去島香縁がそこにいた。更にその後ろでは、白いTシャツに黒いハーフパンツという何とも楽そうな格好をした小さな男の子がワンピースの裾を摘んでいた。男の子の目線がヤスカを真っ直ぐ射抜いている。

「その子は、君の弟か」

「そういうことにしておきましょうか。この子はヒラスケです。どうしても公園で遊びたいというので連れて来たんです。すみません、迷惑でしたよね」

「遊ばせていれば構わないさ。その子に聞かせるべきではない話をするのだからな」

「ありがとうございます。ほら、ヒラスケ。あっちで良い子にしてなさい?」

 うん、と静かに頷いてヒラスケと呼ばれた小さな男の子はテクテクと砂場へと歩き出した。どうやら、素直な子のようだ。そして、純真無垢な心を持つ子どもが去れば木陰には血に塗れた仕事屋と、かつて父殺しを願った少女の二人だけが残されるのだった。

 去島がワンピースのスカート部分が皺にならないように気をつけながら座り、ベンチがギシ、と音を立てる。その音でホテルの部屋のベッドが軋む時に立てた音と、その時にベッドに去島が乗っていたことを思い出してしまったヤスカは、自分の額に手を当てた。そんなことを思い出している場合ではないのだ。去島は弟が離れてから滑らかに口を開く。

「本家の方は随分大変だったみたいです。特に、後継者を誰にするかで。誰かあの人を殺したとか、復讐するべきかどうかなんて考えるよりも先に、目先の金に目が眩んだんでしょう。まぁ、私たちには特に関係ないことですけど。一銭も入りませんしね」

「『仕事』の依頼を受けていない以上、そちらに報酬を要求するつもりはないよ。それでもこのヤスカとの面会を望んだということは、他にも何か『仕事』の依頼があるのか?」

 ヤスカとしては至極真っ当な質問を投げ掛けたつもりだったが、返答は直ぐには返ってこなかった。どういうつもりなのか、と訝しんで視線を横に移してみると、隣に座った少女は少し不満そうな顔付きでこちらを見つめている。機嫌でも損ねたのだろうか。

「『仕事』の依頼以外で人に会おうとは思わないんですか、あなたは」

「それは時と場合によるものさ。少なくとも、君とは『仕事』の話でもなければ会うことがないとは思うがね。その方がお互いのためだろう?」

「あなたという人は、随分と『仕事』熱心なんですね」

「そう言ってもらえるとは、光栄だよ」

 はぁ、とヤスカの察しの悪さに少女は嘆息する。別に褒めたわけではないのに、と愚痴を言いたくなるのを我慢して大人しく用件を話すことにした。嘘を言えば、ヤスカはここから立ち去ろうとするだろうと痛感したからでもあった。その一方で、ヤスカは少女の質問の意図が飲み込めずに、褒めたところで特に何もないのにと内心で首を傾げていた。『仕事』の依頼以外でも人に会わないわけではないのに、何故そんなことを聞いたのだろうか。『仕事』の依頼以外で人に会うのかどうかが、この少女に何の関係があるというのだろう。確かに、『仕事』の依頼以外で会おうと思うのはあの人くらいしかいないが、それが少女の質問の答えになるかと考えれば、そうでもない気がする。

 だが、その疑問に対する納得のいく答えが見つかる前に少女が再び語りかけた。

「勘違いされると困るのではっきり言わせてもらいます。私、いえ、私たちは今回あなたのお陰で救われたんです。それに対して何のお礼もせずに済ませるなんて、とても考えられません。だから、何らかの形であなたが提示した報酬の金額を、少しずつでもお支払いするつもりなんです。そうさせてください。そうでないと、気持ちの整理もできません」

 目線のみならず体全体をヤスカへと向けて、意志の入った眼差しで少女は自分の思考を明かす。それを見たヤスカは相手が本気であることを悟ったが、それを受け取るわけにはいかなかった。依頼を受けてもいない『仕事』の報酬を受け取る仕事屋が、どこにいる。

「先程も言ったはずだがな。依頼を受けていない以上は報酬を支払う必要はない、と。君には弟もいるんだ。君のこれからの人生は、決して君だけのものではないのだから」

 それは即ち君自身が人生の舵を取るということでもある、とヤスカは付け加える。我ながらどの口が言っているんだか、と思う。だが、岡浜の姓を名乗っていない姉弟のことを考えれば、わざわざ必要のない負債を背負わせたくはなかった。仕事屋としてではなく、ここでは「人間」としての忠告を行う。それには「兵士」も賛同していた。そうだろう?

 声に出さず、「人間」はまだ起きていた「兵士」にそう問いかける。「兵士」も答えた。

『そうだ、「人間」よ。それで良い。それでこそ「人間」なのだから。』

「大河という男が保管している海外に輸送した一億円の使い道だが、色々考えてみた結果、あれは君たちに譲ろうと思う。元々は祈念堂の収益だからな。長年祈念堂で働いていた君への給与と考えれば、少ないくらいかもしれないがね?」

 人の心の弱みに漬け込む連中の腹を肥やすよりは健全な使い道だろう、と呟きつつヤスカはベンチから立ち上がる。少女はその言葉が意味することを飲み込めずに呆然としていたが、やがて慌てて立ち上がり、深々とお辞儀して歩き出したヤスカを見送る。

「ありがとう、ヤスカさん。本当にありがとう」

「礼を言われる筋合いはないよ。誰が君の実の父を殺したと思っているんだ。もう会うこともないであろう仕事屋風情に、そんなに頭を下げる必要もないさ」

 絶え間なく降り注ぐ日差しの下、木陰から離れたヤスカは公園に幾つかある出入口のうち、小さな水路の上に架けられた道路と地続きの橋に繋がる出入口へと歩いて行く。そこで、去島は見た。ヤスカが向かう橋の向こう側に、黒色の高級車が一台停まっている。ヤスカが近付いて行くと初老の運転手が出てきて後部座席のドアを開けた。後部座席には既にヤスカを迎えに来たと思わしき、中学生くらいの銀髪の少女が座っている。

「ああ、遠いわ」

 去島は痛感させられた。橋の向こう側には、自分には立ち入ることができない世界が存在している。橋を渡ったからといって、その世界に入ることができるわけでもない。その事実が、そこまで遠くもないはずの橋までの距離を途方もなく遠くに感じさせた。一つ言えることは、自分はあの銀髪の少女にはなれないということだった。自分に向ける眼差しと、あの銀髪の少女に向ける眼差しがあれだけ違うのだから。その実感が胸に訴える痛みに耐えながら、遊ばせていたヒラスケを呼びに行くために去島もベンチから立ち上がる。


 公園から離れて行く車の中で、かつてイノセンスと呼ばれた少女と、今はヤスカと呼ばれている男は肩を寄せ合い、お互いに寄り添っていた。柔らかくも強く、そして固く。

「これからどうするつもり? またこの国から、私から離れて行くのかしら?」

「どうしようか。逆に、君はどうしてほしい」

 ヤスカの予想外の質問に、少女は優しく微笑む。それは何よりも美しかった。

「言うようになったわね。私としてはその成長を評価するわ」

「君の行きたいところに行こうか。そうしよう。君とならどこでもいいよ」

『そうだな。我々はそうあるべきだ。帰るべき場所に帰るのが一番なのだから』

 二人を乗せた車がビル群の間を走り去って行く。さらば、ヤスカ。また会う日まで。

 その命安かろうとも、我らが求めに応じて馳せ参じたまえ。

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