幕間(四)

 昼過ぎに陽の光に促されて男は目覚める。部屋の熱気によって目覚めさせられたと言ってもいいだろう。それくらいには、陽の光の持つ力は男の寝室に影響を及ぼしていた。

 まだ定まらない視界で、ベッドの上から部屋を眺める。簡素な照明がポツンと取り付けられた黒い天井に、大きな窓が取り付けられた白い壁と、その隣の壁に取り付けられた茶色のドア。そして、ベッドの横に置かれた灰色のサイドテーブル。それらが、部屋を構成する目立ったものたちだった。男は部屋に変化がないことを確認してから起き上がり、静かに床に足をつける。木目調の床は、足裏に心地よいざらつきを与えた。

 立ち上がった男は再び、ベッドの横に置かれた灰色のサイドテーブルを視界に入れる。テーブルの上には、質素な写真立てが伏せられていた。真っ白な写真立ての裏側が天井と対峙している。長方形の縁は白いが、写真を収めるために取り外しができる裏板は燻んだ色味を放っていた。それを見た男は、緩慢な動きで首を傾げる。

 昨晩は立てられていたはずの写真立てが、何故今は伏せられているのだろう。

 こんなことを何度繰り返しただろうか。生まれた疑問は意識が鮮明になるにつれて苦笑に変わって行った。また、寝ているうちに自分で伏せてしまったのだろう、と納得がいったからでもある。そうと分かれば、伏せられた写真立てを起こさない理由はなかった。

 男はひどく丁寧に写真立ての脚を開き、テーブルの上に立てる。当然、収められている写真もガラス越しに陽の光の下に晒された。その写真を見た男は、何度見ても色褪せないその懐かしさに思わず目を細め、両手で写真立てを掴むと、別に見えないわけでもないのに顔に近付ける。これが数少ない男の日課でもあった。日課という自覚はないけれども。

 そこに収められていた写真には、まだ幼稚園児くらい見える小さな男の子と、胸の辺りまで伸びた黒髪に麦わら帽子を合わせた、三〇代くらいの女性が映っている。二人は雲ひとつない空の下、どこかの公園のベンチの前で並んで立っている。男の子は隣に立っている女性の長いスカートの裾を掴み、母親を見るような目で女性を見上げていた。

 男はこの写真が撮られた日のことを覚えている。あの日は、確か六月には似合わない青空だから珍しく、外に出たいと言い出したのだった。あの人は決して外に出たがるような人ではなかったが、まだ小さかった少年が自分から何かをしたいと言い出したことに優しく微笑み、日焼けに気をつけなさいと言って水筒を用意してくれたのだった。

 水と氷を入れただけなのに、あの人がくれたものだからあの水筒の水はとても美味しかった。炎天下の公園であの人に見守られながら一人で遊び、喉が渇くと水筒の水で喉を潤したあの日の少年は、その日があの人と過ごす最後の日になることなど知らずに笑っていた。あの人と会えなくなったが、今はこうして写真を見ると男はすぐにあの日に帰ることができる。あの日、あの人が写真を撮ったのはこのためだったのかもしれなかった。

 写真立ての中に意識を向けていた男は、写真立ての中の公園の近くのアパートで再び現実に戻ってくる。部屋の中には男が一人だけで、あの人はいない。その現実と向き合ったら男は再び写真立てをテーブルの上に伏せた。きっと、また明日の朝になれば何故写真立てが伏せられているのだろう、と明日の男が疑問に思うはずだ。

 この日を始めるにあたって、男が自分の心に与えるべき支えは整った。男はベッドとサイドテーブル、それと写真立てが置かれた部屋から出るために茶色のドアに立つ。あの日の少年と同じようにドアを開けようとすると、ドアは別の誰かによって開かれた。

 ドアの外には、写真のあの人によく似た、銀髪を背中まで伸ばした少女が立っている。

 この人は、この日もドアの外へと連れ出すために、静かに跪いた男に優しく囁いた。


「さあ、また公園に行きましょうか?」

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