第四幕 空の港にて

 電気屋の地下室では甲高くも乾いた銃声が連続で響いた。右手で構えた回転式拳銃、M686のシリンダーを固定するレバーを押し開け、銃身の左側に降り出したシリンダーから床に落ちて行く空の薬莢を見つめる。外の世界と隔絶した地下室の静寂の中に、小さな金属の筒が次々に跳ねる音が響く。チリンチリンという響きは段々と音の重なりが強くなり、やがて音は空気の波の中に溶けて消え去った。静寂が音の相殺の果てに帰ってくる。

 その一部始終を観察したヤスカは、改めて地下室という環境の特異さというものに感心する。人間が手を加えて地上の延長線上に創り出した、人工の空間の恐ろしいほどまでの快適さというものに、だ。誰も信用できなくなった独裁者が地下の司令室に籠るようになった理由も分からないわけではないが、それに身を委ねた先に待ち受けているのは破滅だけだろう。だからこそ、地下室を居住地にしようとは思わない。こういう場合には地下室を利用するのが一番だ、というだけの話なのだから。

 そんなことを思いつつ、ヤスカはシリンダーが空になったM686を薬莢が落ちた床の近くに置かれた安っぽいパイプ机の上に載せる。机にはその前から、もう一つのM686とアサルトライフル、SIG SG556が並べられていた。まだシリンダーに銃弾が装填されているもう一つのM686を掴み、撃鉄を起こしながら的の方に振り向く。

 パァン、という乾いた音が七回響いた。的に黒い線で描かれた人の上半身の頭に一発、胸に二発、左右の肩に二発ずつ弾を撃ち込む。頭や胸を撃たれれば致命傷、肩を撃たれれば銃火器の類を持ち運ぶのは困難になる。慣れた動作と着弾点に関する無意識のうちの思考を自分自身で咀嚼していると、好ましくない高揚感がヤスカの口角を上げよう、と反旗を翻しているような感覚が迫ってくる。これではまるで「兵士」ではないか、と苦笑してしまう。苦笑できている今の段階では、まだ「人間」だから少し安心もあった。その安心の中には、的を外さなかったことに対するものも含まれているだろう。外すのは不味い。

「お見事です。SIGの方はお試しになられましたか」

「いや、これからだ。少々うるさくなるぞ」

「お気になさらず。ここはそのための部屋ですから」

 射撃場に姿を見せた調達屋、菜梨はヤスカの忠告に一礼し、身に付けたエプロンのポケットからヒョイとヘッドフォンを取り出して装着する。それは肯定の合図でもあった。

 テーブルに載せられたSIG SG556に手を伸ばしたヤスカは、右手でグリップを掴み、左手でフォアグリップを掴み、ストックを肩に当てて安定した姿勢で容赦なく引金を引く。次の瞬間、回転式拳銃の時とは比べ物にならないほどの速さで銃弾が連続して発射される破壊の音と閃光が銃口から噴き出した。薬莢が床に跳ねる音も掻き消される。

 ズガガガガ、と空気を切り裂く暴力的な響きが部屋の空気を揺らし的に亀裂を生じさせた。木の板で作られた的もあっという間に無惨な見た目に変貌してしまった。着弾点が一定の領域の中に収まっているのを確認したヤスカは、薄らと煙が漂う室内で表情一つ変えることなくライフルからマガジンを抜き取り、静かに机に置く。マガジンは空になっていた。先ほどまでその中を埋め尽くしていた弾は既に的にめり込み、弾を包んでいた薬莢も床に転がってもう音を立てていない。硝煙の霧と銃弾の雨によってもたらされた嵐が過ぎ去った地下室には、再び静寂が訪れていた。この静寂も、これから訪れる更なる嵐の前の静けさでしかないのだけれども。そして、更なる嵐を巻き起こす張本人はヤスカなのだ。

「どうやら、今回も血が流れずに済みそうにもないようですね」

 その静寂の中で、菜梨は地下室の雰囲気に合わせて控えめに口を開く。無惨にひび割れた的を見つめていたヤスカはその声に対してジロリ、と目だけを横に向けて反応を示してみせた。肯定も否定も示すつもりはないからこその反応であったが、それを見た店主は自分の発言が迂闊だったかもしれない、という反省をしたらしく頭を下げて言葉を続ける。

「そちらの『仕事』に関しては詮索しない約束でしたね、余計なことを口走りました」

「謝ることはないよ。『仕事』の都合上、血が流れることはよくあることだからな。こちらが望む望まないに関係なく、ね」

「確かに、我々の世界ではそうですね。流れる血が自分のものか、他人のものになるかは誰と戦うことになるかによるでしょうが」

 違いない、と呟いたヤスカはSIG SG556も回転式拳銃と同じように机の上に戻した。暴力装置を自分の体から離すと嘆息する。体に流れていた荒ぶる血を鎮めるための嘆息でもあった。こうしなければ、銃火器を手放して動くことができなくなってしまう。そうなれば、仕事屋を廃業して始末屋として何処かで野垂れ死ぬ結末を選ぶしかなくなる。それでは、あの人を守ることも、共に生きることもできない。今までの全てが水の泡だ。ヤスカを生かすたった一つの柱を失うわけにはいかない。それだけが、自分自身を突き動かす動力の源だった。また、そのことを知っているのはこの世に二人だけである。

「もし大勢を相手にするのであれば、SG556のサポートとしては自動式拳銃をお薦めいたしますが、回転式拳銃とは別にご用意いたしましょうか?」

 脳裏に一輪の華を思い浮かべていると、菜梨の親切心から来る提案が飛んで来る。

 その提案は、非常に合理的かつ魅力的だった。回転式拳銃と自動式拳銃はどちらにも利点があり、欠点もある。装弾数という点においては、自動式拳銃に軍配が上がるだろう。だが、確実性という点においては回転式拳銃が優れていると言える。ジャミングは回転式拳銃に存在しない。ヤスカが回転式拳銃を選んでいるのも確実性を認めているからでもあるが、それとは別の理由もあった。その理由を示すため、ヤスカはジャケットの懐から取り出したハンカチで床に落ちていたマグナム弾の薬莢を拾って見せる。

「その申し出はありがたいが、自動式拳銃は射撃の度に薬莢が排出されるだろう? 確かに銃撃戦では自動式拳銃の方が有利かもしれないが、密かに拳銃を撃つ際に一々床に落ちた薬莢を探している余裕を持てるほど、このヤスカは自信過剰ではないのでね」

「なるほど。回転式拳銃で自動式拳銃を相手にする自信はあるのですね」

 それを言ってくれるなよ、とヤスカは微かに笑った。店主も微笑み、天井を仰ぎ見て壁に取り付けられたパネルを操作する。照明から放たれる輝きが緩やかに弱まり、射撃場は暗闇の空間へと姿を変えて行く。それを見たヤスカは、射撃場に唯一残った光へと歩き出した。その光は射撃場の出入口の向こう側から差し込んで来るものだ。

 出入口の向こうは無数の作業台と工作機械で埋め尽くされた射撃場とは別の地下室の壁に設置されたロッカーのうちの一つだった。キイ、と歪んだ音を立ててロッカーの扉を開くと、先日注文の品を確認した場所に戻ってくる。後ろからは鍵束を持った菜梨が付いて来ていた。菜梨もロッカーから出てくると、鍵束から迷わずに一つの鍵を選んでロッカーを施錠する。その素早い動作に安心したヤスカは、『仕事』上必要となる道具の扱いに関する指示を出す。それは、これからヤスカが取る動きには欠かせないものだった。

「M686とSG556を送る場所は後で連絡する。グレネードも忘れずにな」

「かしこまりました。銃器の輸送は当店にお任せください」

「頼んだぞ」

 承りました、と店主が深々と頭を下げる。打ち合わせを終えた二人は電灯も何もない階段を登って行った。相変わらず店主は階段を登るのが早い。降りるのも早かったが、よくもまぁあれほどスイスイと暗闇の中を登り降りできるものだ、とヤスカはその後ろ姿を追いながら声に出さずに呟いた。何度も何度もこの暗い階段を行き来したからこそ、あのように躊躇いもなくサッサと移動できるのだろうが、ヤスカにその自信はない。暗闇に弱いというわけではないが、こういう時に足を滑らせて怪我するわけにはいかなかった。 階段を登り切ると、再び出入口は奇妙なものに繋がっていた。地上一階の店内に置かれた冷蔵庫の扉が、階段の出入口の一つになっているのだ。階段の登り降りと同じように、この電気屋の間取りは慣れるようなものでもなかった。思わず笑ってしまいそうになる。

 冷蔵庫の中から出て来た二人を、野球中継が流れているテレビの歓声とジャージ姿の店番の若い女性が座るカウンターを始めとした現代的な内装が出迎える。店内に上がってきた二人を見ると店番の女性は立ち上がり、店長の方に一枚の紙を手渡した。更に店長がその紙をヤスカに手渡したことで、紙に記された内容が目に入ってくる。

 てっきり指名手配の貼紙かと身構えたが、それは杞憂だった。手渡された紙は、おそらく近所のラーメン屋のメニュー表だったからだ。大樹軒という店らしい。そして、メニュー表が渡されたからにはこの日の夜は出前のようだ。

「店長はいつものでいいですよね。お客さんはどうしますか」

「何か、おすすめはあるかな。君の選んだものにするよ」

 メニュー表を眺めていると、店番の女性が固定電話の黒い受話器を片手に声をかけてくる。どれにしようかと決めかねていたヤスカは、今にも注文の電話をかけ始めそうな様子を見て咄嗟に歯が浮くような台詞を口走ってしまった。自分で言ったことを振り返ってみると馬鹿らしくて仕方がなかった。似合わないことを言うものではない、と自分に対して言い聞かせる。人間であり続けることの弊害のようなものも感じていた。

「えーと。塩豚骨ラーメン大盛り三人前で、お願いします」

『毎度ありー、味覚を大気圏まで吹っ飛ばしてご覧に入れましょう』

 ヤスカが内心で拭い難い疲労感に襲われている側では、何食わぬ顔で店番の女性が電話越しに注文を済ませている。その姿をぼんやりと眺めていると、カウンターの奥に歩いて行くエプロンを付けた店主がヤスカに手招きした。招きに応じて付いて行くと、カウンターの奥は薄暗い廊下に繋がっていた。廊下を歩く度に床に貼られた細い板材が足と触れてパリパリと緻密な音を一瞬弾けさせる。聴いてても心地よかった。

 やがて店主は静かに廊下に面する複数の扉のうちの一つを開けてその中に入って行く。ヤスカもその扉の前に立ってみると、何とそれは襖だった。黒い縁に囲まれた純白の襖に取り付けられた小さくて丸い黒色の引手に手を伸ばし、ゆっくりと襖を開け放つ。襖の向こう側は小さな和室になっていた。いくつかの渋い色の座布団が部屋の隅に積み重なり、それとは別の二枚ほどの座布団が畳の上に敷いてある。店主はそのうちの一つに腰を下ろし、和室の中で一番目立つ立派な仏壇と正面から向き合っていた。仏壇の近くには誰かは分からないが、明るい笑顔を浮かべた女性の写真が飾られている。店番の女性にどこか似ているようで、どこか違う。血縁者のようであった。

「あなたにとってはこのような場所、面白くも何ともないでしょうが。特別にお見せしようと思いましてね」

「まあ、どのみち布団の上で死ねるような生き方はしていないのでね、墓も同じだろう」

 確かに我々はそうですな、と店主は写真を見ながら苦笑してみせる。ヤスカも菜梨も、互いに皮肉を込めた会話ではないことは分かっていた。こちらの世界で生きることを選んだ以上、平穏な生活とは無縁になるのは当然なのだから。

 だが、それはあくまでもこちらの世界で生きる者たちに当てはまる話だ。店主にとっての店番の少女やヤスカにとってのあの少女のように、こちらの世界で生きる者と関わりを持つ者たちに必ずしもそれが当てはまると言うわけではない。こちらの世界で生きる者と関わりがあったとしても、こちらの世界で生きる者とは異なり向こうの世界で安全に暮らしている者たちである場合もあるのだ。この場合、向こうの世界で生きながらこちらの世界に僅かに触れていると言った方が良いかもしれない。どちらにせよ、一つ言えることは彼らをこちらの世界の暴力に巻き込んではいけないということだ。だからこそ、ヤスカはあの少女を危険から遠ざけようとする。ヤスカの存在が危険を招くならば、離れようとする。こちらの世界で生きる者が向こうの世界で生きる者と関わりを持つならば、相応の覚悟と責任を負わなければならないのだ。

 それは、今目の前に座っている菜梨と名乗る男にとっても同じことのはずだ。あの仏壇と写真から察するに、この男にとってあの写真の女性は店番の女性とは別か、或いは出会う前に関わりがあった人だったのだろう。その人がこの世を去ってからもこうしてその記憶を残し続けているのは、こちらの世界で生きる上では不都合でしかない。だが、ヤスカには分かる。こちらの世界で生きる者たちの中でも、そう簡単に割り切れるものは多くないことを。人の心を捨て去った怪物だらけに見えるこちらの世界で生きる者たちにも、赤い血が流れているのだから。皮肉にもそれは命のやり取りの中で証明されるため、それを知った時には既に遅いのだけれども。

 菜梨には菜梨の事情があることを察したヤスカはそれからは何も言わず、その後ろに座布団を引っ張ってきて腰を下ろし、そのうちやって来るであろう夕飯を待ち続ける。やがて、色褪せた静かな通りを切り裂くような原付の走る音が響き渡り、電気屋の前で停まるのが分かった。パタパタとスリッパを鳴らして店番の女性が出入口まで歩いて行く音に続き、ガラガラと戸が開かれる軽い音も和室に届く。それを聴いた二人は立ち上がる。

「ご苦労様。はい、どうもありがとう」

「ご利用ありがとうございますっ。丼は後で回収しに来ますんで、その時はまたよろしくお願いしますっ。それでは、失礼しますっ」

 カウンターの所まで戻って来ると、丁度支払いが終わってラップで蓋をされた三つの丼が銀色の岡持ちから姿を現していた。カウンターに丼を載せ終えた大樹軒の若者は何度も繰り返し頭を下げながら出入口の戸を閉め、また原付をバリバリと鳴らして帰って行く。

 それからは丼を三人で一つずつ持って和室とはまた別のキッチンがある部屋に向かい、湯気との格闘が始まった。熱いうちに食べた方が良い、と言って勢い良く麺を啜る菜梨と火傷を心配してゆっくり食べるヤスカの横では、一瞬で食べ終えた店番の少女が本物の冷蔵庫から出した缶チューハイを片手に不毛な争いを眺める。

「そんなにチマチマ食べていては、麺が伸びてしまいますよ。ああ、勿体無い」

「舌を火傷した男に言われたくはないな。それでは味も分からないと思うがね」

「お客さん、もうラーメン冷め始めてますよ」

 はぁ、と店番の女性は呆れて小さく嘆息する。その嘆息は熱気に包まれた部屋の中に溶けて消えて行った。店番の女性にとっては、手のかかる猛獣が一人増えたような気分だったが、それを口に出すことはない。その方が良いのだから。

 夕飯を終えたヤスカと菜梨は店内のカウンターに戻り、椅子に座ってキッチンの方から聴こえる洗い物の音と共にテレビの音声に耳を傾ける。野球中継はまだ続いていたが、途中で五分間のニュースが流れる時間になった。小綺麗な男性アナウンサーが一礼し、ハキハキとした口調でこの時間に入ってきたニュースを読み上げ始める。

『今日の正午過ぎ、墨田川の川底から車と思わしき鉄の塊が引き揚げられました。塊には無数の弾痕が見られるということです。また、先日都内で発生した連続射殺事件との関連を含めて、捜査関係者が詳しい経緯を調べています』

 画面には黒焦げになった辛うじて車体と分かる鉄の塊が、水を滴らせながらクレーンで宙吊りにされている様子が写っている。それを見たヤスカは、一眼で先日のバンが蜂の巣にされているのに気が付いた。画面に釘付けになったヤスカに菜梨も気付き、画面に映ったものをじっと見つめる。菜梨も菜梨で気付いたことがあり、目を合わせずに口を開く。

「あの車、相当撃ち込まれましたね。拳銃の弾とライフルの弾との二種類の弾痕が四方八方に見えますよ。これもSUPガードの仕業ですかね」

「恐らくそうだろう。しかも、あの車は数日前までこのヤスカを乗せていたものに違いない。あの中に誰かが乗ったまま蜂の巣にされたかもしれないが、川に捨てられれば魚にでも喰われて殆ど残ってないだろうさ」

「車の方は、サーモンスタッフさんの方から借りたと言われてましたね。この様子だと、大河さんも危ないかもしれませんよ」

「『仕事』の実行を担当しているサーモンスタッフまで餌食になるかな。あの会長が耄碌していなければ、振り上げた拳を降ろす先くらいは判別できると思うが」

 記憶力がどれだけ健在なのかは知らんがね、と呟くヤスカの隣でフッと菜梨が小さく笑う。だが、アナウンサーが読み上げた次のニュースはその雰囲気を一瞬で凍らせる。

『続いてのニュースです。今日の午後四時頃、歌舞伎の雑居ビル街で火災が発生し、約二時間後に消し止められました。火災によりビル三棟が全焼し、怪我人は少なくとも一〇名が病院に搬送されましたが、命に別条はないということです』

 画面には、ビルの焼け跡の中に燃え残ったドアとそこに貼られた紙が映し出された。黒く縁取られた水色の円の中央に、ゆらゆら揺れている緑色の草とピンク色の鮭が泳いでいるやけに記憶に残るロゴが紙に印刷されている。少し紙の端が焦げているが、それには確かに見覚えがあった。あれは、サーモンスタッフの事務所の入口のドアに違いない。何ということだ。サーモンスタッフの事務所が焼かれたとは。これもSUPガードの仕業だとすれば、連中は『仕事』の妨害を企んだということになるではないか。そして、それはこのヤスカへの敵対に等しい。あの会長は『仕事』の妨害を黙認したのか。『仕事』が終わるまで身を潜めるつもりでいたが、そうもいかないかもしれない。

「店主。既に送った荷物の中身の整備は万全だろうな?」

「勿論です。どうやら、『仕事』に関してトラブルがあったようですね?」

「まぁ、そんなところだ。そちらにとっては、手配した銃が使われないよりは好ましい状況になったかもしれないがね」

「隠せませんでしたか。しかし、使われずに終わるよりは銃たちも喜ぶでしょう」

 微笑みながらよく言うよ、とヤスカは『仕事』をする時の冷たい顔をしたまま呟く。大河が野口を通して伝えてきた伝言を頭の中でもう一度確認しながら、再びニュースから切り替わった野球中継を眺める。既に試合は終わり、勝敗を決した代打サヨナラホームランのリプレイ映像が流れていた。遠くの球場を揺らす、乗り遅れた歓喜がそこにはあった。


 朝が来た。世間はいよいよ、ゴールデンウィークの最終日の一日前に泣いている。朝早く起きたヤスカは電気屋の一階の空き部屋の畳の上に敷いた布団の上で目覚め、比較的軽い足取りで洗面所へと向かった。Tシャツとジャージ、という楽な服装だからでもあるだろうが、それよりもこの数日間でよく休めたというのも大きかった。こちらの世界に身を投じてからこれほどまでに穏やかな日々を過ごしたことがあっただろうか、と思えるほどには心身共に落ち着いた日々を過ごすことができた。ゴールデンウィークが後一日で終わる、と嘆く世間にこの喜びは分かるまい。分かってほしくもないが、それだけヤスカにとってこの電気屋は隠れ家としては一、二を争うほどに快適だった。午前六時で静かだし。

 鼻歌を歌いたくなるような心地よさと共に廊下を歩いた先にある洗面所に辿り着くと、蛇口を捻って眠気を覚ますのには丁度良い冷たさの水を顔に浴びせる。タオルで拭いた後に鏡で顔を見てみると、いつもよりは多少顔色が良い仏頂面と見つめ合う羽目になった。

『今日が何の日か分かっているだろうな、「人間」よ。これからのお前の行動次第では、「彼女」の平穏な生活は過去のものとなるのだぞ』

 すると、鏡に映る自分の姿を借りた「兵士」が、「人間」の無警戒とも思える態度に警告を発する。この国に降り立つ前の「人間」なら、「兵士」の存在を認めずにすぐさま何か言い返していただろう。だが、「あの人」と再会して支えを得た「人間」はその警告を素直に聞き入れる余裕ができていた。鏡に映った「兵士」から目を逸らすことなく、「人間」は真正面から向き合う道を選ぶ。それは実に「人間」らしい選択だった。

「分かっているとも。守るべきものを守るためにするべきことをするだけだ」

『ややこしいな、もっと素直になれば良いものを。おや、誰か来たようだな』

「あ、おはようございます。今日は早いですね」

 店番の少女が洗面所に現れたことで、鏡に映るもう一人の自分から「兵士」は消え去った。もう、鏡の中の自分が「人間」の意思とは関係なく動くことはない。そう見えていただけかもしれないが、ヤスカは「兵士」が鏡の中の自分に入り込んでいたと信じていた。

 まだ眠そうな店番の少女は肩甲骨の辺りまで伸ばした黒髪を櫛で梳かしつつ、空いている方の手でまとめてヘアゴムで一本に結んでいく。いつものジャージを着ているため、髪を整えれば見覚えのある姿に変身した。ヤスカはその横で鏡に映った自分を今一度見直してみる。肩まで伸びた髪は寝癖にもならずに整っているが、今日の予定のことを考えると結んだ方が良い気がしてきた。それに便乗し、「兵士」が再び口を挟んでくる。

『思い出せ。かつての「兵士」は髪を結んで戦っていたぞ』

 静かにしてくれないか。頭の中で口を挟んできた「兵士」の言葉に取り合わず、それでもその言葉の通りに寝室に戻って荷物を漁り、櫛と整髪料、それにヘアゴムを手に取ると鏡の前に戻る。店番の少女はまだそこで目を細めながら歯磨きをしていた。その横に立ったヤスカは洗面台に整髪料が入った容器を置くと、まずは頭の左右の側面を覆う髪を櫛で耳の後ろに流し始める。次に、前髪も左右に分けて後頭部へと回して側面の髪と合わせて梳かし始めた。一連の動きを目撃した店番の少女はその慣れた手つきに目を丸くするが、それに構うことなくヤスカはヘアゴムを手に取る。左手で纏めた髪の毛を右手に通したヘアゴムで一本に縛り、所々で跳ねた髪は整髪料で鎮めてようやく髪の毛を結び終える。

 こうして肩まで伸びた髪は頭の後ろで一本に纏められたが、結び終えた途端、ヤスカはヘアゴムを解いてしまう。これには、店番の少女も口を出さずにはいられない。

「いやいや、折角結んだのに解くんですか」

「結ぶ前に着替えるべきだった。着替えてから結び直すよ」

 これが、電気屋から出て行く日のヤスカと店番の少女との最後の会話になった。

 ゴールデンウィークの最終日の一日前となったこの日、五月四日の羽畑空港を行き交う人の数はとても数え切れるものではなかった。羽畑がこの国で最も混み合う空の港だからといって、限度というものがあるだろう。長い空の旅を終えてやっと降り立った空港がこの有様では、乗客だった人たちも苦労するはずだ。だが、その人たちは幸運である。この混雑から抜け出すことができるのだから。少しだけ重たい門を押し通れば後は快適だ。何とも恨めしい限りだ。どうぞ、お幸せに。羨ましくない。決してそのようなことはない。

 無限に行き交う人々を眺めながら、百比良は隣に立っている藤山の顔をチラリと盗み見る。今、隣に立っているのは武藤ではない。ゴールデンウィークが始まるよりも前に空港にやって来た時、隣には武藤が、タケさんがいたのだ。今はもういないけれども。空港から遠く離れた市街地にでもありそうな売店の横に生えた無骨な柱の前に立っている百比良と藤山から少し離れた所には、野口を始めとした刑事部の面々の姿も見えていた。かつてヤスカを待ち構えたときのような状況だが、ここから検問所を設置しようとしていないのには理由がある。それは、小指を角にぶつければ痛いのと同じくらい単純なものだった。

 百比良たちは待ち構えているのではない。既に、対峙しているのだ。それも、ヤスカという究極の個人ではなく、それに引けを取らないほどの厄介な集団と、である。それと、対時と言っても面と向かってというわけではない。百比良たちとその標的たちとの間には太くて長い人の波という障壁が存在している。人の波の隙間から視線が交錯し、互いに譲らない状況が続いていた。場所は羽畑空港の出発ロビー。保安検査場の入口の近くでは、『祈念堂』と記された腕章を身につけた男たちが率いるツアーの団体が陣取っている。その周囲を取り囲む透明の盾を構えた完全防備の警備隊こそ、標的そのものだった。彼らの正体は彼ら自身が装備する盾に記された文字が教えてくれている。即ちSUPガードだ。

「祈念堂とSUPグループの関係を糾弾した社説を載せた真奏新聞の記者が撃ち殺されてるって言うのに、よくも堂々とツアーの護衛に出てこれたな、奴ら」

「自分たちは捕まらないっていう自信があるんだろう。忌々しい連中だ。それと、奴らがここに現れたのはツアーの護衛が目的とは限らないぞ。奴らは基本的にグループの上層部の警備を担当しているはずだからな。今日辺り、誰かここに来るんじゃないのか」

 人の波の向こうに聞こえないように、声を潜めながら百比良と藤山は顔を合わせずに言葉を交わす。SUPガードの警備員たちに近付かないように歪んだ人の波はこちらに寄って来ていたため声が向こうに届くとは思わなかったが、人の波の中に標的たちの仲間が紛れ込んでいるとも限らない。油断は禁物だった。タケさんならそう注意するはずだ。

「誰かって、誰だい。ヤスカでも襲撃してくるのか?」

「その名前を出すな、藤山。その名前を聞くとお前でも殴ってしまいそうになるんだ」

「悪い。しかし、タケさんを撃ったのがヤスカだという証拠はないんだろう? 寧ろ、SUPガードの連中の仕業と考えた方が辻褄は合う気がするんだ」

 顔が怒りに染まりかけた百比良の様子を見た藤山は慌てて謝るが、その一方で百比良の心に取り憑いた思い込みの軌道修正も忘れない。それでも納得した表情を見せない百比良に対して、藤山は不利を承知で説得を試みる。

「考えてもみろよ。ヤスカは『仕事』の邪魔だと思わなれければそう簡単に無闇に警官を撃ち殺すような真似はしないはずだ。なら、タケさんが何をしたって言うんだ? ヤスカがタケさんを打つ理由は見当たらないじゃないか」

「それは、そうかもしれないが」

「タケさんとSUPガードとの間に何かあったのかもしれない。だけど、それは俺たちには分からないことだ。でも、今は連続射殺事件にSUPガードが関与していたという証拠を掴むのが先だろう? それも難しいかもしれないが」

 仮に証拠を掴めたとしても、SUPグループからの圧力で揉み消されるのがオチかもしれない。それは百比良にも、藤山にも分かっていた。それでも、二人を含めた大勢の同志が今ここにいる。その動機は一つ、武藤という仲間の仇を取るためだ。SUPガードの横暴をこれ以上見過ごすのも限界だった。だからこそ、公安部や刑事部、それに刑事部の有志がここに集っているのだ。SUPガードの連中が民間人に危害を加えようものならすぐにでも逮捕してやるという闘志を共有して、である。百比良は少し方向性が異なるが。

「タケさんとSUPガード、タケさんとSUPガード、タケさん。あっ!」

 野口たちと周囲の状況を報告し合っていた藤山は、端末から遠い方の耳に突進して来た百比良の叫びに驚いて端末を床に落としてしまう。突然大声を出した百比良に対する周囲の視線に耐えつつ藤山は大声の主へと振り向くが、開きかけた口が止まってしまった。

 笑っている。百比良が目を見開き、正面ではないどこかを真っ直ぐ見て笑っている。不気味さを感じさせる笑みだ。単純に面白いから、嬉しいから笑っている人にはできない笑い方だ。文字で表すならイヒヒ、と記すべきだろう。そんな気味の悪い笑みを浮かべながら、ゆっくりと自分の方への頭を動かす百比良から、藤山は目を逸らせなかった。

「フジ、俺は壮大な勘違いをしていたみたいだ。自分で自分が可笑しくてたまらないよ。ああ、どうしてもっと早く気付かなかったのかなぁ。あのときの俺だと無理か、ウフフ」

「百、お前。どうしたんだよ」

「そんな心配そうな顔をするなよ。君が言ってた通り、タケさんを撃ったのはヤスカの奴じゃなさそうなんだから。それにしてもすっかり忘れていたなぁ、アハハハハ」

 やけに陽気な言動に困惑を隠せない藤山を見た百比良は、更にニヤリと口角を上げる。

「フフフ、話は簡単なことさ。フジ、君は二年前の狙撃事件のことを覚えているかい」

「ああ、薄れつつはあるがね。犯人は捕まえられなかったはずだが、それが今どうしたと言うんだ? 確か、あの事件で取調をしたのはタケさんだったかな。おい、まさか」

 薄れつつはあるが、あの事件は中々に衝撃的だったことは藤山も覚えている。スクランブル交差点のど真ん中で真っ昼間に狙撃事件が起きたのだから、印象に残らない方が不思議なくらいだ。それと今に何らかの繋がりがあるからそのことを話しているのだろう、という素直な予想によって藤山の口から飛び出した質問が答えを得ないうちから更なる疑問に包まれる様子は百比良の笑顔に拍車をかけた。ニヤニヤとしながら疑問が一定の確信に変わって行く姿を見届けると、藤山が待ち望んでいる答えを惜しげもなく口にする。

「そうだ、そうなんだよ。あの時狙撃の実行犯としてタケさんが落とせなかった鬼兵という男が、SUPガードの連中と関わっているとしたら、誰がタケさんを撃ったのかは丸分かりだろう? それに、あの警備隊がここにいるなら奴の居場所も限られてくるはずだ」

「そうなると、この羽畑にもその鬼兵という男が来ているかもしれない、ということか。もしかすると、この波の向こう側にいるかもしれないぞ」

 藤山は百比良と共にヤスカとはまた別の脅威の存在に対する認識を共有し、思わず周囲をキョロキョロと見渡してしまう。見渡したところで相手は狙撃屋であるため、見えないところから狙っているであろうにも関わらず、だ。明らかに冷静さを欠いた藤山の行動は出発ロビーの中でも目立つ部類の行動であるため、百比良は無意識のうちに溢れる笑いをどうにか止めつつ藤山の後ろ首を手で軽く摘んで首の横移動を制止する。

「うわっ。百、何をするんだ。驚かせるなよな」

「いや、失敬。悪目立ちは得策ではないからね。だが、焦るなよ。鬼兵の奴を捕まえてタケさんの仇を取りたいのは俺だって同じだ。正直なところ、今はヤスカよりも奴の方が憎いくらいだよ」

「確かにそうだな。ヤスカがタケさんを撃った可能性が低い現状、許せないのは鬼兵の奴の方だ。だとしても、ヤスカを野放しにするわけにもいかないだろう? ヤスカがこの国に来た理由も、まだ分かっていないしな」

「タケさんはヤスカの『仕事』はSUPグループと関係している、と睨んでいたがね。それを突き止める間もなく撃たれてしまったが」

 タケさんのことを忘れないために会話の中に度々タケさん、という言葉が現れるが、それと同時に二人は喪失感を味合わなければならなかった。それはタケさんについて言及する際に負う代償のようなものだが、その代償はふとした時に蓄積の許容量を超えてどうしようもないやるせなさが襲ってくるものでもあった。二人の会話はそれ故に時々止まる。

 更に、SUPガードと睨み合う現状も停滞を加速させた。停滞の加速といっても早まるものでもなく、ただひたすらに時間が薄く伸びて同じ時間をより長く感じるというだけのことだ。それだけのことと言いつつも、それなりに辛抱が必要なものだけれども。

 そうして柱の近くで二人が奇妙な停滞を味わっていると、保安検査場前に集まったツアーの団体に動きがあった。他の旅行客を寄せ付けない雰囲気を放つ盾を構えた警備隊に囲まれていながらも少しも狼狽えもせず、ニコニコとしたままの参加者たちへと向かってゴロゴロと音を立てて大きな段ボール箱を載せた台車がやって来る。警備隊の隊員と隊員との間をツアーのガイドの部下らしき男が台車を押しながら素通りする光景は、一見すると奇妙なものだった。その光景に特に言及することもなく、ガイドの言葉に一々頷く参加者たちの内訳は、老若男女問わないあらゆる年代、性別であった。参加者たちの異様な態度に気付いた百比良と藤山がガイドの男の方に耳を傾けると、これまた首を傾げたくなるような言葉が聴こえてくる。

「さぁ、皆さん。チケットはお持ちになられましたか。間もなく保安検査場を通過いたしますが、その前に皆様にお配りしたいものがございます。それは、こちらっ! 祈念教会よりお預かりいたしました、オキキサマ直筆の色紙が同封されたのし袋でございます」

 ガイドの男がその後ろに立つスーツ姿の男たちの方をチラッと見ると、スーツ姿の男たちは台車に載せられた大きな段ボール箱の蓋を開けた。一〇〇人ほどの集団が、一人一人段ボール箱の前に並んでのし袋を一人一つずつありがたそうに受け取って行く。

「ああ、ありがたや。ありがたや」

「オキキサマの書かれたお文字、この身に付けられるとは」

 ガヤガヤと騒ぐ参加者たちの中からはそんな声も聴こえてきた。何人かは配られたのし袋を開けてみようかと手を伸ばすが、それはガイドの男の注意に制止される。

「いけません、いけませんよ。文字を見てはいけないのです。もし我々がその文字を目にすれば、オキキサマの加護は永久に失われてしまいますからね」

 ガイドの忠告を聞いた途端、参加者たちは慌ててのし袋を鞄やリュックなどに入れた。最初から誰も文字を拝見しようとなど、そんな恐れ多いことをしようとはしていませんよとでも言いたげな態度だ。それを見たガイドの男は配った袋に関する注意を続ける。

「只今お配りいたしましたのし袋は、このツアーの無事祈願のために用意されたものでございます。即ち、空の旅が終われば回収させていただくことになっております。必ずお返しください。もし、誰か一人でもオキキサマの加護を独り占めしようと返却を渋られる方がおりましたら、我々は二度とオキキサマの加護を得ることができなくなるでしょう」

 長々と語り終えると、よろしいですかとガイドの男は目を見開いて念を押した。

 男の注意に参加者たちは一斉にははーっ、と合掌して頭を下げる。側から見れば、異常とも言える光景だった。それを目撃した百比良と藤山は思わず顔を見合わせて同じことを口走る。至極当然な感想が同時に飛び出した。

「「オキキサマ、何だそれは?」」

「百、聞いたことあるか? オキキサマって」

「ないね。どうせ教会の造語か何かだろうさ」

 そんなところだろう、と相槌を打った藤山はそのままぼんやりとツアーの参加者たちを見つめていたが、ツアーの参加者たちのうちの一人、小学生くらいの子どもがまだ手に持っていたのし袋を床に落とすのを見逃さなかった。のし袋はポス、という少し重みを感じさせる音を立てて床に落ちた。その音を聴いた藤山は、のし袋の中身がとても一枚の色紙であるとは信じられなくなる。もっと多くの紙が入っていなければしないような音だと思ったからだ。床に落ちたのし袋を子どもの母親が慌てて拾い、汚れが付いていないかどうかを確認する姿を見続けていた藤山は、顔を動かさずに隣の百比良に声をかけつつ、肩を叩こうと手を伸ばす。

「うーむ。あののし袋、どうにも引っかかるんだよな。薄い紙だとしても一〇枚は入ってないとあんな音は鳴らないと思うんだが。百、お前はどう思う。百?」

 だが、隣に伸ばした手は空を切る。振り返ってみると、百比良は柱から少し離れた通路の影で電話に出ているところだった。険しい表情から、何かあったことは察することができる。まさか、鬼兵の奴がこの羽畑に現れたのだろうか。そうでなかったとしても、好ましくない事態が起きたことは間違いないと思う。どちらにせよ、不測の事態に備えてこちらも打てる手は打っておくべきだろう。そう考えた藤山は、百比良とは逆に電話をかけることにした。端末を操作して連絡先を検索し、野口の名前を見つけてタップする。

「もしもし、野口さんですか? 藤山です。実は頼みたいことが」

「おい、フジ。急いでロビーの入口に行くぞ。聴いてるのか」

 野口に電話であることを伝えた藤山が端末をジャケットの懐に仕舞うと、血相を変えた百比良が駆け寄ってくる。先程までの余裕の笑みを捨て去った男がそこにいた。やはり何かあったのだ。打つべき手を打ったばかりの藤山にはない焦りを感じられる。だが、その藤山の余裕も百比良の口から語られた言葉の前には破れ去ってしまうのだった。

「フジ、奴だ。奴がやって来たんだ」

「まず落ち着け。奴とは誰のことだ。鬼兵の奴か?」

「違う、奴だ。ヤスカだ。ヤスカがここに来たんだよ」

 藤山がその名前を聴き、言葉を失ったのは言うまでもない。よりによって、ヤスカか。

 そう、ヤスカは再びこの羽畑空港に姿を現したのだった。それも堂々とタクシーを使って出発ロビーに繋がる入口の正面からである。そこに配置された捜査員がそれを見逃すはずもなく、ヤスカに気付かれないように百比良たちに連絡しようとしたのだが、思わぬ形でヤスカと接触することになってしまう。その捜査員が端末を取り出して電話をかけようとした瞬間、後ろから絶対に背後を取られたくない男の声が聴こえたのだ。

「おい、そこの奴。捜査員だろう? そうなら話は早い。百比良という奴がいるなら呼んでくれないか」

「や、ヤスカ! いや、誰だね君は。今は『仕事』中なんだ、邪魔しないでくれ」

「俺のことをヤスカと呼んでおいてそれはないだろう。『仕事』を全うしてもらおうか。ほら、百比良を呼べるのか呼べないのか、さっさと答えた方が今後の健康のためだぞ」

 一切の情けを感じ取ることができない冷たい声色と高圧的な態度にその捜査員は折れ、ぶるぶると震えながら百比良に電話をかけるしかなかった。そして、今に至る。ロビーの入口として機能する無数の自動ドアが並ぶ場所の近くの壁にもたれかかるヤスカと、その隣で気まずそうに俯く数人の捜査員。そこに駆け付けた百比良と藤山は、大声を出すわけにもいかず、セカセカとヤスカに近付いて鋭い眼光を飛ばす。二人に対し、ヤスカは表情を変えることなく軽く手を上げるだけだった。その動作を挑発と受け取った百比良は肩を怒らせながら更にツカツカとヤスカに詰め寄って行く。藤山はそれを止めようと後ろを追うが、間に合わずに百比良はヤスカの目の前に立ち塞がった。

「久しぶりだな、ヤスカ。お前のような疫病神が一体ここに何の用かな?」

「その言い草はないだろう。君も、このヤスカが武藤を撃ったわけではないことは分かっているはずだ。まぁ、その弁明のために来たわけでもないがね」

「一言余計だよ。だが、残念なことに今、お前に構っている暇はないんだ。なにしろ、SUPガードの連中を見張らなければならないんでね。おい、お前たち。ヤスカの身体検査は済ませたんだろうな」

「は、はい。銃火器の類の携帯はありませんでした」

 ヤスカの隣で俯いていた捜査員は百比良の問いかけに慌てて顔を上げ、背筋を正して検査の結果を報告する。まあ、そうだろう。ここに銃火器を持ち込むほどヤスカは甘くはないのだ。逆にここで銃火器を携帯しているのが見つかれば、偽物か変装かと疑うだろう。

「それじゃあな、ヤスカ。『仕事』の成功を祈っているよ?」

 捜査員たち監視も怠らないように、と指示を出して皮肉混じりの応援を告げると、百比良は藤山と共にヤスカに背を向ける。ヤスカの言葉に一々反応しては思う壺だと学んだ百比良たちは、遂にヤスカにやり返してやったぞ、と誇らしさすら感じていた。

「そうか、残念なことだ。折角君を呼んだからには、『仕事』に関する話をしてやろうと思っていたんだがな」

 百比良と藤山の歩みがピタリと止まる。ここで振り向くのはヤスカに踊らされているようで癪だったが、タケさんが生前解き明かそうとしていた謎が少しでも判明するかもしれない、という希望は危険なほどに魅力的だった。百比良にとっても、藤山にとってもだ。

 二人は顔を見合わせ、ヤスカに聞こえないようにひそひそと作戦会議を開催する。

「どうする、フジ。ここで奴の話に乗るのはあまりにも格好が悪いとは思わないか」

「お前の格好はさっきの笑い方で既に存在しないに等しいだろう。何を今更」

「そうだな、俺たちの格好が付いたときはよく考えれば今までなかったかもな」

「おい、これは何の話なんだよ。それと俺の格好がいつなくなった。勝手に無くすなよ」

 とにかく、タケさんのためにも恥を忍んで聴いてみるしかないだろう。タケさんのためと思えば、俺たちの格好など何の意味もないのだから。その点で一致した二人は非常にゆっくりと振り向き、先ほどの別れの挨拶を葬り去ってヤスカに答えた。

「そうか、そんなに話したいなら聴いてやらないこともないな。なぁ、フジ?」

「そうだな、立ち話もなんだから、どこかカフェでも入ろうか」

 全く仕方ないな、と話を聞いてやろうという立場を取る二人にヤスカは冷たい目を向けたが、諦めを混ぜつつ嘆息して切り替える。そういうことなら、そうしてやろう。その方が話が進むならそれに越したことはないのだから。よし行こうか、という百比良の声により二人と一人という奇妙な三人組は出発ロビーに向けて歩き出した。共に警戒しながら。

 出発ロビーの全体を一望できる三階のカフェには、ガラス張りのフェンスで囲まれた見晴らしの良い席がある。店内のカウンターから最も遠い窓側の席は陽の光を浴びて白い椅子とテーブルが輝いていたが、そこに座る三人の男たちは皆黒い服を着ていた。ヤスカも百比良も、藤山も皆黒いスーツを着ているのだから仕方のないことだけれども。しかし、着ているスーツは同じではない。百比良と藤山が着ているスーツは何の変哲もない市販品だが、ヤスカの着ているスーツは違う。オーダーメイドの特注品だ。決して派手ではないが、ヤスカの体に合わせて精密に作られていることが分かる。佇まいから所作までもが、ヤスカに合うのだ。生地も市販品からは感じられない肌触りの良さを感じさせる。

「ご注文はいかがいたしましょうかー?」

 元気な声で顔に貼り付けた笑みと共に、茶色のエプロンを身に付けた若い店員がメニューを差し出す。それを見た百比良と藤山は値段にひっくり返った。コーヒー一杯で九八〇円、だと。おまけにスイーツを頼めば二〇〇〇円以上は確実に吹き飛ぶではないか。場所代込みの空港ならではの価格だと分かっていても、驚きを隠せない。

「コーヒー一杯で立ち食い蕎麦が何杯いけるかな」

「やめろよ、考えないようにしてたのに。ああ、頼みたくなくなるじゃないか」

「カフェ・ラッテを三つお願いするよ」

 百比良と藤山が余計な話に華を咲かせていると、見かねたヤスカが勝手に注文を済ませてしまう。店員をテーブルからさっさと遠ざけて話をしてしまいたいという意志の現れでもあったが、二人はそれに気付かずに勝手に注文されたことへの非難を始める。

「あっ! 勝手に注文したな。何て奴だ、五〇〇円以上は払わんぞ」

「そうだそうだ、九八〇円もあれば蕎麦にかき揚げがたっぷり乗せられるんだからな」

 何言っているんだこいつらは、とヤスカはこの二人に話そうと思ったことを後悔し始めていた。武藤ならまだ話が通じただろうに。ああ、武藤はもういないのだった。武藤がいなくなったことでこんな弊害まで生じるとは困ったものだ。それでもああだのこうだのと文句を続いる二人に呆れたヤスカは鋭い眼光を飛ばし、低い声色で黙らせようと試みる。

「いい加減にしてもらおうか。そんなに値段の話がこのヤスカの話よりも大事か。お前たちにその気がないのならもう帰らせてもらうぞ。会計はこちらで持つから、もう騒がないでくれないか。連れだと思われたくないのでね。まぁ、こんな騒がしい奴らは部下にもしたくないが」

「すまん、あまりに高い値段で思わず我を失ったようだ。目の前にヤスカが座っているんだったな」

「百、お前本当にヤスカの前にいることを忘れていたのか?」

「今はそんなことはどうでもいいと言ったはずだがな。それとも、こんなくだらない茶番に付き合わせるためにこのヤスカをここに連れてきたわけではないだろうな?」

 それは断じて違う、と慌てて二人は否定した。ヤスカの声色に怒気が滲み始めていたからだ。怒らせてはいけない相手を爆発一歩手前まで苛立たせるのはある意味で才能だ。恐らく最も使い道のない才能ではあるが、それが見事に発揮されてしまっていた。本人たちが望まずとも、である。だからこそ、大惨事目前まで状況を悪化させているのだ。

「お待たせしましたー、カフェ・ラッテでございまーす」

 そこに、コーヒーカップを三つお盆に載せた良い意味で空気を読まない店員がテーブルへと近づいて来た。ヤスカも慌てて声色を善良な一般客仕様に戻して会釈する。この店員、恐らくテーブルに座ったカップルが別れ話をしていたとしても、お済みのお皿お下げしますねー、と言って割って入れるタイプだろう。そこまで行くと清々しいものだが、それに近いものを感じる。その業務用のメンタルは『仕事』を行う上で参考になり得る素質を備えているかもしれなかった。そんなことを大真面目に考えるのはヤスカだけだが。

 テーブルに届いたカフェ・ラッテを静かに一口飲んだヤスカはコーヒーカップを受け皿にカチリと置き、対面に座る百比良と藤山の二人と目を合わせる。それは話が始まる合図でもあった。二人も手に取っていたコーヒーカップを置き、真っ直ぐに向き合う。お互いの立場を超えた対峙は重苦しい沈黙を招いたが、発端のヤスカが打ち破って口を開く。

「武藤がこのヤスカの『仕事』はSUPグループに関するものではないか、と生前言っていたそうだが、それは概ね正しいと言えるだろう」

「何故それを今になって俺たちに明かす? 『仕事』の内容や依頼主を明かすことは信頼を損ねるのではなかったのか」

「まあ、最後まで聞け。ここでそのことを明かしたのは、今回の『仕事』が既に『仕事』として成立しなくなっているからだ。そこに、このヤスカがここに来た理由も含まれる。更に言えば、本来なら、今日で『仕事』は無事に終わるはずだったんだ」

「『仕事』が終わるって、お前は特に何もしていないじゃないか。今は俺たちと呑気にお茶している有様だろう」

「頭を使う『仕事』だったんだよ。計画を立てて後は実行する者に実行させるだけのことだった。話はそこまで単純ではなかったがね。要は妨害に遭ったということさ」

 百比良と藤山はヤスカの言葉を一言一句聞き逃さないように懸命に耳を傾けていたが、それでも話の真相が見えてこない。話の内容を掴みかねている二人を見たヤスカは、視線を二人からとある場所へと移す。それに釣られて二人もヤスカの視線の先を追うと、そこには今まさに保安検査場を通ろうとしている祈念堂主催のツアーの参加客たちがいた。

「奇遇だとは思わないかい、お二人さん。このヤスカの『仕事』が終わるはずだったこの日に、あのツアーも最終日を迎えようとしているよ。そして、あのツアーの周りをSUPガードの警備隊が取り囲んでいる。ここまで言えば分かるかな?」

 その光景を再び目にした百比良の頭の中には、いくつかの断片的な記憶と言葉が去来した。そのうち、それらは奇妙にも結び付いては一つの結論を形作って行く。SUPグループと祈念堂の関係、祈念堂の収益、祈念堂主催のツアー、そのツアーを護衛するSUPガード。そして、SUPグループに関する『仕事』を行ったと明かしたヤスカ。

 つまり、そういうことか。

「お前、やりやがったな。今日までの一〇日間で、すっかり祈念堂の収益はこの国から姿を消したってことだろう。そして、その計画を立てたのがお前だったんだな」

 ヤスカは肯定も否定も示さない。ただ、ニヤリと微笑んだだけだった。百比良の言葉に驚いた藤山は、そこでツアーの参加客に配られたのし袋の不自然な厚みを思い出して何が起きたのかを漸く悟った。まさか、そんなことが。これは、何という大胆な計画だろう。

「ああ、そんなことが。一つののし袋に一〇万円が入っていれば、あの一〇〇人の団体が知らないうちに一〇〇〇万円を運んだことになる。それが一〇日間続けば、あっという間に一〇〇〇人で一億円も運べるじゃないか!」

 そう言うと、藤山はがっくりと肩を落として椅子にへたり込んでしまう。その横で辛うじて姿勢を保っていた百比良も、ヤスカの計画の恐ろしさに気付くと衝撃を隠せない。

「仮にのし袋の中に一〇万円ずつ入っていたとしても、のし袋にしては少し多いくらいでそこまで怪しくないだろうな。それに、ツアーの参加者全員に配っていたとしても主催者からの特典とも考えられるし、そもそもそのお金を祈念堂の収益であると証明しようにもどうやって証明すれば。ああ、これはなんてことだ」

 『仕事』の内容が想像だにしない方向性だったこともあり、百比良は自分の想像力の欠如を思い知らされた気分で項垂れる。もう、ヤスカと顔を合わせられなかった。この男は自分たちの手に負えないと痛感してしまっていた。タケさんの残した手掛かりがなければ今こうしてヤスカと対峙することすらできなかっただろうが、それでも届かない。何故この男が仕事屋を名乗っているのか、その理由の一端を直視してしまったことで戦意は消しとばされてしまっていた。結局、重苦しい沈黙が三人が囲むテーブルに戻って来る。それは無理もないことだった。三人のうち二人が崩れ落ち、一言も発することができなくなったのだから。健在なのはヤスカだけだった。

 だが、特に表情を変えることなく対面の落ち込んだ二人を眺めていたヤスカも、時間を確認すると慌ただしく席を立ち、伝票を掴んで会計を済ませようと歩き出そうとする。百比良たちも慌てて席を立ち、追いかけた時にはヤスカは会計を済ませて出発ロビーに向かう階段を歩き出していた。激走の果てに何とか追いついた二人は、ヤスカの肩を掴んで引き止める。今更止められることもないだろう、と思っていたヤスカは驚いて振り向いた。

「何をする、離せ。このヤスカにも予定というものがあるのだからな」

「今更、お前を捕まえられるとは思わん。だが、まだ聞いてないぞ。何故、今回の『仕事』が『仕事』として成立しなくなったのかを」

「簡単なことだ。報酬は半分しか支払われず、約束の日を過ぎても残りが支払われる気配はない。このヤスカに本当に敵対するつもりなのか、と問い詰めに行くだけのことだ」

「問い詰める? 誰をだ」

「長生きしたいなら、知らなくても良いことを知ろうとしないことだな。それに、このヤスカが『仕事』に関して問い詰めに行く相手など、限られているだろう?」

 まさか、今からヤスカが会いに行く相手というのは、そういうことなのか。すっかり打ちのめされた二人は、保安検査場へと向かうヤスカを見送ることしかできなかった。

 保安検査場を無事に通り抜けたヤスカは、コの字型のターミナルに沿って一定の間隔で並んでいる搭乗口の周囲に広がる座席の近くを足早に歩いていた。少し歩くと、搭乗口の反対側に幾つか設置されている空港ラウンジのうちの一つ、SUP羽畑空港ラウンジの自動ドアが見えて来る。その中へと足を踏み入れると、SUPホテルと似たような内装のエントランスに出迎えられる。よく磨かれた黒い床では反射した朧げな照明が点々と輝き、その先で来客を待ち受けるフロントの受付係の丁寧なお辞儀の角度までもが見覚えのあるものだった。これもあの会長の趣味かな、と思わず苦笑してしまう。だが、今はそんなことで立ち止まっている場合ではない、と気合を入れ直したヤスカはフロントへと静かに、それでも確実に一歩ずつ近付いて行って声をかける。

「ラウンジを利用したいのだが」

「当ラウンジは会員制となっておりますが、会員証はお持ちでしょうか」

 会員証の提示を求められたヤスカは、ジャケットの懐から財布を出し、その中に入っている何枚かのカードの中から一枚を選んで受付係に渡す。このカードはSUPホテルの部屋を予約するために入手したもので、SUPグループの色々な場所で使えるお得な特典付きだった。例えば、今まさにヤスカが訪れたSUPホテルが経営する空港ラウンジの利用資格が得られるなど、だ。そう考えていると、受付係が再び顔を上げて微笑む。

「ヤース・K・アドゥワ様ですね。確認いたしました。ご出発のお時間まで、どうぞお寛ぎくださいませ。お部屋にご案内いたします前に、ドリンク等の注文はございますか?」

「注文ではないが、こちらに届けさせた荷物を個室に持ってきて欲しい。頼めるかな」

「かしこまりました。速やかにお届けに参ります」

「ありがとう」

 受付を済ませたヤスカは受付係のお辞儀に見送られつつ、ラウンジの中へ進んで行く。まず目の前に現れたのはドリンクバーや軽食が楽しめるソファやマッサージチェアーが置かれたスペースで、既に少なくない数の客がそこで寛いでいる。ヤスカの目的地は更にその奥だった。誰でも気軽に寛げる先程の場所とは異なり、分厚い壁で仕切られた個室で埋め尽くされたスペースが目の前に現れる。そのうちの一つがヤスカが案内された個室だ。

恐らくマッサージも受けられるであろう大きなベッドや、係に頼めばテレビのモニターも取り付けられるようにも見える器具が設置された壁など、豪華そのものである。これでこの部屋の名称がマッサージルームなのだから、恐ろしいものだ。

「失礼します。お荷物をお届けに参りました」

「ああ、入ってくれ」

 台車の車輪が鳴らす音と共に、大小の段ボール箱が部屋に持ち込まれる。

 それらを見たヤスカは台車を押してきた受付係に、ホテルの時と同じようにジャケットの懐から出したポチ袋を渡す。それを恭しく受け取った受付係は立ち去り、マッサージルームのドアもバタンと閉められたことでヤスカはやっとベッドに座って一息ついた。

 しかし、その余韻に浸る暇もなく大小の段ボール箱に手を伸ばして開封作業が始まる。ガムテープをペリペリと剥がして蓋を開くと、大きい方の段ボール箱からはギターケースが、小さい方の段ボール箱からは二つの木箱が姿を現した。まあ、今回は木箱の中身で十分だろうと思い、ヤスカは二つの木箱の蓋を開き、その中にそれぞれ収められた二丁の回転式拳銃に異常がないかどうか調べていく。シリンダーは回転あるいは降り出すことができるか、撃鉄や引金は作動するか、スピードローダーに弾薬は入っているか、など確認することは多い。そして、最後にはシリンダーに自分の手で七発ずつ、弾薬を装填するという作業が待っていた。この作業をスピードローダーで行えば、空のスピードローダーにまた弾薬を装填するという二度手間になる。だが、自分の命を預ける回転式拳銃が最初に発射する七発を自分の手で装填することは、自分を落ち着かせるという意味合いもあった。

 一発、二発、と円形のシリンダーに空いた七つの穴に一発ずつ装填して行く。この時間は短いようで長く、危険な橋を渡る際の心構えには丁度良かった。この時間を邪魔されたくはなかったが、まさにそんな時に限って滅多に鳴らない電話が鳴るのだった。回転式拳銃をベッドに置き、振動したスマートフォンを代わりに手に取ると、画面にはBRの文字が表示されている。誰からの電話か直ぐに察したヤスカはすぐに応答のボタンを押した。

『もしもし、ヤスカ氏ですかなぁ。こちらはサーモンスタッフの大河ですが』

「ああ、そうだ。電話とは珍しいな。何かあったのか」

『ええ。嬉しい報告ですがね。つい先ほど部下から連絡がありましてなぁ。ツアーの一〇日目の参加客も無事、羽畑から飛び立ったそうですよ。これで『仕事』も一応は終わりましたなぁ』

「そちらはご苦労様だったが、こちらはそうも言ってられないかな。このヤスカのせいでそちらの事務所に被害を与えてしまったことは痛恨の極みだ。すまなかった。この責任は今から取るべき者に取らせるつもりだ。残りの一億も、そちらに渡すようにしよう」

 耳と肩でスマートフォンを挟んで通話しつつ、ヤスカは回転式拳銃のシリンダーに弾薬を装填して行く。一丁目に装填し終えると二丁目に手を伸ばした。大河の声色が変わる。

『ヤスカ氏、まさかSUPガードと争うつもりではないでしょうなぁ』

「そうならないことを望むがね。所詮、個人の願望なんてものは個人の中でさえ実現しないものだよ。その願望を現実のものとするために動かない限りはね。そして、このヤスカは柄ではないが、そのために動こうとしているのさ。自分でも驚いているくらいだよ」

 そう言うと、ヤスカは耳からスマートフォンを離して通話を切った。二丁の回転式拳銃をジャケットの左右の懐に入れてベッドから立ち上がる。ここからだ。いよいよ、ここからがこの羽畑にやって来た目的を果たすための時間なのだ。マッサージルームのドアの前に立ったヤスカは、ドアを見つめたまま一人で声に出さずに呟く。

 さあ、話をしようか。命をかけた大事な話だ。今からそちらに向かうから待っていろ。

 二丁の回転式拳銃と複数のスピードローダーを所持したヤスカという男が、話し相手へと静かに近付いていく。それは、話し相手にとっても悪夢であるはずだ。


 ツアーの最終日ということもあり、そのままツアーの後を追ってアメリカで休暇でも取ろうか、とSUPガードに守られながら岡浜拓弘は羽畑空港にやって来た。既に祈念堂のツアーは出発したらしく、保安検査場の周囲には特に何も警備していない警備隊が残っているだけだった。しかし、彼らはツアーが出発した後に空港に現れるグループの会長の警備も引き続き行うためにこの場に残っていたのである。会長の側に控える高尾は、待機していた警備隊に近付いて敬礼し、声をかけた。迷彩服の集団が一つに固まる。

「任務ご苦労。これより諸君らの指揮はこの高尾京一が引き継ぐ。よろしいかな?」

「ハッ。会長の警備に参加することができるとは、光栄であります」

「ヤスカの奴がこの羽畑に現れないとも限らないし、警戒を怠るなよ。他に何か報告することはあるか?」

「少々警察の監視がうるさいといったくらいで、特にはありません」

 今のところ危険はなさそうだ、と高尾は少し安心する。保安検査場の向こうも恐らくは大丈夫だろう。保安検査場に武器を持ち込むことはできないのだ。もしもヤスカが会長を狙っていたとしても、これでは銃火器も使えまい。高尾はすっかり安心を深めて振り向くと会長に一礼し、保安検査場の方に手を向けて安全であることを示しつつ口を開く。

「ささ、ここよりは向こうのほうが安心です。会長のお気に入りのマッサージも待っております。行きましょうか」

「うむ。あそこのマッサージは格別だからのう」

 会長は顔に刻まれた皺を深くして嫌らしく笑う。そこからは危機感というものは微塵も感じられなかった。それもそのはず、マッサージという緩和の極地に位置する行為について考えていれば、身の安全についての思考は対極へと追いやられてしまうのだから。

 そうして保安検査場を通った会長と高尾が率いる三〇名の警備隊は、SUP羽畑空港ラウンジの出入口の前で別れる。高尾たちはラウンジに入らなかった。グループ系列のラウンジであるため、元々安全だと知っていらからでもある。高尾にも不安はなかった。

 ラウンジのマッサージルームのうちの一つに入った会長こと岡浜拓弘は、バスローブへと着替えて迷わずにベッドにうつ伏せになっていた。間も無くマッサージ師が来るのを楽しみにしながら、である。どうせなら若い子がいい、などと俗なことを思いながら待っていると、待ち望んだ音が聞こえる。ドアを開けるキイ、という軽い音だ。

 だが、それとは別に、ここでは聴き馴染みのない別の音も聞こえてくる。コツコツ、という若い女性のマッサージ師がいつも履いているヒールの音ではない。ズンズン、という力強さを感じる足音だ。高尾が入って来たのか、と思い頭を横に動かして足音の主を確かめようとした次の瞬間、ゴリ、という硬い感触と共に後頭部に冷んやりとした金属でできた何かが押し当てられる。声を出す前に、足音の主は顔を見せないまま口を開いた。

「これはお前たちが招いた結果だ。こうならずに済む道が何通りもあった中でこうなったのは、お前たちの選択によるものだということくらいは分かるはずだ」

「その声。まさか、貴様は」

「おっと、振り向くなよ。聞きたいことに答えてもらいに来たんだ。聞きたいことも聞けないうちに引金を引かなければならなくなるのは、こちらとしても困るのでね」

 引金、という言葉から会長は後頭部に押し当てられた金属の正体を察した。そうだとは思いたくないが、そういうことだろう。そして、対応を誤った際の結末も思い浮かぶ。いや、既に対応を誤ったからこそこんな状況に追い込まれてしまったのかもしれない。高尾の奴め、一体何を根拠に保安検査場の向こうは安全だと言ったんだ。銃を持った奴が待ち構えているなんて、聞いていない。これでは、絶体絶命ではないか。

「聞きたいこと、だと。何だ、金か。儂の娘に手を出した段階で貴様に払う金などないと言いたいところだが、不服なら払おう。だから、頭の後ろのやつを退けてくれぬか」

「なるほど、そういうことか。それでSUPガードを暴走させたのか。先に一つ言っておくが、貴様の娘に関しては特に興味はない。勝手に訪ねて来られて迷惑したくらいだ」

「そ、そうか。それなら良いのだ。報酬も今振り込ませるから、命は助けてくれぬか」

「おい、勝手に話を終わらせようとするなよ。まだ聞きたいことはあるんだ。正直に答えれば今回のことは水に流してやっても良い。聞きたいことはたった一つだ。『仕事』で海の向こうに輸送させた一億円、いや、これからも運ばれるであろう金はどこへ流れるのか気になってね。まあ、これは純粋な興味なんだが。とにかく、答えてもらおうか」

 ところが、会長は命が助かるかもしれない状況であるにも関わらず答えることを躊躇っているようだった。グループの会長ともあろう者が、目を泳がせて逡巡している。太刀打ちできないような、更なる脅威に脅かされている子犬のような態度は老獪な会長には似合わなかった。それだけ明かすことができない使い道ということか。益々気になるものだ。

「答えられないのなら話はここまでだ。今直ぐに残りの報酬を振り込むか、このベッドを人生最後の寝床にするかのどちらかを選んでもらうことになるぞ」

 会長に決断を迫るためにヤスカは回転式拳銃の撃鉄を起こす。カチリ、という微かな音が会長の命を風前の灯に変貌させつつあった。会長はその音を現実のものとは思いたくはないようで頭を振り、これは夢だと何度も呟いて話にならない。ヤスカは嘆息した。気乗りはしないが、仕方ない。言わざるを得ない状況に追い込むとしよう。

「ここで答えないのなら貴様の頭を撃ち抜いた後、貴様の家族にも同じことをするだけのことだ。こちらの世界に生きる者に迂闊に援助を求め、中途半端に敵対するような真似をすればどうなるか教えてやろうか。貴様の娘も可哀想だが、死んでもらうことになるぞ」

「こ、この悪党め! 儂を脅迫する気か!」

「悪党に悪党と罵倒しても意味はないぞ。それと、大声を出さないでもらおうか。防音の部屋でも耳には悪いからな。それで、答えるのか答えないのか、どうなんだ。罵倒はもう必要ない。早く答えなければ死人が増えるだけだ、それくらいは分かるだろう?」

 すると、ピタリと会長の頭の動きが止まる。どうやら腹を括ったらしかった。ようやく聞きたいことが聞けそうだ、と顔に出さずにヤスカも安堵したが、老人の口から飛び出した言葉はその冷静を揺さぶることになるとは、ヤスカさえも予想していなかった。

「答えれば良いのだろう、答えれば。あの収益を向こうに輸送してサウルス・フォーラスの一翼を担うつもりだったのだよ。まあ、仕事屋風情には何のことか分からないとは思うがのう?」

 会長はこの状況でも、ヤスカには分かるまいという皮肉を込めるのを忘れなかった。所詮、『仕事』で使われる立場の駒には知ることのできないことがあるのだ。自分の立場を知るが良い。その上で、このSUPグループの会長でさえ従うことを余儀なくされる世界にお前は敗れ去るのだ。さて、この若造はどんな顔を見せるのか楽しみだ、見られないけれども。そうした悪趣味な期待に痩せた胸を膨らませていると、ヤスカは予想外の反応を見せる。フフフフ、という声がヤスカの笑い声であるのを認識するのに時間がかかった。

 顔を上げて天井を仰ぎ見、高笑いを上げるヤスカの顔はマスク越しでも分かるほどに口角が上がっている。会長は思わず体を起こしてその様子に見入ってしまった。それでも、そこから動くことはできない。ヤスカは確かに上を見て笑っているが、右手で構えた回転式拳銃の銃口はピタリと微動だにしていなかったからだ。逃げ出そうとすれば撃たれる。

「サウルス・フォーラス、『我々のための支配の下での素晴らしき同盟』か。懐かしい名前を聞いたものだ。だが、懐かしいと同時に忌々しい名前でもある。会長、貴方にならこのヤスカが何者か、大体分かったのではないかな?」

 ヤスカの言葉を耳にした会長は、信じられないものを見るような目で目の前の仕事屋を見つめる。神の理から外れていると自分を評するこの男があのサウルス・フォーラスを知っているということは、まさかそういうことなのか。会長は一つの結論に到達した。

「そうか、そういうことだったのだな。ヤスカよ、お前の正体は!」

「それは知る必要のないことだ。二度と目覚めることのない夢の中に眠るが良い」

 笑うのを止めたヤスカは再びベッドの方に向き直り、会長が最後まで口を動かすことを許さずに引金を引いた。回転式拳銃からパァン、という乾いた音が一回だけ響く。会長が身を包んでいた純白のフランネルのバスローブの胸の辺りに赤い染みが滲み始めた。会長はそれを見ると自分の胸を抑え、ベッドに倒れ込んでしまう。それでも、よろよろと手を動かした会長は、最後の力を振り絞って立ち去ろうとするヤスカを呼び止める。

「待て、待つのだ。ヤスカよ」

 本当ならば撃つつもりはなかったヤスカは、サウルス・フォーラスという言葉を聞いたことでほんの少し動揺した自分に驚いていた。だが、あのサウルス・フォーラスと関わっている者を生かしてはおけなかった。あの人のためにも、である。

 動揺を振り切ったヤスカは振り向き、ベッドに倒れ込んだ会長に再び近付いて行く。まだ息があった会長の頭にもう一発撃ち込んで確実に仕留めるためだった。始末すると決めたのならば、最後まで責任を持ってその最期を見届けなければならない。既にうつ伏せに倒れ込んだ会長の顔は見えなかったが、微かな呼吸が聞こえたことからまだ息があるようだった。ヤスカは再びジャケットの懐から取り出した回転式拳銃を構えて頭に狙いを定める。だがその時、ヤスカの度肝をも抜くことが起きた。

 今一度撃鉄を起こして引金を引こうとした瞬間、瀕死のはずの会長は顔を上げてヤスカを睨んで苦しそうな表情を浮かべながらも微笑んで見せる。

「ハッハッハ。愚かな奴よ。脈拍が弱まれば、高尾たちが、警報を受け取る手筈になっておるのだ。後悔しながら、蜂の巣にされるが、よい」

「ほう、考えたな」

 ヤスカが罠に嵌ったことを笑った会長は力尽き、顔がパタリとベッドに伏せられる。慌ててベッドに倒れ込んだ会長に駆け寄って調べると、左右の腕に脈拍を計るための腕輪らしきものが取り付けられていた。しかも、それは赤く点滅して脈拍が感知できないことを示しているように見える。つまり、既にSUPガードには会長の身に異変があったことは伝わっているということか。直ぐに警備隊の連中がここにやって来るに違いない。

 会長の頭を撃つのを止めたヤスカは自分が借りた個室へと走り、ギターケースの腹を開いて不測の事態への備えを整え始める。皮肉にも「兵士」的解決が始まろうとしていた。

 その頃、出発ロビーの保安検査場前でも異変が起こりつつあった。百比良と藤山は自分の目を疑う。保安検査場の近くで待機していたSUPガードの警備隊へと二、三台の台車が到着したかと思えば、その台車に載せられた大きな木箱の中から89式小銃やM4カービンなどの実銃が次々に出てきたからだ。警察の捜査員の前で警備員たちは堂々と銃を受け取り、マガジンを装填して何やら戦闘を始めるかのような様子である。

「おいおいおい、連中は何をするつもりなんだ。あんなものを取り出して戦争でも始めるつもりかよ」

「あれがSUPガードの本性だよ。邪魔になるものは全て排除するグループの私兵さ。連中を止めるためには、こっちも打つべき手を打たせてもらおうじゃないか」

 SUPガードの横暴に憤る百比良の横で端末を取り出した藤山は、野口に電話をかけて切札を呼び出してもらおうとする。それは、SUPガードを止めることができる唯一の手立てでもあった。何回か呼び出し音が続いた後で、野口が電話に出る。

「もしもし、藤山です。どうですか。空港テロ対処部隊は出動できそうですか」

『すまん、藤山。部隊は出動できそうにないらしい。動かないんじゃないんだ。SUPグループと揉めるのを嫌って動かないんだよ』

「そうですか、分かりました」

 通話はあっさりと切れた。藤山は端末を静かに仕舞い、警備員たちの様子を観察している百比良の肩に手を置く。思わず、思い切り力を込めて百比良の肩を掴んでしまう。藤山は怒っていた。当てが外れたことに、ではない。SUPグループの圧力に負けて動かない上層部に対してだった。SUPガードのあの有様を、見過ごせというのか。

「痛い、肩をむしり取る気か。どうだ、野口さんは何か言ってたかい?」

「百、俺たちだけでもロビーに残った一般客を避難させよう。もうすぐここに嵐が来る。巻き込まれれば無事では済まない、銃弾の嵐だろうがな」

 藤山の冷たい顔を見た百比良も事情を察し、まだ出発ロビーを行き来する多数の一般客を外へと誘導しようと歩き出す。だが、その第一歩を踏み出す前に保安検査場の向こう側から耳をつんざく銃声が響き始めた。あっという間に人の波は揺れに揺れ、伝染した無秩序がロビーを包む。誰もそれを止められなかった。音にならない騒めきが駆け巡り、人の波がロビーの出入口に殺到して行く。百比良と藤山はその波に巻き込まれないように、近くの柱の陰に隠れて銃声が鳴り響く保安検査場の向こう側を見つめるしかなかった。

「まるで一個小隊同士が撃ち合ってるみたいじゃないか。SUPガードの連中があんなに弾を撃ち込むということは、余程の相手らしい。ヤスカも巻き込まれたかもしれないな」

「そんなの決まっているだろう、フジ。その相手こそヤスカに違いないよ!」

 搭乗ゲートが立ち並ぶエリアに突撃した警備隊は、携帯していた銃火器を天井に発砲してエリアを制圧する。距離にしておよそ五〇メートル、その間に無数の旅客がいようともお構いなしである。いや、厳密に言えば武装した警備隊が保安検査場を強行突破した時点で大半の旅客は床に伏せるなり、柱や椅子の影に隠れるなりはしていたのだが。それでも、避難を許されることもなく、銃撃戦に巻き込まれた事実には変わりはない。高尾は少しでも動こうとした旅客に、容赦なく拳銃を突きつける。それは、旅客の命を何とも思っていないという事を示す行動でもあった。高尾は旅客へと声を張り上げる。

「動くな、動くんじゃないっ。会長のご無事が確認できるまで誰も動くなっ。動いた奴は丸腰だろうがその場で無力化するぞっ!」

「隊長、ラウンジの自動ドアの近くの柱の影に武装した男の姿を確認しました。あ、あれはヤスカです! 小銃を携帯したヤスカが、こちらを見ていますっ!」

 隊員の一人の報告に、高尾は困惑を隠し切れなかった。何故、奴がここにいる。会長が今日ここに来られることを知っていたということか。つまり、奴は会長に危害を加えたということではないか。発信機から発せられた警報は、会長の身に何かあったことを示すものなのだから。あの疎ましい仕事屋に出し抜かれたことを悟った高尾は、柱の影に身を潜める男を睨み付け、低い声で次の指示を口にする。無線機を片手に持ちながら。

「奴の相手は鬼兵に任せる。『おい、もう来ているんだろうな』」

『ええ。出番がもらえないかと心配していたところですよ』

 一方のヤスカは、ラウンジの自動ドアの近くの柱の影で、別の問題を抱えていた。ヤスカ自体には今のところ問題はないのだが、柱の影に身を隠しているのがヤスカだけではないことが問題だった。SIG SG556を両手で保持しながら相手の様子を窺うヤスカの隣には、出張に向かう途中だったであろうスーツ姿の中年男性がいた。恐らく一般人だろう。慣れない銃声を恐れ、頭を抱えてうずくまっている。それに対して特に何かしてやるつもりも、余裕もないため、奇妙な空間が出来上がっていた。

 その男性は、突然降りかかった理不尽な暴力の嵐に巻き込まれたことに耐え切れなくなったようだった。やがて、その理不尽に対する怒りが同じ柱の影に身を隠す、暴力の嵐の一端を担ぐヤスカに向けられる。その無謀な怒りを向けられたヤスカは、柱の影から今まさに警備隊の隊員に向かって発砲しているところだった。それが戦いの幕開けを告げた。

 ズガガガガ、と空気を切り裂く音が銃口から吹き出し、離れたところに展開している隊員が数名倒されて行く。倒された隊員たちの近くには旅客がいたのだろう。銃声がまだ耳に残っている間に、更に悲鳴が聞こえてきた。恐らく、若い女性のものだ。血を流して倒れた人間の姿を見るはずがなかった人が、この場には大勢いるのだから無理もない。

 その悲鳴は、二つのものに対する引金となった。一つは、警備隊側の反撃だった。仲間を撃たれたこともあり、警備隊の隊員たちは容赦なくヤスカが身を隠している柱へと銃弾の雨を浴びせる。じりじりと、柱を取り囲むように移動しながらも隊員たちは射撃を止めることはない。これにはヤスカも苦戦を覚悟し直す必要があった。

 更に、その悲鳴は予想だにしないもう一つの事態を招く。隊員たちが移動し始めたことで、それまでその近くで動くことを許されていなかった旅客たちが、一斉に保安検査場の方向へ、即ち隊員たちが進む方とは正反対の方向へと逃げ出したのだ。最初は一人、また一人と密かに動き出していたのだが、やがてヤスカに対する銃撃が始まると、誰もが一目散に走り出す。撃たれるかもしれないという恐怖より、この場から逃げ出したいという思考が伝染した結果起きた現象と言えるだろう。もっとも、柱の影に隠れたヤスカと、不運にもそこに逃げ込んでいたスーツ姿の中年男性はその波に乗ることはできないのだが。その激しい波は警備隊の後方で指示を出す高尾にも止められないようだった。後方にいるためにその波に近い位置にいた高尾は声を張り上げるが、ヤスカを逃さないためにも旅客たちに無駄に発砲するわけにはいかない。虚しい怒声が響き渡った。

「動くなと言っただろう、動くんじゃないっ。待てっ。走るなっ!」

 一方で、柱の影でも異変が起こりつつあった。床に伏せていたり、椅子の影に隠れたりしていた自分以外の旅客たちが逃げて行くのを見たスーツ姿の中年男性は、遂に顔を上げると泣きそうな顔でヤスカを睨み付け、怒りをぶつけてくる。

「何なんだよ、もう! お前たちは何なんだ! 俺はこんなところで死にたくないっ。お前たちのせいだ、絶対にそうだ。訴えてやるからなっ!」

「喋るな。命が惜しければ大人しくしていろ」

「お前が撃たれれば良いんだ、それなら俺は助かるっ! そうだ、俺は助かるんだっ。だから、その武器を寄越せっ!」

 何と驚くことに怒りをぶつけるだけに留まらず、その男性は突然立ち上がると、ヤスカが両手で大事に持っているSIG SG556を奪い取ろうと手を伸ばしてきた。まさか奪おうとしてくるとは想定外だったが、ヤスカがそう簡単に渡すはずもない。

「やめろ、素人が触るな。壊れたらどうしてくれる。その手を離さないと撃つぞ」

「どうせここにお前がいる限り撃たれるんだ、この距離なら俺でもお前を撃てるっ。そうすれば、俺は助かるんだっ」

 一般人のはずの錯乱した男の必死の抵抗はしぶとく、結局ヤスカは強引に男の腹に拳を叩き込んで倒すしかなかった。腹に重い一撃を食らった男はよろよろと後退りし、その無防備な体を柱の影の外へと晒す。そう、銃弾が降り注ぐ柱の影の外へと。

 だが、銃弾の雨が無惨にもその罪なき男の体を貫くことはなかった。旅客たちが逃げ惑う混乱に対応するために、警備隊による射撃は止まっていたのだ。男はそれに喜び、両手を上げて柱から走り去って行く。その足取りは軽く、希望に満ち溢れていた。

「撃たないでくださいっ。撃つならあの柱の影にいる奴にしてくださいっ。だから、助けてク、ダ、サ、イ……」

 その時、ズガン、という鈍くも甲高い音が響いた。その音が鳴り止まないうちに、男はバタリと床に倒れて動かなくなる。ヤスカは倒れた男の顔を見た。目に光はなく、額には赤黒い穴が開いている。それは、間違いなく銃弾が撃ち込まれたことを示していた。あの音から察するに、警備隊が携帯していた小銃によるものではないだろう。あの音量と威力を考えれば、そういうことか。ヤスカは男の頭を撃ち抜いたものの正体を殆ど理解した。

 そして、その答え合わせは柱と保安検査場の出口との間に位置する搭乗ゲートから姿を現した男によって行われる。その搭乗ゲートから現れた迷彩服に身を包んだ見知らぬ男は、狙撃銃を構えていた。軽薄な笑みを浮かべながらも、その目は少しも笑っていない冷たい男。その姿を見たヤスカは、この男が何者かを瞬時に把握する。この男は狙撃屋だ。

「やあやあ、初めまして。仕事屋のヤスカ。この手で貴方を撃てるとは光栄ですよ」

「よく来てくれた、鬼兵。これで奴の息の根が止められる。よし、お前たち。柱を包囲するんだ」

 鬼兵と呼ばれた狙撃屋の挨拶にヤスカが応えるよりも前に、高尾が割り込んで指示を出す。挨拶に応えるつもりはなかったヤスカにとってはその割り込みは何の意味も持たなかったが、鬼兵にとっては違ったらしかった。それも、非常に不味い意味で。

 再び、ズガン、というあの鈍くも甲高い音が響き渡る。柱の影に隠れていたヤスカには当たることはなかったが、どうやらそもそもの狙いもヤスカではなかったようだった。銃声の後に倒れたのは、柱に最も近付いていた隊員の一人だったからだ。それを見た高尾は当然激高し、味方のはずの鬼兵に銃口を向けて吠える。

「どういうつもりだ、鬼兵っ! 何故撃った。我々は味方だろうっ」

「俺はヤスカを撃てと依頼された。お前たちを撃つなとは言われていない。ヤスカを撃つのに邪魔をする奴は、味方であろうと排除させてもらう。それと、俺がヤスカを撃ち殺した後に追加で弾を撃つのも許さない。俺の撃った人間は俺だけのものだ」

 気味の悪い趣味を披露した鬼兵は高尾にまで狙撃銃を構えて黙らせる。なるほど、この鬼兵という狙撃屋はそういうルールを持っているらしい。そう納得したヤスカは、納得した者が同時に行うとはとても思えないような行動に出る。アサルトライフルの銃身に取り付けられたグレネードランチャーの引金を、柱の影から力強く引いたのだ。

 ポン、という緊張には似合わない音が鬼兵と高尾の口論を遮る。その音の出所は柱の影だったが、その音と共に射出されたものは既に柱の影から警備隊へと向かっていた。それがグレネードであると分かった時には、既にその大型の弾は床に着弾していた。できるとも思えないが、空中で撃ち落とすことは狙撃屋にも中々できるものではない。幸いなことに、その弾が発煙弾だった。これが通常の弾であれば、壊滅的な損害は免れなかっただろう。このままでは不味い、と判断した高尾は急いで残った隊員たちに指示を出す。

「全員、保安検査場まで後退しろっ。味方同士で撃ち合うことになるぞ!」

 咳き込むほどに濃密な白い煙がエリアを包む中、高尾の声を聴いた隊員たちは急いでその場から立ち去ろうと背を向ける。だが、ヤスカはその煙の中に飛び込み、一人、また一人と近付いて始末して行く。足を蹴り飛ばして転ばした隊員の首を両手で折ると、再びアサルトライフルを掴んで煙の切れ間から見える隊員の背中に銃弾を浴びせる。そんなことを繰り返しながら一〇人ほどを倒し、保安検査場を通って出発ロビーまで逃げた生き残りを追いかけようとしたときだった。後ろからどす黒い声が聞こえてくる。

「誰か忘れていないかい、仕事屋さん!」

 その声が聞こえるのと同時に、背中に激しい衝撃が走る。その衝撃によって吹き飛ばされたヤスカは、膝蹴りか何かをされたのだ、と壁にぶつかりながら推測した。煙を焚いたことで狙撃銃が使い物にならなくなり、肉弾戦に持ち込んだということか。狙撃屋は格闘もできなければ一流ではないというが、なるほど、これは中々に手強い相手だ。

 背中の激痛に耐えながらもヤスカは立ち上がる。鬼兵と呼ばれていた狙撃屋が近付いてきていた。その顔は笑っていない。あの軽薄な笑みさえ浮かべていない。ヤスカを始末するためだけに行動する男が、そこにいた。その姿を見た瞬間、ヤスカは感じたことのない類の恐怖を感じて凄まじい速さでジャケットの懐から回転式拳銃を抜き取る。蹴り飛ばされた衝撃でアサルトライフルを手放してしまったのは痛手だったが、そのための拳銃だ。

 ところが、引金を引くよりも前に鬼兵はヤスカに突進してきた。背中の激痛がまだ治らないうちに、再び壁に体が叩きつけられてしまう。今度は、頭も揺れる。それでも、何とか壁に自分を押さえ付けている鬼兵に発砲しようとするが、指に上手く力が入らない。そうしていると、今度は拳銃を持っている右腕の付け根、即ち右肩に激痛が走った。激痛の後には右腕に力が入らなくなる。肩を脱臼したらしかった。当然、拳銃も持てなくなる。

「ぐあッ! ……狙撃屋さんよ、刑事と同じようにこのヤスカを撃たないのかな?」

「俺から銃を奪おうとした男のことか。愛すべきドラグノフは最後の仕上げなのさ」

 痛みを耐えながら、ヤスカはまだ動く左腕を背中に回してもう一丁の回転式拳銃を取り出そうとする。グリップに指先が触れた。至近距離で撃てば、鬼兵でも避けられまい。

「おっと、左手で握っているものを使わせるわけにはいかないな。獲物は無抵抗に限る」

 だが、その動きも鬼兵には見破られていた。左手に持った拳銃を使うより前に、腹に重たい一撃を食らってしまう。腹筋で守られているとはいえ、その衝撃が内臓を揺らすのを完全に避けられるわけではない。体がよろめき、鬼兵から離れても思うように動くこともできなくなる。そんな体勢で、胴体に追加の蹴りを食らえば倒れるしかなかった。

 ゲホッ、ゲホッ、と声も出せずに呼吸にさえ苦しむ。それすら続かなくなると、次第に意識が朦朧とし始めた。生物である限りは、それに抗うことはできるはずはない。やはり何事もそう簡単には上手くいくわけではなかったのだな、とヤスカは朦朧とする意識の中で苦笑する。ぼやけ始めた視界の端では、床に落ちた狙撃銃を拾ってこちらに歩いてくる鬼兵の姿が映っていた。なるほど、最後の仕上げに入るらしい。それを止めることができない以上、これが最後ということか。あの人の今後だけが心配だ、とヤスカは自ら目を閉じようとする。その時だった。「兵士」が、眠りに落ちて行く「人間」に語りかける。

『甘いのだ、お前は。最初から「兵士」として動いていれば、こうはならなかったぞ』

「うる、さい。最後くらい静かにしていて、くれよ」

『勝手に最後を決めるな。少なくとも俺は、まだ終わるつもりはないのだからな』

 内なる「兵士」の反抗は、深くて暗い沼に沈んで行く「人間」にはもう聞こえていなかった。「人間」が応えなくなったことで、「兵士」は遂に自由を得て倒れ込んだ体に宿る。

『久しぶりだな、またこの目で陽の光を拝むことになるとは』

 仕事屋を床に倒した狙撃屋、鬼兵は愛銃であるドラグノフの長い銃身を床に向け、ヤスカの頭に狙いを定めた。スコープは完全にヤスカの頭を捉えている。この瞬間こそが、鬼兵にとっての快楽そのものだった。死の淵に立たされていることも知らない獲物の命。その命を、指先で葬り去ることができるこの感覚。人を撃つことでしか味わえないものだ。

「それでは、感謝を込めて撃たせていただきましょうか。『いただきます』」

 そう呟くと、鬼兵は震える指先をどうにか抑えながら引金を引く。ズガン、という何度聞いても心地よい音が響くのと同時に、鬼兵は天を仰いだ。ああ、何たる僥倖。この獲物に巡り合えたことに感謝します。だが、感謝と共に頭を下げた鬼兵は信じられない光景に出くわすことになる。そこには、頭を撃たれて動かないはずのヤスカがいなかった。

 何故か、気絶していたはずのヤスカは既に立ち上がっている。左の拳が鬼兵の頭に炸裂した。予想外の重たい一撃が頭を揺らす。体に力が入らずに倒れた鬼兵は、頭上に振り上げられたヤスカの足を、声も発せずに見ていることしかできなかった。

 死闘の果てには、鈍い音が響き続ける。響きの中でヤスカは踊るように動いていた。

 荒々しい踊りには、赤色の足跡が付いてまわる。どこまでも黒く、果てしなく。

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