第三幕 予期せぬこと
窓の外にはしとしとと桜を濡らす雨が降っている。平日の木曜日にあたるこの日、四月二四日はヤスカにとって、この国に入ってから初めての雨の日だった。雨が地面を打つ音が途切れずに、空気を揺らし続けている。それでも室内は静かな方かと思いきや、そんなことはない。室内は室内で、雨音とは別の水音が聴こえていた。しかも、その水音は外の雨と違って途切れ途切れである。外のように満遍なく地面を打つ雨音ではない、室内のある一箇所から集中的に響く水音。当然、ヤスカは室内の水音の出所を知っている。
その正体は、シャワールームから聴こえてくる音だった。それも、ヤスカが浴びているわけではない。昨夜突然訪ねてきた、依頼主の娘が浴びているのだ。一夜をベランダで過ごして、そろそろ向こうも起きただろう、と部屋に戻ってみればこれである。別に、勝手に浴びるなとまで言うつもりはないが、よくも浴びようと思えたものだ。現に浴びているのだから、浴びないという選択肢を放棄したことは間違いないだろう。近頃の女子高校生のやることは分からん、と嘆息すると、ベッドの前に置かれている洒落た椅子を窓側に移動させ、外が眺められるようにくるりと回して座る。シャワールームの出入口を眺めるような格好になる位置のままの椅子に座ることは、何となく憚られたからだった。重ね重ね言うが、このヤスカにそういった趣味はない。勘違いされては困るのだ。部屋に戻ったのも、少し冷えた体を暖めようと思っただけのこと。断じて他意はない。そのはずだ。
椅子に座り始めて数分後になると、シャワールームから聴こえてくる水音はやがて人工の温風が発する轟音へと変わって行った。濡れたあの艶のある長い黒髪を乾かすのには時間がかかりそうだ。ふと、そう考えたヤスカは自分が今何を思ったのかと確認し、もう一度思い出す。その上で、自分が抱いた雑念に戦慄する。このヤスカは今、一体何を考えていたというのか。あの少女が髪を乾かすのには時間がかかるかどうかは、関係ないことではないのか。無意識のうちに現れた自分の純粋な思考に対して、驚きを隠せなかった。
同時に、動揺を鎮める手っ取り早い方法もヤスカは知っている。何か他のことで気を紛らわすのだ。そして、その方法の実践はスマートフォンを操作するという形で現れる。メッセージアプリを見てみると、三樹から大河がサーモンスタッフの事務所に来てほしいと言っている、というメッセージが届いていた。それを確認した途端、水が一瞬で凍結するかのようにヤスカの動揺は殆ど消え去る。気を紛らわすどころか、スイッチが入った。
スマートフォンから目を離したヤスカは、画面を暗くする前に表示される時間をチラリと確認する。午前六時を少し過ぎていた。まだ、少女は姿を現さない。雨のせいで昨日よりも薄暗い朝を迎えた部屋の中で、シャワールームのドアの隙間から溢れている光の筋がやけに目立っている。ヤスカが座る椅子や窓側は雨と隣り合わせになっているため、朝とは思えない雰囲気に包まれていた。『仕事』のことについて考えていたヤスカにとっては、居心地が悪い。こういう場所でどうやって時間を潰すべきか、と部屋を見渡すと、最終的に壁に取り付けられたテレビが目に入る。
そうだ。昨日は無意識のうちに見ていたが、やはり宿泊客は部屋のテレビを見るものなのだ。ならば変化に乏しい部屋の内装を眺めているよりは、こうすべきだろう。動揺を紛らわすための行動の終着点として、ヤスカはテレビのリモコンを手に取った。
『……続いては、今週のお天気です。今日、関東は朝から雨が降り続いていますが、明日以降はまた晴れが続くでしょう。洗濯は明日以降がおすすめです。今日出かける際は傘が手放せません。雨は午後には強まりますが、風は弱まるでしょう……』
「傘を、買っておくんだったな」
現実逃避に等しいテレビの視聴を続けていると、天気予報を見ているうちにこんなことも呟いてしまうものだった。声に出す必要が感じられない言葉を口にしてから、ヤスカは自分自身の発した言葉について微かに笑う。まるで人間のような台詞を言うではないか、このヤスカは。今は人間としてここにいるのだから、本来そうあるべきなのだけれども。
「あ、まだ雨……」
そうして自嘲しつつテレビを見ていると、シャワールームのドアがガチャリ、と開いて生々しい人間の、例の少女の無垢な声が聴こえてくる。薄暗い部屋に差し込んでいた光の筋がいきなり広がり、壁と床を照らした。開け放たれたドアの近くには、淡い蒸気が漂っている。消え行く蒸気に押し出されるかのように、ぶかぶかのバスローブを身に纏い、上気した頬をぱたぱたと手で仰ぎながら少女は姿を現した。椅子に座ったヤスカと目を合わせると一礼し、椅子の後ろのベッドに静かに座る。思わず少女から顔を逸らしてしまう。
ギシ、とヤスカが座った時には聴こえない、柔らかな音を立ててまたベッドが軋んだ。
否が応でも耳に残るベッドの音を頭の中から追い出すために、ヤスカはテレビを消す。室内は再び、外から聴こえる雨音のアンサンブルを聞く側へと姿を変えた。次第に色とりどりの音色を主張し始めた雨音を聴きながら、背中で風呂上がりの熱気を微かに感じていると、ヤスカは自分が置かれている状況について冷静に考えることができるようになってきた。これから依頼主の娘を帰さなければならない。昨晩、依頼主に娘が来たことを告げようかと迷ったが、結局やめたあの葛藤も思い出していた。そして、何より腹が減った。
「……着替えてくれないか。それから朝飯を食べに行こう、腹も減っただろう」
椅子から立ち上がり、振り向いてそう提案したのも束の間、またヤスカは少女から顔を逸らしてしまう。バスローブ姿の少女が顔を傾けながら、髪をとかしていたからだ。長い髪に覆われつつ、頭を支える細い首をつたう水滴が、ぽたりとベッドに落ちる。それを下目で眺めていた少女が、目線を上げて上目遣いになったのも、良くなかった。人を吸い込むような輝く瞳は、昨日よりも美しく見えてしまった。そういう目で見る気はないのに。
「それはありがたいですけど……良いんですか」
「朝飯くらいは食べないと、一日は始まらんよ」
自身を納得させるのも言い聞かせるのも兼ねて何様のつもりかは自分でも分からないまま、少女に朝飯の大切さを説くと、ヤスカは部屋のカーテンを閉じてベランダに出る。目の前で着替えさせるような趣味もないし、覗こうという気も起きなかった。何かの間違いで起きたとしても、それを実行することもできないだろう。そう思いながら、窓を隔てずにより近い距離で雨音を浴びる。激しさを増した雨音と共に、雨樋を流れる雨水の音も落ち着きを取り戻すのに一役買った。雨の中に沈んだ街も、平等に暗い朝を迎えている。
「……終わりました、入ってきていいですよ」
静かに開いた窓ガラスから顔を覗かせた少女は、セーラー服に着替えるのと同時に髪も結んでいた。見覚えのある艶やかなポニーテールが首の後ろから垂れているのが見える。緩やかで、生暖かい風がベランダに吹き付けてヤスカの髪と、少女の髪が揺れる。その光景を見て少し安心したヤスカは、ベランダから室内へ、そしてそのまま廊下に繋がるドアへと歩き出した。朝飯という、一日を始めるための一種の儀式に望むためだ。
地下のレストランに着いたヤスカと少女は、恭しいお辞儀で若いウェイターに出迎えられる。木目調の壁と床、黒い天井に覆われたレストランに照明は少なく、朝から薄暗い。
それでも、ヤスカたちが通された四人掛けの席の周辺は比較的明るい方だった。木目調の壁を繰り抜いた空間の一体が、ガラス張りの水槽になっているからだ。色鮮やかな熱帯魚がゆらゆらと動いているその水槽は、色とりどりの照明によってあらゆる色へと変化することで、目をちかちかさせる。本来は光を必要としない豊かな色彩を殺すような構図に目を細めたヤスカは、恐らく自由気ままに泳いでいるであろう熱帯魚たちを見つめた。
『さて、続いての話題は〜、こちらっ! 近日公開予定の映画で主演俳優Tと共演したある超売れっ子アイドルYの、《タワマン屋上不倫》だ〜っ!』
静かなレストランに似合わない大声が、レストランの壁に取り付けられたテレビから流れる。画面の中央には名前も知らない、眼鏡をかけたコメディアンらしき中年の男性が満面の笑みを浮かべていた。ゴシップの媒介者の下卑た笑みは、ヤスカを不愉快にさせる。
ヤスカの前に座った少女も、テレビに映る番組に対して信じられないほど冷たい目線を向けている。どうやら、好悪には通じるものがあるらしかった。ああいった番組をレストランで流す神経に対して疑問を持ちつつも、ヤスカはウェイターを呼ぶ。手を挙げたヤスカに気づいたウェイターはお盆を小脇に挟んで足早にテーブルまでやって来た。ウェイターはお盆に載せた朝刊をヤスカに渡し、注文のためにメモ帳を取り出して構えた。
「注文を。モーニングセットAを一つ。君はどうする」
「えっと、私はモーニングセットCをお願いします」
問いかけに慌てた少女は、メニューが書かれたラミネートで覆われた紙を手に取って眺めると一瞬で注文を決める。そこまで慌てなくても良いだろう、とヤスカは少し呆れた。
「モーニングセットAとCでございますね。ドリンクはいかがなされますか」
「ホットコーヒーを。君は……」
「私も同じものを」
今度は、ヤスカの問いかけに被せる形で少女は答えた。注文を確認するとウェイターは一礼して下がり、テーブルを挟んだ二人を再び沈黙が包む。紫色の水が徐々に赤色に変わった。その赤色も長くは続かず、次は黄色になった。一定の周期で水槽の水の色が変わって行くのだ。変えられているとも言える。モーニングセットを待つ二人の横顔が黄色い光に照らされ、芸能人の不倫で一々大騒ぎしている番組のスタジオの耳に悪い音声がレストランの片隅を汚していた。コメディアンの中年の男性がわざとらしくパネルの前で話す。
『いや〜、まさか子育てパパとして有名だったあのTが、まさか一〇歳も年下のYとねぇ。あっ、スタジオの皆様いけませんよ? 名前はまだ出てないんですから〜!』
『サンちゃんも悪いよ、もうみんな分かってることをさぁ……』
『あーっ、いけません。いけませんよ? 放送事故になっちゃいますから〜』
ギャハハハ、と品性の欠片も感じられない笑い声が響く。スタジオに集められた若い女性を中心とした観客は、何がそこまで面白いのか、大口を開けて手を叩いている。画面越しに腐敗臭を感じるような、そんな雰囲気を感じる番組だ、とヤスカは嘆息した。芸能人の不倫なんてものは、究極を言えば何も関係がないことだろうに。こんなものを見て何が楽しいのだろうか。そして、そう思っていたのはヤスカだけではなかったらしかった。
「……馬鹿馬鹿しい番組。他に伝えることもないのかしら」
向かいの席に座る少女、去島香縁は小さく呟く。それを聞き逃さなかったヤスカは無意識のうちに朝刊を開いた。一面、二面と捲っていくと、やがて社説が掲載された面に辿り着く。そこに掲載された二、三の社説の中で、とある記事が目に止まる。それを読み終えたヤスカは、少女の小さな呟きに対する返答を発見していた。
「いや。この馬鹿馬鹿しい報道にも、意味がないわけでもないと思うがね」
「……それなら、どういう意味があるんですか」
自身の発言にヤスカが答えたため、少女は真正面に目線を向けて問い返す。その澄んだ瞳に対しての返答はまず、言葉ではなく新聞を見せることだった。少女に渡された新聞は社説を載せた面が開かれている。それを覗き込んだ少女の目に飛び込んだのは、とある社説の見出しだった。少女はその見出しに釘付けになり、他のものは目に入らなくなる。
『SUPグループの横暴を許すな! 祈念堂の謎を暴け……命懸けの告発 六文理』
そこには、ヤスカにとっては見覚えのある字面が並んでいる。どうやら、ヤスカの他にも祈念堂の収益の話を嗅ぎつけた連中がいるらしかった。おおかた、SUPグループに口止め料などを要求するつもりで社説を書かせたのだろう。
「不倫の報道の方に人は食いつくものさ。この社説が出るのを知らされて不倫報道を流しているとすれば、人の目はそちらに向けられる。そういう意味があるかもしれない」
「……あなたが、祈念堂の情報を流したんですか」
「流して何の得がある。祈念堂に注目が集まれば『仕事』に支障を来しかねないだろう。依頼主もそのことは分かっているはずだ。……まあ、依頼主の他は知らないがね」
情報を流したのか、と問われたヤスカはあっさりとした態度でそれを否定する。だが、その最中に一つ疑問が生まれた。グループの会長である父の暗殺を依頼しようとする少女が、何故グループの暗部が明るみに出ることを心配するような態度を取り、更にはヤスカが情報を流したのではないか、と非難するような口調で問うのか。ここから察するに、少女の置かれている立場とは。なるほど、そういうことか。疑問は一応の納得に変わった。
「去島、とか言ったな。君は祈念堂の関係者ではないのか。いや、厳密に言えばあの会長も祈念堂に関わっているだろうから、そうに違いないと思うのだが」
改めて正面を向いたヤスカは、まだ社説を読んでいた少女にいきなり問いかける。その質問を耳にした途端、少女は固まった。一瞬の停止が過ぎると、やけにゆっくりと頭を上げてヤスカと顔を合わせる。顔を上げた少女の瞳からは、光が消え去っていた。そのまま俯いてしまった少女は、聴いたこともないような暗い声色で話し始める。
「……ご明察の通りです。私は祈念堂で、巫女のような仕事をさせられています。そこから抜け出したくて、でも抜け出せなくて……だから、あなたに頼るしかなかったんです。あの人……いえ、あなたの依頼主は自分を神だと考えています。神を名乗る男を始末できるのは、神の理から外れている悪魔のようなあなたしかいない。そうでしょう?」
少女の吐露を聴いたヤスカは、慰めの言葉を口にしない。慰める立場にないからだ。同情する姿勢も見せない。同情したところで何も変わりはしないからだ。それが現実だ。
「お待たせいたしました。ホットコーヒーがお二つと、モーニングセットAとCでございます。スープの方、お熱いのでご注意ください」
テーブルを挟んだ二人の間に流れる重苦しい沈黙に割って入ったのは、注文の品をトレーに載せてやって来たウェイターだった。まずは、どす黒い液体と純白のカップが対照的な、小さな皿の上に載った二つのホットコーヒーがテーブルに置かれる。続いて、ヤスカの前にはフレンチトーストとコーンスープ、それにサラダが、少女の前にはサンドウィッチとオニオンスープ、それにヨーグルトが並べられた。これらがモーニングセットAとCだ。注文の品を並べ終えたウェイターは伝票を留めたクリップボードをテーブルに置き、一礼する。それからはお決まりの台詞がスラスラと口から流れて来た。
「ご注文の品は以上になります。追加のご注文がございましたら、気軽にお声がけください。それではごゆっくりどうぞ」
モーニングセットをおかわりする奴がいるのかな、いるのかもしれないが見たことはないな、と思いつつヤスカはウェイターに軽く会釈する。対面の少女は律儀に手を合わせ、小さな声でいただきます、と呟いてウェットティッシュで手を拭いてからサンドウィッチに手を伸ばした。それを眺めつつコーヒーを胃に流し込んだヤスカは、ふと天井を見上げる。黒い天井に向かって登るコーヒーの白い湯気が空気に溶けていくのが見えた。
ヤスカの体内にも入り込んでいる湯気が、シャワールームのドアから出て来ては消えて行く蒸気に重なる。……放っておけば消えてしまいそうな少女、か。
「今の『仕事』が終わったら君の話をもう一度聴くとしよう。ここに来たことを誰にも言わないと約束できるのならな」
コーヒーを一気に飲み干したヤスカは静かにカップを置くと、突然少女に歩み寄った。だが、それは決してヤスカが少女に優しくしようと決意したからではない。慰めの言葉も同情も意味をなさないのなら、意味があると思えることをしよう。具体的には、『仕事』という形を取るのだが。それでも、『仕事』としてならばまだ動くことができる。
「……本当ですかっ。ありがとうございますっ、本当にありがとうございますっ」
まるでヤスカが『仕事』の依頼を受諾し、更には『仕事』を成功させたかのような喜び方で少女は何度も頭を下げる。まだ話を聴くと言っただけなのにも関わらずここまで頭を下げられると、何やら親切なことを知らない間にしていたのか、と自分を疑いたくもなった。話を聴くと言ったことが少女にとっては救いだったのかもしれないが、こちらはそんなつもりで言ったわけではない。そこで感謝されたところで、そもそも感謝されるようなことでもないのだ。近頃の女子高校生の考えることは分からんと言うよりは、この去島香縁という少女が分からん。声に出さずにそう呟いたヤスカは、そっと目を横に逸らした。
朝食を食べ終えて会計を済ませた二人は、レストランの出入口の柱の前で別れた。もちろん、会計は全額ヤスカが支払った。そのため、少女はレストランを出てから繰り返し頭を下げてお礼を述べた。その光景も、事情を知らない他人から見れば非常に誤解を招きかねないものだったので止めるように言ったが、頭を下げる度にゆらりと揺れる頭の後ろのポニーテールを眺めるのを止めるのにも苦労させられた。どうも調子が狂っていけない。
こういう時には、頭から水を浴びて気分を切り替えるに限る。部屋に戻ってシャワーを浴びることに決めたヤスカは、少女が使った後のシャワールームに入っていいのかどうか葛藤することになるとも知らずにエレベーターホールへと歩き出した。
換気扇の音だけが静かに鳴り響く部屋でバスローブ姿のヤスカは歯を磨き、革靴を磨いてから椅子に座る。ベッドの下から木箱を二つ、クローゼットからギターケースを取り出したヤスカはそれぞれを開き、そこから二種類の紙製の弾薬箱を手に取る。マグナム弾とNATO弾が別々に収納されている箱とは別に、ギターケースからいくつかの器具も出てきた。そのうちの一つはSG556用の三〇発入りの弾倉、もう一つは回転式拳銃のシリンダーによく似た円柱型の器具である。それはスピードローダーと言うもので、回転式拳銃の弾薬装填を助ける便利なアイテムだった。六個ほどそれをテーブルに置いたヤスカはマグナム弾の箱に手を伸ばし、一発ずつスピードローダーに取り付けていく。こうしておくことで、七発撃った後でシリンダーから薬莢を排出した後で一発ずつシリンダーに弾薬を装填せずに済むのだ。敵が自動式拳銃を持っていた場合、予めスピードローダーを用意していないと装弾数の差で蜂の巣にされかねないため、これが必須なのだ。回転式拳銃を選んだ時点で、装弾数が自動式拳銃に劣るということは分かっている。それでも回転式拳銃の方を選んでいるのだから、ハンデは承知の上なのだけれども。
一発ずつシリンダーに弾薬を装填していく作業は、何となく爪切りに似ている気がしている。親指、人差し指、中指、薬指、小指、と順番に爪を切っていかなければ爪切りは終わらないため、一気に全ての爪を切ることはできない。スピードローダーも同じだ。円柱に開いた七つの穴に、一つずつ弾薬を装填していく。本来はシリンダーに一発ずつ装填していくはずの弾薬をスムーズに装填するために、その作業をスピードローダーで行う。一気に七発装填しようと思ってもなかなかできるものではないのだ。無論、七発を片手で持ってスピードローダーに装填しようと思えばできないこともない。だが、そこで弾薬が傷つくかもしれないし、いざシリンダーに弾薬を装填しようと思ったときに上手く行かなくなるかもしれない。銃撃戦の最中にそんなことが起きればそこで終わりだ。
一時の横着が命取りにならないようにするためにも、そんな大胆なことはできないだろう。そのためにも、一発ずつ装填して行くのだ。どんなに地味な作業だったとしても。
手を動かしていると、やがて同じテーブルに置いていたスマートフォンが単調な電子音を発する。それはメッセージの着信を示すものだ。午前八時を過ぎた頃に送られてきたメッセージは三樹からのものだった。
『お迎えにあがりました。地下の駐車場でお待ちしています』
そのメッセージを画面に表示したヤスカは、それに返事を返すことなくスマートフォンを再びテーブルに置く。椅子から立ち上がり、クローゼットを開けてハンガーに掛けていたシャツやジャケット、ズボンを手に取ると、出かける時間だ、と誰に聴かせるわけでもなく無意識のうちに呟いていた。そうだ、もう少女は帰ったのだった。自分がそう呟いた理由を探したくなったが、時間に遅れるわけにはいかないという気持ちが、その探索を阻む。その呟きに、少女がヤスカに与えた影響の余波が含まれているとも知らずに。
およそ一〇分後、ヤスカはホテルの地下の駐車場に姿を現した。コンクリートの天井と剥き出しの冷房が頭上に広がるそこは照明がまばらだが、その一つ一つが強力でレストランほど薄暗くはない。薄暗くはないものの、照明の直下とその周辺との明暗の差は歴然だった。これならもう少し間隔を狭めて照明を設置し、光を弱めた方が良いのに、と思う。
コツコツと冷たく響く足音と共に、ヤスカは一定の感覚で照明の光を浴びて輝き、また暗闇に染まることを繰り返しながら駐車場の隅に停められた白いバンへと近付く。近付くにつれて、白いバンの中から落ち着いたメロディーが聞こえてきた。その曲をヤスカは知っている。アメコミのヴィランの実写映画で使われていた楽曲だ。珍しいことに、記憶に残る曲だったので覚えている。人生について歌った曲の中では一、二を争うだろう。
しかし、今は思い出に浸っている場合ではない。過去の記憶を振り切ると、ヤスカは運転席の窓ガラスをコンコンと軽く叩いた。運転席の外に立っているヤスカに気付いた三樹は慌てて車の外に出てきた。近付くヤスカに気付けなかったことに焦っているらしい。
「すみませんっ。今ドア開けますんで、お待ちくださいっ」
「いや、そこまで気にしなくていい。待たせてしまったからな」
「いえいえ、車の外でお迎えするつもりだったので。失礼しましたっ」
一礼すると、三樹は足早に後ろのドアを引いて開ける。薄暗い車内の後部座席は既に起こされていたが、開かれたドアの近くの方の座席の上には三樹のものと思わしき紙袋が置かれていた。それを見たヤスカは奥の座席に座ろうとするが、それを三樹の声が止めた。
「あっ、しまった。すみませんっ。ヤスカさんが座る席に紙袋なんて。今それを退かしますんで、手前の座席にお座りくださいっ」
既に奥の座席に座り掛けていたヤスカは、手前の座席に置かれていた紙袋を三樹に渡す。受け取った三樹は大事なものを取り扱うかのように、紙袋を両手で抱き抱えていた。
その姿を見て紙袋の中身を何となく察したヤスカは特に三樹を責めることなく、手前の座席に移る。まあ、あの重さから察するに、おそらくはそういうことだろう。大河からでも受け取ったのかもしれない。ヤスカも何か渡してやるべきか。『仕事』の後にしよう。
そう決めたヤスカがバックミラー越しに三樹と目を合わせて頷くと、白いバンはエンジン音を響かせてゆっくりと走り始める。駐車場を歩いていたヤスカと同じように、薄暗い車内にも定期的に光が差し込んだ。所々空車が目立つ駐車場をゆっくりと進んで行く。
「あっ、そうだ。すみませんっ。音楽消すの忘れてましたっ。消しますね」
「構わないよ。彼の曲は耳に残るし、好きな部類なんでね」
「ありがとうございますっ」
そんな会話が車内に響かせながら駐車場から出た白いバンは、エントランスの前の車寄せを通り抜け、まだ雨が止まない街並みへと躍り出た。陽の光とは無縁の灰色の空の下を進む白いバンの車内では、例の楽曲の再生が終わり、同じ歌手のジャズが聴こえ始める。国民的ロボットアニメのエンディングにも使われていた曲だ。月へ連れて行って、と優しく歌うこの曲を月も太陽も見えない曇り空の下で聴くことになるとは、とヤスカは苦笑する。月の下で聴かなければならないというお約束などありはしないが、少なくとも曇り空の下ではないような気がした。曇り空の下で聴くならば、陽の光を浴びたいと歌っている曲の方がお似合いだと思う。そんな曲があるのかどうかは知らないけれども。
全く、何を考えているんだか、と自分に対して呟いたヤスカは運転席側のサイドミラーへと視線を移す。灰色の空を眺め続けるのにも飽きて視線を移した結果、ヤスカは微笑んだ。サイドミラーに映っているものを見たことで、三樹が受け取ったらしい紙袋の送り主も大体は察しがついたからでもあった。声に出ない笑みがそこにはあった。
だが、その笑みは交差点で停まってから話しかけてきた三樹によって真顔にされる。
「あっ、そういえば。昨日のお客様は帰られたんですかっ」
「ああ、今朝帰ったよ。……お前に知らせたかな」
「いえ、帰るときにちょうどフロントで聴きましたんで。それと、SUPガードの方から情報漏洩に関する苦情が来てましたが、どうしますか」
「知らんと答えておいてくれ。こちらも漏洩で迷惑してる、ともな」
やがて、白いバンは歌舞伎の駅前も通り過ぎ、雑居ビル街にあるとあるビルの前で停止する。似たような形の五階建てくらいのビルが建ち並ぶ通りを行き交う人は多く、皆暗めの色の傘を差している。先に運転席から出た三樹がビニール傘を差し、手に持っている黒い傘をヤスカに差し出した。それを受け取って開くと、大きなコウモリが羽を広げたような傘が頭上から降り注ぐ雨を防いだ。僅かな間でも濡れずに済むのはありがたいことだ。
ヤスカと三樹が車から降りて雑居ビルに入るまで、時間にすれば三〇秒にも満たなかったが、傘を差さずに歩けばずぶ濡れになっていただろう。この日の雨はそれだけ容赦がなかった。二人は通りに面するビルのうちの一つで、左右と後ろをまた別のビルに囲まれたとある雑居ビルの自動ドアを通り抜けて傘の水を切るが、それだけで足元が濡れるのが分かる。三樹はヤスカから傘を受け取り、二本の傘をそれぞれ別のビニール製の傘袋に入れて行く。雑居ビルの一階の壁に取り付けられた共用の掲示板に貼られた剥がれ掛けたポスターや、黄色に燻んだ喫煙厳禁の張り紙などを眺めていたヤスカは、ホテルのものとは比べるまでもなく簡素なエレベーターへと視線を移す。
「事務所は何階かな」
「えっ? 最上階ですが……ああ、すみませんっ。ヤスカさんの手を煩わせてしまって」
「約束の時間に遅れるよりはいいだろう?」
そう言うと、ヤスカは迷うことなくエレベーターの扉の横に取り付けられたパネルのボタンを押す。すぐにピンポーン、と安っぽい電子音が響いて下からエレベーターがやって来た。どうやらこの雑居ビル、地下もあるらしい。傘袋を二つ、小脇に抱えた三樹と共にヤスカはエレベーターの中に姿を消す。見た目の割に、静かにエレベーターは上昇した。
緩やかに五階まで登り切ったエレベーターの扉が開く。扉の外は複数のドアに繋がる廊下に繋がっていた。三樹の案内で廊下の一番奥のドアまでやって来たヤスカは、電気屋と同じような粗い窓ガラスが取り付けられたドアの前で立ち止まる。そこには『株式会社サーモンスタッフ』という文字と、黒く縁取られた水色の円の中央に、ゆらゆら揺れている緑色の草とピンク色の鮭が泳いでいるロゴが印刷された紙が貼られていた。おそらく、これがサーモンスタッフのロゴなのだろう。センスはともかく、分かりやすさは確かだ。
「ここが事務所の入口です」
それではどうぞ、と三樹に促されてヤスカはドアを開ける。ドアの内側の事務所は広々とした空間で、よくある会社のオフィスのように机が並び、その上にはパソコンが置かれていた。壁にはガラス張りのケースが置かれており、その中にはぎっしりと資料が収められている。ケースが置かれていない壁には窓ガラスが取り付けられているようだが、カーテンで覆われているため、光は全く入って来ていなかった。廊下よりは多少明るい程度の弱い照明の下、この空間でただ一人、大河だけがヤスカたちを待ち受けているのが見える。窓側に置かれている独立した机の前に座り、ニコニコと微笑んでいた。表情を見るに、どうやら『仕事』は順調らしい。ヤスカとしても、そうであるならば一安心である。
寂しい雰囲気に包まれたサーモンスタッフの事務所にヤスカが訪れたのは、勿論プラネタリウム以来の『仕事』の打ち合わせを行うためだった。大河が呼んだのも同様である。
時間にして午前一〇時。およそ一日ぶりとなる打ち合わせが始まる。ヤスカたちが近付くと、大河はゆっくりと立ち上がって頭を下げた。三樹はそれに対して深々と頭を下げるが、ヤスカは軽く会釈するだけに留める。顔を上げた大河はヤスカに椅子を勧めた。
「いやはや、良くぞお越しになられました。どうぞお座りくださいなぁ」
「しばらく。早速で申し訳ないが、あれから進捗はどうです」
挨拶もそこそこに本題に入ろうとすると、大河はハッハッハ、と笑って机の引き出しからペラリ、と一枚の紙を取り出してヤスカに渡す。受け取ると、印刷物らしいインクの匂いがマスク越しの鼻に響いた。どうやら印刷からそこまで時間が経っていないらしい。
「ヤスカ氏の提案通り、それを明日から実行することになりまして。一応、詳細の確認をよろしくお願いしますなぁ」
その紙には、『弾丸旅行・アメリカ編』と名付けられたツアーの詳細が記されている。
ツアーは一〇日間開催。一日一〇〇名限定、格安航空チケットをプレゼント。往復チケットに当選した方は所定の日時に空港に集合。当選番号を名簿に記入して旅立とう!
「……よく準備してくれた。このツアーが何事もなく終われば、『仕事』も成功だろう」
「それほど大変でもありませんでしたがなぁ、一〇〇〇人の参加客を集めるのは。寧ろ、希望者が多過ぎて抽選で絞る方が難儀しましたなぁ」
人は無料という言葉に弱いのなんのって、と大河は笑って見せる。一〇日間、毎日参加客を先導する人員の確保と養成も既に終わっているということで、いよいよ『仕事』に取り掛かる準備は完了したかに思われた。この一〇〇〇人こそ、一億円を秘密裏に輸送する『仕事』に必要なものの中で、最も手配が難しかったものだ。それをこうも簡単に揃えてしまうとは、サーモンスタッフ恐るべし。サーモンスタッフの協力がなければこのような輸送の計画も実現できなかっただろう。報酬は間違いなく山分けするべきだ。
「それで? グループから報酬は振り込まれたのかな」
「ヤスカ氏に振り込むように、と一億円は頂いております」
「半額か。『仕事』が成功してから残りを払うつもりだな……あの守銭奴めが」
大河が預かった金額を聞いたヤスカはフッと笑う。それに釣られて大河もまたハッハッハと口を開けて笑い始めた。それを見ているうちに、ヤスカは微笑むのを止めてサーモンスタッフへの謝意を今のうちに示しておこうと決める。
「……この一億はそちらに分けようと思う。今回の仕事は発案はこのヤスカだが、実行にはそちらの協力が欠かせなかった。報酬の半分をそちらが持って行っても何の不思議もないと思うのだが、どうだろう?」
それを聞いた大河は、口を開けたまま停止した。ハッハッハのハの口になっている。
「……ヤスカ氏。悪い冗談は心臓に悪いのでよしてもらえませんかねぇ」
停止から生還した大河は笑みを捨てて真顔で、正面からヤスカと向き合う。一億を受け取ることで、SUPグループに余計な矛先を向けられるのは御免だという冷たい主張がその声色に含まれていた。場の空気が一気に冷え込むが、それに動じるヤスカではない。
「冗談などではない。このヤスカが全額を受け取るのを好まない頑固者もいるので、サーモンスタッフに半分を還元すれば、文句も言えないだろうと思ってな。受け取ってくれ」
「……そういうことなら、受け取りましょうか。どうせ後でそのまた半分ほどはホールディングスに取られるでしょうが、それでも五千万はこちらにとってはありがたい」
「では、そういうことで明日からまたよろしく」
「いえいえ、こちらこそ」
ヤスカと大河はほぼ同時に椅子から立ち上がり、固い握手を交わした。裏の世界で生きる者同士の固い握手というものは中々珍しい。それだけ、今回の『仕事』で互いの手腕を認め合ったということでもある。それを目撃したのが、世界の裏表関係なく名の知れていない、ただの運転屋である三樹だけだったのは幸いだった。
一通り打ち合わせを終えた後、二人は、話しながらエレベーターへと向かって行く。
「『弾丸旅行・アメリカ編』と書いていたが、他でツアーを開催する予定でも?」
「グループがまた金を輸送しろ、と言うならツアーを組むでしょうがねぇ。かと言ってフランス編にすると、輸送先がフランスになってしまいますなぁ」
「それは一大事だ。参加客がフランスに行くとなると……」
「ええ。フランスからアメリカに輸送しなければならなくなるので、二度手間ですなぁ」
ハッハッハ、と冗談を笑い飛ばして大河がエレベーターの扉の横に取り付けられたパネルのボタンを押す。ゴウン、と音を立ててエレベーターが上がって来る。それを見た大河はヤスカに頭を下げて、別れの挨拶を述べた。
「それでは、一〇日後に祝杯を挙げられることを期待していてくださいなぁ」
「……その前に。一つ確認しておくことがあったのを忘れていた」
ところが、その挨拶を遮ってヤスカは振り向く。驚いた大河と三樹が顔を見合わせていると、ヤスカはジャケットの左の懐に右手を入れた。次の瞬間には、右手にM686が握られている。その銃口は、ピタリとある場所に向けられた。
そう、三樹の脳天へと。薄暗い廊下の中で、M686の銃身が銀色に輝いている。
「……え?」
「ヤスカ氏、うちの若い者が何か失礼をしましたかなぁ」
狼狽える三樹と対照的に、大河は落ち着いたままヤスカの顔を見る。流石派遣屋だ。
大河の冷静な態度は、その言動にも現れていた。三樹の横に立っていたはずの大河は、音もなくヤスカの横に移動している。更に、右手が先ほどのヤスカと同じようにジャケットの懐に入っていた。おそらく、ジャケットの内側で握っているものも同じだろう。大河としても、サーモンスタッフの構成員が理不尽に撃ち殺されるのを黙認するわけにはいかないのだ。自分自身の立場を所作一つでこちらに主張している。理由もなく撃ち殺すのはヤスカ氏であろうとも許さない、ということだった。
「一つ、明らかにしておくべきことがあってな」
理由もなく銃を向けているわけではない、とヤスカは大河と視線を交わす。大河はまだジャケットの懐に手を入れたままだ。とりあえず話を聞こう、ということらしい。
「三樹よ。昨日も見かけた車が今日ここに来るときも尾けて来ていたのはどういうことかな。このヤスカの外出のタイミングを知らされているのは運転屋のお前だけのはずだが」「僕は知りませんっ。似たような車だったんじゃないですかっ」
ヤスカの鋭い眼光で射抜かれた三樹は、大河の視線からも目を逸らしつつ言い返す。切羽詰まった口調には、如実に焦りが現れていた。ヤスカと大河の視線が強まって行く。
「ほう。ナンバープレートの数字や文字の何から何までが同じ車がそう何台もいるものかな。社用車だとしても、同じなのはせいぜい数字だけだと思うがね」
「三樹、お前……」
「僕は知らないっ。知らないんだっ」
三樹は大河の厳しい目線にまで晒されたからか、ほぼ喚くような形で疑念を否定しようとする。だが、この場合はその態度が余計な厳しい目線を招いてしまっていた。
「お前は昨日このヤスカの部屋に来た客のことも知っていたな。フロントで聴いたとか言っていたが、あの時間、お前はとっくに帰ったはずなんだがな。……そう考えると、お前はこのヤスカを監視していたということになるな。車のことを考えると、誰かに動向を報告していたということにもなるぞ。もしそうなら、お前を生かしておく理由はないな」
大河は右手をゆっくりとジャケットの懐から抜く。その手には何も握られていない。それはヤスカに対するメッセージを含んだ行動だった。もうヤスカに対して銃を向けるつもりはない、というものだ。そして、次の瞬間、大河は再び右手をジャケットの懐に入れて素早く抜き取る。その手にはマカロフという自動式拳銃が握られている。その銃口は、やはり三樹の脳天に向けられた。それを見た三樹は首を振りながら上司に叫ぶ。
「しゃ、社長まで……! 止めてください、こんなの、こんなの濡れ衣ですよ!」
「三樹……お前をトラック運転手にしてやりたかったが、こうなると話は違うってことくらい分かるよなぁ。世の中には敵に回さない方がいい人もいるのは、分かるよなぁ……」
疑わしきは罰せよを地で行く男、大河は既に三樹を『処分』するつもりかのような口振りで語りかける。サーモンスタッフという大勢の構成員を抱える組織を束ねる立場からすれば、運転手に任命した三樹がヤスカに疑念を抱かせるような言動をしたこと自体が、許し難いようだった。自分の部下が『仕事』の仲間との関係が破綻しかねないような行動を取れば、ヤスカも許し難い。『処分』しないと示しがつかないのも分からなくもない。
だが、『処分』よりも前に確かめなければならないことがある。そのために、わざわざ銃口を向けて生きるか死ぬかの状況を続けているのだ。
「まあまあ、このヤスカもこのままお前を撃ち殺そうというわけではない。ここで大事なのは、お前が誰に、何を報告していたかということだ。社長、『処分』はそれからで」
「そうですなぁ。三樹がヤスカ氏の動向だけではなく、こちらの機密情報まで流していないとも限りませんからなぁ……ほら、返答次第で命も助かるかも知れんぞぉ?」
「僕は知らないっ、知らないよっ」
二つの銃口を向けられているのにも関わらず、三樹は首を横に振るだけだった。正常な判断ができていない。この状態で正常な判断をしろと言うのも酷な話だが、それをヤスカや大河が知ったことではなかった。情報漏洩は生死に関わるのだから、当然だろう。
「どうします、ヤスカ氏。足でも撃ちましょうか」
「運転手の手足は不味いだろう。かと言って、胴体も危ないしな」
「なら、仕方ないですなぁ……ほら、歯があるうちに答えた方が身のためだぞぉ?」
そう言うと、大河はマカロフを持っていない左手で三樹の頬を殴り飛ばす。綺麗に殴り飛ばされた三樹は壁にぶつかり、ドカッという音を立てて倒れ込んだ。頬を抑えてよろよろと三樹が立ち上がっている間に、廊下の複数の扉が次々に開いてサーモンスタッフの構成員であろう若者たちがワラワラと姿を現した。若者たちは皆、銃を持ったヤスカと大河と、壁を支えにして立ち上がっている三樹を交互に眺める。誰かが口を開いた。
「社長、これは……」
「三樹が外になびきやがった。お前たち、こいつが逃げないように見張っていろ」
「「へい」」
三樹は少し抵抗したが、手足を掴まれて机が並べられている部屋へと連れて行かれる。それをヤスカは動かずに眺めていたが、あることを思い出して若者たちに声をかけた。
「そうだ。何人か、通りに停めた白いバンから、紙袋を持ってきてくれないか」
「それは三樹のですかな」
「誰から受け取ったのかは知らないが、恐らくそうだろうな」
「おい、何人か下行って調べて来いなぁ」
へい、と返事した若者の数人が非常階段を使って下まで駆け降りて行く足音が響いた。こういう時にエレベーターを使わないところを見ると、割と訓練されているらしい。少し感心しつつヤスカも机が並べられた部屋に戻ると、三樹が顎の下に大河が持つマカロフの銃口を向けられて尋問されているところだった。
「ほらぁ、一〇数える間に答えないと撃つからなぁ。誰に情報を流してたのか教えてくれなぁ。……さっさと答えんかい、知らないよ〜が遺言になっちまうぞぉ?」
「やめてくださいっ、答えますっ、答えますっ。撃たないでくださいっ」
「ならはっきり答えろや、あと三秒でこの世とサヨナラする気かなぁ?」
「え、SUPガードの高尾さん、いやっ、高尾ですっ。あの人に頼まれてヤスカさんの動きを教えろって……言いましたっ。撃たないでくださいっ」
「ほう……良い度胸しとるなぁ、三樹。聴きましたか、ヤスカ氏。この馬鹿、SUPガードに情報売ったそうですわ。全く、お前に情報屋の真似なんて二億年早いのになぁ」
すみません、すみませんと椅子に手足を縛られながら、繰り返し三樹は頭を下げる。その姿を見ているうちに生まれた疑問を、ヤスカは気付いたときには口にしていた。
「……何故こんな馬鹿な真似を?」
「すみませんっ。SUPガードになら問題ないかと思って。それに、僕は高い車に乗りたかったんですっ! 白いバンやトラックよりも、もっと良いやつに!」
三樹の赤裸々な吐露に周りは皆、言葉を失ってしまう。そんなことで。そんなことで、このヤスカの情報を流したのか。自分の立場も分からずにやったことにしては、あまりに許し難いことだ。『仕事』を行う上での邪魔者に十分値する。ヤスカは右手で握っていたM686の撃鉄を起こした。更に、それを見た大河が無情な宣告を行う。
「高い車……高級車かなぁ。三樹、お前自分の立場が分かってないようだなぁ。今までのお前でさえ、高級車が運転できる所まで行けても所詮は運転手。その車はお前のものでもないし、運転屋のものになることもない。車の持ち主、つまり雇用主からの信頼が欠かせない『仕事』だって言うのになぁ……お前は今、その信頼さえ失った用無しだぞぉ?」
「つまり、生かしておく必要がないわけだ。用済みが辿る末路は決まっている」
自分の弁明を最早誰も聞く気がないことを理解した三樹は、縛られて動かない手足をバタバタ動かそうとしてもがく。誰もヤスカを止めないため、『処分』は目前だった。
「うわぁぁぁ。待って、待ってくださいっ。撃たないでくださいっ!」
「待ったところで『処分』の内容は変わらんぞぉ? 生かしておく利点もないしなぁ」
「利点、利点ならありますっ。隣のビルに、尾行してきた人がいるんですっ。その人がいる所を教えますんで、命だけは助けてくださいっ。お願いしますっ、お願いしますっ!」
ヤスカと大河は三樹の必死の命乞いに顔を見合わせて、微笑む。ニヤリ、という音が聞こえてきそうな悪い笑みだった。ヤスカはM686の撃鉄を落とし、大河は三樹の拘束を解くように指示を出す。『処分』のギリギリで生贄を差し出して助かった三樹に対して、大河は目が全く笑っていない悪魔の笑みを向けながら声をかけた。
「さぁ、そのストーカーの所行こうか。三樹の代わりにそいつに死んでもらおうかなぁ」
九死に一生を得た三樹は、引き攣る顔をどうにか取り繕って頷くしかなかった。生贄として差し出した相手のことなど、考えている余裕はない。気を抜くと気絶しそうだった。
サーモンスタッフの事務所が入っている雑居ビルの後ろのビルの最上階は、今は空きテナントになっていた。照明もなければ窓を覆うカーテンもない、廃墟同然の空っぽの空間に数本生えた柱の陰で、SUPガードの二又は枝からの連絡を待っていた。しかし、ヤスカに張り付いて逐一動向を報告するはずの枝からの連絡がない。ヤスカは既にホテルに帰ったのか。いや、だとすれば連絡がないのは尚更妙だ。ヤスカの動向を知っているのは枝しかいない。枝が知らないはずはないのだ。
もしかすると、こちらに連絡できない状況にあるのか。まさか、枝としてこちらに連絡しているのがバレたのか。……そうだとしたら、ここに自分がいることもバレてしまっているかもしれない。黒いバンを停めて車内で待機するのも迂闊かと思ってここで待機していたが、枝の正体が向こうにバレる可能性を考慮するべきだったか。
ヤスカがここに来るかもしれない。いや、バレていないかもしれない。葛藤が二又の頭を支配し、自然と呼吸が荒くなる。周りをキョロキョロと見渡しても相手が銃を持っていたら意味がないことを分かっていても、視線があちらこちらに動くのを止められない。
雨が吹き付けて窓ガラスが揺れる音。自分の荒い息が部屋に反響して聞こえる音。果てには自分自身の足音。足音が自分のものだと分かっていても、落ち着くことができない。
動くしかない、と深呼吸しつつ、壁に体をピタリとくっ付けて蟹のようにせかせかと歩き始める。そうして地道に移動した二又は、ようやく部屋の出入口の横までやって来た。
そこで、ふとあることに気付いて立ち止まる。この出入口の向こう側の影に、ヤスカが潜んでいるのではないか、と。今、二又が移動していた部屋にはこの出入口以外に出入りできる場所がある。ヤスカも、迂闊に部屋に入れば迎え撃たれると思って向こうの出入口の近くで待機しているかもしれない。いや、こっちの出入口の近くにいるかもしれない。
こうなったら、まずは近い方の出入口の外を確認して、次に振り向いて遠い方の出入口から誰も来ていないことを確認して階段を駆け降りるしかないだろう。エレベーターは駄目だ。もし途中で止められたら逃げ場はない。それくらいは分かってるし、大丈夫だ。
何度も深呼吸を繰り返した二又は、意を決して近い方の出入口の外を覗き込んだ。そこには誰もいない。よし、行けそうだ。次は、遠い方の出入口を確認しよう。ところが。
遠い方の出入口からカツカツと足音が響き、ヤスカではない別の男が自動式拳銃を構えながら入って来るのが見えた。あれは、サーモンスタッフ代表の大河だ。何故奴がここに居るんだ。だが、近い方の出入口が安全だということは分かっている。奴の相手をせずに逃げれば良いだけだ。無事に逃走できる、と確信した二又は歓喜と共に振り向く。
そして、振り向いた先に構えられた銃口とヤスカの顔を見て、絶望に叩き落とされた。
「……ちくしょう」
甘かった。このビルに入ってきたのがヤスカだけだという思い込みが、破滅を招いたのは明白だった。こうすれば逃げられたなど、銃を持ってくれば良かったなどの後悔よりも先に自分の想像力のなさに怒りを覚える。そして、この状況で生き残る術は、ない。
甲高い二発の銃声が部屋に響く。続いて、人が一人倒れ込む音が聴こえた。
ヤスカと大河は、足元に転がった頭と胸を撃ち抜かれた男の死体を見ると、互いに目を合わせると無言で振り向く。大河は床に転がった薬莢をハンカチで丁寧に拾うと、ヤスカが部屋に入ってきた方の出入口の方を見る。既に、そこにはヤスカの姿はなかった。
大河が事務所に帰ると、構成員たちが何やら慌ただしい。年長の者が若い者たちを叱り飛ばしている。ヤスカはそれに関わらず、近くの壁にもたれかかって眺めているだけだった。聴けば、ヤスカと大河が隣のビルに行っている間に、三樹を逃してしまったと言う。
「間抜けか、お前たちは。一体どうしたらあいつを外に出そうって気になるんだぁ?」
「すみません。案内が必要になるから二人を追いかけるって言ってたんで、二人の助けになるならと思って……」
「そんな厳つい顔で甘いこと言うなよなぁ。……考えも甘いんだよなぁ。結局、三樹を『処分』しなくちゃならないじゃないかぁ」
「確かに、大人しくしていれば助かった命を無駄にしたようなものだな」
そう会話するヤスカと大河の中では、既に三樹を生かしておくつもりはないように見える。実際、生かしておくつもりも理由もなくなっていた。生贄を差し出したことで何とか助かった立場でありながら、助けた側を騙して逃走したのだから、擁護のしようがない。
「社長、三樹が担当していた白いバンも表には見当たりませんでした」
ビルの外に三樹がいるかもしれない、ということで探しに行った構成員の報告は、いよいよ三樹が嘘をついて逃げた、という事実を確定させる。それを聴いた大河は嘆息した。
「やれやれ、車一台損したなぁ。まぁ、あいつの臓器でも売れば新しいの買えるかなぁ」
翌日、四月二五日は昨日の長雨から一転して空に陽の光が戻ってきた。早朝の羽畑空港には既に多くの人が姿を見せているが、保安検査場前のロビーには明らかに人の塊が陣取っている。老若男女問わず、あらゆる年代、性別の集団がその塊の内訳であり、ツアーの参加者たちを率いているガイドらしき男の腕章には『祈念堂』と記されていた。
「さあ、皆さん。チケットはお持ちになられましたか。間も無く保安検査場を通過いたしますが、その前に皆様にお配りしたいものがございます。それは……こちらっ! 祈念教会よりお預かりいたしました、オキキサマ直筆の色紙が同封されたのし袋でございます」
ガイドの男がその後ろに立つスーツ姿の男たちの方をチラッと見ると、スーツ姿の男たちは台車に載せた大きな段ボールの蓋を開けた。一〇〇人ほどの集団は、一人一人段ボールの前に並んでのし袋をありがたそうに受け取って行く。
「ああ、ありがたや。ありがたや」
「オキキサマの書かれた文字、一度は拝見したいものだな……」
ガヤガヤと騒ぐ参加者たちの中からはそんな声も聴こえてきた。何人かは配られたのし袋を開けてみようかと手を伸ばすが、それを見たガイドの男は鋭くそれを制止する。
「いけません、いけませんよ。文字を見てはいけないのです。もし我々がその文字を目にすれば、オキキサマの加護は永久に失われてしまいますからね」
ガイドの忠告を聞いた途端、参加者たちは慌ててのし袋を鞄やリュックなどに入れた。最初から誰も文字を拝見しようとはしていなかった、とでも言いたげな態度だ。それを見て笑いを堪えながら、ガイドの男は配った袋に関する注意を述べる。
「只今お配りいたしましたのし袋は、このツアーの無事祈願のために用意されたものでございます。即ち、空の旅が終われば回収させていただくことになっております。必ずお返しください。もし、誰か一人でもオキキサマの加護を独り占めしようと返却を渋られる方がおりましたら、我々は二度とオキキサマの加護を得ることができなくなるでしょう」
よろしいですか、とガイドの男が念を押すと、参加者たちは一斉に、ははーっ、と合掌して頭を下げる。側から見れば、それは異常とも言える光景だった。
「ははは、笑いが止まらんわ。オキキサマの文字、だと。儂はそんなもの書いた覚えはないがのう、これも『仕事』を進めるための策の一つということかな」
保安検査場の内側にあるラウンジのマッサージルームで横になり、マッサージを受けながら『仕事』の依頼主こと、岡浜拓弘は顔を歪めて細かな皺を浮き上がらせていた。その横には高尾が控え、部屋に持ち込まれたモニターを共に眺めている。そのモニターには、今まさに保安検査場に入ろうとしているツアーの一行の姿が映し出されていた。空港の監視カメラを利用することで、ガイドと参加者とのやり取りを監視していたのだ。
「策は策でしょうが、会長が書かれたなどと偽るとはいかがなものかと。『ヤスカ』はつくづく、会長への敬意が足りないと思えますな。許し難いことです」
「高尾よ、まだ『ヤスカ』が気に入らぬのか。奴はグループの息がかかった者ではないのだぞ。儂へ敬意を表している方が不気味だとは思わぬか」
「それもそうですが……」
会長には強く言えない高尾は、これ以上の主張は立場を危うくすると察して口を閉ざした。しかし、内心での反論並びに主張は続く。あの『ヤスカ』が気に入らないのは勿論だが、会長のお嬢さん、即ち去島香縁との接触を知られるわけにはいかない。『仕事』を終えた『ヤスカ』が会長と面会した時にその話をされれば、SUPガードは大打撃を受けるのを免れることはできないだろう。それを避けるためには、やはり『仕事』を『ヤスカ』から取り上げて口を封じるしかないのだ。鬼兵に始末させなければ。
「高尾、高尾よ。聞いておるのか」
「えっ。ああ、申し訳ございません。今のお言葉聞き逃しました」
これからどうやって『ヤスカ』を追い込むか、既に巻いた種をどう育てるかなど、色々と考えていた高尾は会長の問いかけに気付いていなかった。何度も名前を呼ばれたことでようやく気付き、頭を下げて不注意を詫びる。
「しっかり聞いておけ。もう一度聞くぞ。このツアーは何日の予定だったかな」
「確か、送られてきた資料によれば一〇日間の予定ですが」
「一〇日間か、なるほど。……よし、最終日にまたここに来て『仕事』の成功を見届けてから、残りの一億を支払うとしよう」
「かしこまりました」
会長の望み通りにするのが一番だと知っている高尾は、ツアーの最終日もここに来ることになると手帳を取り出して五月四日に予定を記入する。そこには既に遊園地に行く約束が記されていたが、それは呆気なく斜線によって消されてしまった。それから目を背けるように手帳を閉じると、今度はスマートフォンが揺れだす。メッセージの着信ではない。電話がかかって来たのだ。
「電話が来たので、一旦失礼します」
会長に一礼してマッサージルームから出た高尾は、マッサージルームの出入口が並ぶ廊下でスマートフォンの画面に表示された通話のボタンを軽く押した。
「もしもし、SUPガードの高尾ですが」
「あっ、高尾様でお間違いないですか。こちらは警視庁刑事部の野口と申しますが、お時間よろしいでしょうか。実は、そちらの社員の二又さんのことなんですが……」
高尾が電話のために出て行った後、会長はまだマッサージを受けていた。ところが、突然言い争うような声が聞こえたと思えば、凄まじい勢いでマッサージルームの出入口の扉が開け放たれる。出入口から姿を現したのは、鬼のように険しい表情をした高尾だった。
「何だ、いきなり。驚かせるんじゃない」
「会長、奴を……『ヤスカ』を今回の『仕事』から外してください! そして、我々に奴を始末する許可も出してください!」
「何を言っておる。何があったというんだ」
落ち着くように会長が宥めても、高尾の怒りは鎮まりそうになかった。今にも爆発しそうな雰囲気を放ちながら、低く、抑揚のない声で高尾は怒りの原因を告げる。
「奴は……奴は、俺の部下を、二又を撃ち殺しやがった。会長、これが怒らずにいられますか。『ヤスカ』はこっちに銃を撃ちやがったんだ!」
「お前の部下が、余計なことをしたからじゃないのかい?」
「余計なことをしたのは奴の方ですぜ。……奴は、自分のホテルで会長のお嬢さんと会ってたんですからねぇ!」
怒りで我を忘れた高尾は、とうとう口を滑らせて絶対に言うまいと決めていたことまで口にしてしまう。しまった、と思った時には洗いざらい話してしまっていた。SUPガードも解体されるのか、と半ば諦めが襲って来たが、会長から怒号は飛んで来なかった。
いや、寧ろ会長は笑っている。自分の娘とヤスカがホテルで会っていたことを知り、口が裂けそうなほどの笑顔を浮かべていた。だが、手はぶるぶると震えている。隠しきれない怒りがそこからは滲み出ていた。そして、その怒りの矛先は高尾たちではない。
「……高尾よ。『仕事』はお前たちに引き継がせる。大河は生かしておいて構わないが、あの若造は見つけ次第、始末してしまえ。誰の娘に手出したか骨の髄まで教えたれや」
「承りました。飢えた兵隊どもを巣穴から呼び出しても宜しいのですね?」
「あとな、折角兵隊動かすなら他の邪魔な連中も始末しておけ。何人か心当たりがある」
何人かにとっての一方的な死刑宣告を口にすると、会長は手招きして高尾を近くに呼びつけた。会長の言葉に耳を傾けた高尾には、聞いたことのある人名とそうでもない人名が聞こえて来た。それと同時に高尾は察する。会長は本気なのだ、と。
空港からSUPガードの本社に戻った高尾は、まず自身が率いる警備隊の面々に二又が死亡したことを告げた。次に、会長から伝えられた標的のリストを印刷して全員に配る。
「いいか、『ヤスカ』については鬼兵に任せてある。だから、俺たちは安心してこいつらを始末すればいいんだ。分かったな?」
警備隊の皮を被った兵隊たちが頷く。漸く動き出す時が来た、と高尾はほくそ笑んだ。
SUPガードが保有する兵隊とは、企業が抱える私兵であり、銃火器さえ保有している存在してはいけない部隊のことである。通常時は警備隊として拳銃を装備している彼らは今回、完全武装を解禁されて行動を開始したのだった。鋭利な牙を持つ猟犬が動き出す。
四月二六日、午後九時三〇分前後。真奏新聞社で勤務する記者、六分理の射殺死体が自宅付近のコンビニの駐車場で発見された。翌日には、同新聞社付近の路上でも編集長と課長の射殺死体が発見されている。二又の射殺死体が発見された二五日から連続して死体が発見されたことで、連続射殺事件として広く報道されることになる。
当然、これらを見過ごす警察ではない。二八日には、真奏新聞社付近の路上には刑事部の捜査員たちが臨場した。四車線のアスファルトで舗装された道路に面する通りに立つガラス張りの高層ビルが真奏新聞社の本社だった。正面玄関から少し離れた路上には白いチョークで人の形が記されている場所が二つ。それぞれに、射殺された編集長と課長が倒れていたのだ。現場は既に封鎖されており、捜査関係者以外が立ち入ることはできない。その捜査関係者というのは刑事部の面々であり、知らない顔はいないはずだった。だが、その中に見慣れない顔が二人ほどいる。野口という捜査員のうちの一人はその二人を厄介な記者かな、と思い近付くと、意外にも一人は知った顔だった。
「あれ、武藤じゃないか。隣は君の部下か?」
「おう、久しぶりだな。こいつは百比良だ」
「確かに久しぶりだが……お前たち、公安部だろう。ここに何の用だい?」
野口が率直に問うと、武藤は辺りを見渡し、野口の腕を掴んで近くの木陰まで引っ張って行く。どうやら白昼堂々とできる話ではないらしかった。高いビルに覆われて一面が陰の中に入っている現場にいるのにも関わらず、わざわざ木陰を選ぶあたりが声を大にしては言えない話をしようとしていることを示している。
「お前も知ってるだろう? 俺たち公安部の外事第四課が、独断で動いて羽畑で検問を敷いて上から大目玉を食らったのは」
「ああ。確かヤスカとかいう危険人物の入国を阻止しようとしたんだろう? しかし、それが今お前たちがここにいるのと何と関係が……おい、まさかそうなのか」
「そうだ。そうなんだよ。俺たちはこの連続射殺事件の犯人が、あのヤスカじゃないかと疑っててな。奴は金さえ貰えば自分を助けた看護師まで殺すような男だからな、今回のこの射殺事件に関わってない方がおかしいくらいだろう」
「それを野口さんに伝えたい、とタケさんが言われたのでここに来たんですよ」
武藤と百比良から提供された情報は確かに、事件解決の糸口であるようにも思える。
「……だが、必ずしもこれをヤスカの仕業だとは言えないだろう。勿論疑わしいことは疑わしいが、ヤスカが何故真奏新聞社の関係者を三人も撃ち殺す必要があるんだ? それに最初に見つかった男はあのSUPガードの構成員だったよな。寧ろ、SUPガードと真奏新聞社の抗争と考えた方が筋は通るんじゃないか?」
「抗争、ですか?」
野口が語る言葉の意味をあまり理解できていない百比良は、抗争という馴染みのない言葉をそのまま口にして問い返す。武藤はそれを黙ったまま聴いていた。
「そう、抗争だよ。SUPガードが加盟しているSUPグループの企業体質が岡浜一族による独占体制で、政界と繋がって私兵創設や武装を咎められていない現状は知ってるだろう? 二六日に見つかった記者は、二四日の朝刊の社説でSUPグループを批判しているんだ。それを後押ししたのが二七日に見つかった編集長や課長だとしたら、説明が付くとは思わないかい?」
「確か、その社説ではグループが関わりを持つ祈念堂の収益の問題にも触れていたな」
「ああ。所得税を回避するために祈念堂が信者から集めた金を海外にでも動かすんじゃないか、とも書かれていたよ。それがグループの逆鱗に触れて始末されたのかもしれない」
そこまで語り合うと、思った以上に射殺事件の裏が複雑に見えて来たため、三人は木陰で俯いて黙り込んでしまう。SUPグループには警視庁でも迂闊には手を出せないのだ。圧力をかけられて操作が打ち切られるか、最悪の場合職を失うことになるかもしれない。
「……海外に金を動かすなんて、そう簡単にできるものなんですかね。SUPグループでも流石に税金は納めなきゃ不味いでしょうし、そんな大胆なことをできるやつがいるとも思えませんが」
「そうだな、ヤスカでもなければ……」
百比良の何気ない呟きに応じてヤスカの名前を出した武藤は、思わず百比良と顔を見合わせる。今、武藤は何と言ったか。ヤスカでもなければ、だと。それはつまり、ヤスカならば可能にしてしまうということではないか。そう考えると、まさか。
「タケさん、SUPグループが繋がってたとしたら……」
「そうだとしたら、奴が言っていた『仕事』の内容も掴めてくるぞ」
ヤスカを見送ることしかできなかった二人が、その内心で保ち続けた闘志は遂に身を結ぶかに見えた。空港でヤスカを見つけた時のように、武藤は笑い始めた。自分自身では止められない笑いを止めるつもりもない武藤を見ていると、百比良も少し安心を覚える。
これでこそタケさんだ、と。ヤスカと対峙して見送ることかできなかった時から少し落ち込んでいたが、やはりこうでなくては。本来、その闘志はヤスカにも届き得るのだ。
SUPグループとヤスカの関係を探ろう、と方針を決めると武藤は木陰から出て行く。
「よし、これからはお前の好きにはさせないぞ……」
ところが、木陰から出て口を開いた途端、歩き出した体が不自然に揺れた。
次の瞬間には、ヤ、ス、カ……という声をほんの少しだけ響かせて武藤がバタリと地面に倒れた。急病か、と焦った百比良は木陰から飛び出して武藤へと駆け寄ろうとしたが、それを肩を掴んで野口が引き止める。百比良を決して木陰の外に出そうとはしなかった。
「離してくださいっ。タケさんが倒れたんですよ? 救急車を呼んでください!」
「……遅いよ。よく見るんだ。もう、死んでる」
ハッとしてもう一度倒れた武藤の方を見てみると、頭から血を流しているのが分かる。しかも、頭をぶつけて血を流しているのではない。額に赤黒い穴が開いていて、そこから血が流れ出てきているではないか。頭を撃たれたのだ。それも遠距離からだ。
「全員、物陰に隠れろ! 狙撃だ!」
野口が声を張り上げて叫び、現場は一気に混乱に包まれる。二人の射殺死体が見つかった場所で、また一人撃たれたのだ。捜査員のみならず、その周辺を囲んでいた野次馬やマスコミも蜘蛛の子を散らすようにばらばらに逃げ惑って行く。その場で静かのは、頭を撃たれて倒れたまま動かない、武藤だけだった。
野口と百比良は木陰から動かず、一番近くで武藤を見つめる。とは言っても、野口は今にも武藤の方へと駆け出そうとする百比良を羽交い締めするのに精一杯だった。押さえておかないと、百比良は危険も顧みずに武藤へと駆け寄ろうとするからだ。
「こんなの嘘だ! タケさん、タケさん! 返事をしてくださいよ!」
「危ないから、木陰から出ようとするんじゃないっ。……死んだんだよ、もう」
「ちくしょう、よくもタケさんを。ヤスカめ、ヤスカめ!」
身動きが取れず、ジタバタと暴れる百比良にとっては、既に武藤を撃った犯人も、真奏新聞社の関係者を次々に射殺した犯人も、全てはヤスカに違いないと思い込んでしまっていた。無意識のうちにヤスカに対して抱いていた憎悪が、掛け替えのない上司を奪われたことで射殺事件と結びついてしまったのだ。ヤスカめ、という百比良の叫びはそうして現場に響き続ける。ヤスカに対する闘志を憎悪と復讐の炎に包み、醜く歪ませながら。
武藤の殉職により、刑事部と公安部は共同でヤスカを追うことになった。武藤の同期でもあった野口の尽力が成し得た共同戦線である。勿論、百比良も参加することに決めた。自分の手でヤスカを捕まえて死刑台に送ってやろう、と意気込んでの参加だったが、参加早々に思わぬ形でその野望は裏切られてしまう。それは一本の電話によるものだった。
『もしもし。サーモンスタッフの大河という者ですがね。ヤスカの居所をお教えしましょうかなぁ。いえ、嘘じゃございませんよ。嘘だと言われるなら来てみてくださいねぇー』
ということで、教えられた通りに港に並ぶ倉庫のうちの一つに行ってみると、本当にヤスカはそこにいた。銃火器は携帯していなかったが、今は連続射殺事件の捜査中ということもあり、百比良は問答無用でヤスカを連行して警視庁に凱旋する。
そこからは、ヤスカに対しての取調が始まった。小さな窓から僅かに光が差し込むだけの狭くて薄暗い部屋の中にヤスカが座り、その真向かいに百比良と野口が座っている。取調室のドアに取り付けられた窓ガラスには公安部と刑事部の捜査員が入り乱れて詰め掛けていた。廊下は人で埋め尽くされ、その喧騒は取調室の中にまで聞こえるほどだった。
「喧しい連中だ。いくら今回の客人が珍しいとはいえ、集まりすぎだろう」
「君のために皆集まってくれたんだよ、安華くん。是非ゆっくりして行ってくれたまえ」
百比良は貼り付けた笑みを浮かべて暗に、そう簡単には帰してやらないぞと圧力をかける。下手に隠し事をしないで洗いざらい話した方が身のためだ、とも告げていた。
だが、ヤスカは倉庫で捜査員たちに囲まれてからここに来てまで、一切表情を変えていなかった。それが益々百比良の内心の炎を燃え上がらせる。タケさんを撃ち殺しておきながら、よくもそんな態度を取れたものだ。必ず罪を認めさせてやる。
「百比良とか言ったな。このヤスカを『安華くん』と呼ぶのはあの武藤とかいうお前の上司だったはずだが、いつからそんなに偉くなったんだ?」
「この野郎! タケさんを撃ち殺しておいてよくもそんな台詞が吐けるな!」
挑発的な言葉に冷静を失った百比良は身を乗り出してヤスカに掴み掛かろうとするが、またしても野口によって羽交い締めにされて身動きが取れなくなる。ジタバタと暴れる百比良を前にして、ヤスカは緩んだネクタイを締め直す余裕さえ見せた。その行動が百比良の憎悪を増幅させ、取調室に怒号が響き渡る。
「お前みたいな奴がいるから、タケさんは死んだんだ。お前みたいな使い捨ての安い駒に殺されて良い人なんかいないんだよ。タケさんが何をしたって言うんだ! タケさんの命はお前みたいに安くないんだ。金で表しきれないくらいにはな!」
「落ち着け、百。ここで逆上してヤスカに危害を加えれば、不利益を被るのはお前だ!」
百比良の制御に苦戦する野口を見ていると、ヤスカは武藤の上司としての優秀さに改めて気付かされる。あのような狂犬を飼い慣らし、一定の社交性を植え付けていた手腕は他でも活かせただろうに、撃ち殺されてしまったとは。惜しい人を亡くしたものだ。
意外にもヤスカは今は亡き武藤に対して高い評価を与えていた。その一方で、今目の前で敵意を剥き出しにしてこちらを睨んでいる百比良に対しては、冷たい目を向ける。
「それで? このヤスカは何を話せば帰れるのかな」
百比良には話が通じないだろう、と見限ったヤスカは狂犬の手綱を握りかねている野口に質問する。百比良を羽交い締めにしたまま、野口はこう告げた。
「武藤はSUPグループがお前に何か『仕事』を依頼した、と考えていた。俺はお前が連続射殺事件の犯人だとはあまり考えていない。寧ろ、SUPガードの仕業だろうと思っている。だが、全ては仮定に過ぎない。だから、言える範囲で構わないから知っていることを教えてくれないか」
「何を言ってるんです、野口さんっ。こいつはタケさんの仇ですよ」
「ええい、暴れるな。お前は少し頭を冷やしてこい!」
手に負えなくなった野口は、遂に荒療治として取調室から百比良を追い出す。やっと取調室に似合う静寂が取り戻されると、野口はヤスカの対面に静かに座った。そこでヤスカは自分がここまで連れて来られた理由を察する。大河がこのヤスカの居場所を警察に知らせたと聞いた時はサーモンスタッフまで裏切ったのかと思ったが、そうでもないらしい。
よくよく考えてみれば、こうして取調室にいることでSUPガードの兵隊の襲撃から身を守っているとも考えられる。サーモンスタッフと警察が繋がっているという可能性をもう少し考慮するべきだった。実際、この取調室には調書を取る係も配置されていないのだから。こうした密会の場所としてはこれ以上ないほどなのだ。
いつの間にか窓の外の人集りも消え去り、静かな部屋の中で野口とヤスカは向き合う。サーモンスタッフの構成員がするようなお辞儀の仕方で頭を下げた野口は一瞬微笑むが、すぐに仕事の顔付きに戻って口を開いた。
「大河さんがお世話になっているようで。私がサーモンスタッフと警視庁を繋ぐ『橋』を任されている野口です。大河さんからの伝言をお伝えしますが、よろしいですか」
流石派遣屋。SUPグループの下請けにしておくには惜しい男だ。そう小さく呟くと、ヤスカはニヤリと笑ってみせた。野口はそれを肯定と受け取り、再び頭を下げる。
「よし、聴かせてもらおうか……どちらにせよ、好ましくはないと思うがね」
ヤスカが取調室で野口から話を聴いている頃、SUPガードの本社の地下にある駐車場に一台の白いバンが入って行く。その運転席に座っているのは、サーモンスタッフの事務所から逃走していた三樹だった。ネットカフェやカプセルホテルを転々としながらSUPガードに対して、売った情報の報酬を振り込むようにメッセージを送っていたのだが、つい先ほど、やっとメッセージが返ってきたのだ。これで当分の生活費にも困らないし、隣国に逃げるための旅費も何とかなりそうだ、と三樹はすっかり安心していた。
地下の駐車場に入り、柱や壁にぶつけないように慎重にバンを停める。それまで流していた音楽を止めて降りようとすると、いつの間にか周りをSUPガードの警備員たちが囲んでいるのに気が付いた。いや、警備員にしては随分な重装備だ。おまけにM4カービンまで抱えている。只事ではないことはすぐに分かった。車の外にでない方がいいかもしれない。そう考えた三樹がフロントガラス越しに駐車場に現れた集団の様子を観察していると、今度は運転席側のドアのガラスが叩かれる。誰かと思って見るとそれは高尾だった。
慌ててドアを開けて車の外に出た三樹は、高尾に頭を下げる。
「お、お疲れ様ですっ。報酬を受け取りに来たんですが、何かあったんですかっ」
三樹の問いかけに対して高尾は無表情を貫く。何が起きているのか理解が追いつかないまま狼狽えていると、窓ガラスにヒビが入る鈍い音が響いた。何と、それは銃声だった。
「……えっ?」
三樹がここまで乗ってきた白いバンの運転席のガラスに穴が空き、その周りに細かい亀裂が縦横無尽に駆け巡っている。自分のすぐ近くを銃弾が掠めたのだ、と気付いた途端、三樹はその場に頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
「何で、何で撃つんですかっ。危ないじゃないですかっ」
「何で撃つんですか、だと? お前が『ヤスカ』に二又が尾行していたのを教えた結果、どうなったのか忘れたわけじゃないだろうな。そのくせ一丁前に金を寄越せと言いやがるから、冥土の駄賃に鉛玉でもくれてやろうかと思ったんだがな。どうやらこれでも足りないらしい。全く、お前は何て強欲なやつなんだ。……なら、好きなだけくれてやるぜ」
さっさと車に乗れ、乗らんと撃つぞと脅された三樹は銃火器に囲まれながら白いバンの運転席に座る。俺はどうなるんだ、と思いながら恐る恐る辺りを見渡した、次の瞬間。
音が爆ぜた。
四方八方から銃弾の嵐が白いバンに襲いかかる。車体に銃弾が当たる甲高い音が響き、三樹の叫び声と合わさって奇妙なハーモニーを奏でた。やがて、甲高い音が止んで車体を貫通した銃弾が車内の機器や座席を抉る鈍い音に変わる。もう、三樹の声は聞こえなかった。厳密に言えば、三樹と呼べる肉の塊は既に崩壊しているかもしれなかった。
それでも、銃撃は止まない。地下駐車場が薄灰色の煙に包まれても尚、銃声は止まらなかった。やがて鈍い音は銃弾がエンジンに到達して甲高い音に戻って行き、最後に、かつて車だった鉄と肉の塊を炎が包む。炎は赤黒い液体で満たされた池の上に、一輪の花のように咲いていた。池の水がガソリンなのか、誰かの血なのかは最早誰も気にしなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます