幕間(二)
資料や書類が山積みになった机の上から目を背けた武藤は、机の引き出しを開けて一枚の写真を取り出す。それは、新米の国衛官の顔写真だった。軽薄な笑みを浮かべた男の顔が写っている。何度見ても、笑いながら人を殴り飛ばしそうな顔だと思う。この写真に写った男は、あの忌々しい仕事屋ではない。これは、あれともまた違う、裏の世界の住人がまだ表の世界にいた頃の姿が写った貴重なものだった。
軽薄な笑みを浮かべた男の顔写真をこうして日に何度か取り出して眺めるのが武藤の日課でもあったが、その度に呼び起こされる記憶は止めることができない。
あれは、今から二年ほど前のことだった。白昼堂々、スクランブル交差点で狙撃事件が起きたのだ。あの時、偶然現場に居合わせたため、初めて射殺された人の姿を目の当たりにした。つい先ほどまで一切よろめくこともなく、スタスタと歩いていた人が、急に支えを失ったかのようにがくり、と倒れ込むあの脱力。あるはずのない、頭上から手足を動かす糸が切れたようにも見えた。何度見ても慣れるものではないだろう。いや、慣れた時、その適応者は人が人であるために必要な何かを失ったか、或いは捨て去ったに違いない。自分には、とてもできない真似だった。警官にはそういうものに対する耐性が必要なのはある程度承知しているが、同時にそういったものに対する忌避感、または憤りなども忘れてはいけないとも思っている。忌避感や憤りを忘れた時、それは過剰かつ理不尽で許し難い暴力への容認に繋がりかねないからだ。この国では珍しくも治安維持などのための暴力を認められている警官が、対峙するべき暴力に取り込まれてはいけない。
狙撃事件の犯人と思わしき人物まで辿り着いた時には、そういった信念のようなものが原動力になっていた。だが、その原動力は予想外の方向から妨害を受けて犯人は捕まることもなく、裏の世界へと歩みを進めて今に至る。国衛隊の訓練教官を狙撃した、写真に写る新米の国衛官は、今はオーガニックソルジャー、即ち鬼兵と名乗って活動している狙撃屋として知られている。鬼兵が今も活動しているというのに、自分たちが動けないのは上の意向だからだ。現場から遠く離れた上が、原動力を押さえ付けてしまったのだ。
結局、裏の世界についての情報を得ていても動かず、寧ろ利用しようとするのがこの組織の方針だった。上の意向がそうであるならば、それに逆らうべきではないと大多数は言うだろう。それに従う気はあまりないのだが。一人の男としても従っていられない。
一人の人間としても、同じことだ。今も尚野放しになっている鬼兵や、先日この国に姿を現したあの仕事屋も、皆等しく排除するべき暴力の化身なのだから。連中は裏の世界から表の世界に危害を加える害悪そのものでもある。どのような信念や覚悟を持っているかは問題ではない。その存在が罪なき人々に害を与えるのであれば、その存在を許すわけにはいかない。あの仕事屋が来るまで、裏の世界に生きる者たちへの怒りは確かに自分を、上に潰された原動力の代わりに突き動かしていた。それは間違いのないことだ。
ところが、あの仕事屋はその怒りをあっさりと揺さぶってきた。罪なき人々が平和に暮らすための社会にとっては必要のない屑として切り捨てていたはずのあの仕事屋が自身の生き方について触れた時に感じた違和感は、忘れようと思ってもできない、嫌な後味を残していたのだ。まるで、そうして生きていく他に生き方を知らないかのような、自分の命を安いとまで言い切るあの態度。敵意が次第に困惑へ、更には恐怖へと変わっていくあの感覚は二度とは味わいたくない。あの仕事屋のことを考える度に思い起こされるそれは、鬼兵の顔写真を見る度に呼び起こされる記憶と同じくらいに厄介なものだった。
今では、あの仕事屋に対する恐怖から逃れるために鬼兵の顔写真を取り出して眺めているのかもしれなかった。それでも、あの仕事屋に対する恐怖が消え去ることはないのだけれども。そして、その恐怖は答えが明かされないであろう疑問でもある。
その疑問とは、ある意味では単純なものだった。
一体何が、あの仕事屋にあのような生き方を選ばせたのか。或いは、そうするしかなかったのか。その生き方の先に何があるのか。表の世界で正常であろうとする、武藤にはその答えが明かされないのは無理もないことだった。
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