第二幕 祈りの対価

 港の近くには、埋め立てられたゴミの上に作られた緑の島がある。海の上に浮かんでいる公園は、この緑の島そのものだった。平日の水曜日にあたるこの日、四月二三日では市街地から離れた孤島でもある公園に、人影は少なかった。ちらほらとジョギングやウォーキングに勤しむご年配の方々が数名現れては去っていく。SUPパーク海の杜はそういう場所なのだ。穏やかな海風に晒されて錆び、コの字の形をした膝丈くらいの燻んだ紅白に彩られた柵の横を通り過ぎたヤスカは、緑の森の横に広がる浅黒い海を眺めていた。

 公園の中に張り巡らされた散策路をヤスカは歩いているが、ただ単に散歩をしに来たというわけではない。寧ろ、こういったあからさまに整備された道を歩くのは、歩かされているのと変わらない気がする。さぁどうぞご利用ください、と提供された綺麗な路をこうして歩くことにどうしても躊躇いを覚えてしまう。散策路の周りには青々とした芝生が広がり、その向こうには鬱蒼と茂る樹々さえ見えているというのに、今、近くには錆びた柵が定期的に置かれているだけだった。この散策路に足を踏み入れた以上、この路から外れることに妙な葛藤が生まれてしまう。だからこそ、いつの間にか意に反して歩かされている気分になるのだ。ヤスカ自身が、だ。そして、いつまでもこの路を進んでいてもこれから行こうとしている場所に辿り着くわけでもない。辿り着くためには路から外れることについての葛藤を乗り越えなければならなかった。それもヤスカをやや憂鬱にさせる。『仕事』のためだと言い聞かせなければ、ずっとこの路を進み続けるかもしれないからだ。路へのこの奇妙な執着は厄介ですらあった。そんな葛藤を抱えつつもヤスカは歩き続ける。

「あの方、若いのにウォーキングなんて感心ねぇ……」

「でも、平日の真っ昼間からここにいるなんて、『仕事』はお休みなのかしら」

「あら、詮索しちゃ可哀想よ。無職かもしれないじゃないの。あらやだ聴こえたかしら」

 ホホホ、とヤスカとすれ違ったジャージに身を包み、帽子を被った婦人の一団の声が聴こえてまた遠ざかって行く。彼女らは歩かされている人たちだろうか。歩いているつもりではあるだろうが、決して散策路の外に出ようとせずに延々と歩き続けるその姿は滑稽ですらあった。それでも、笑う気分でもないため口角が上がることもない。緩い風に頬を撫でられるような、気味の悪ささえ感じてしまう。『仕事』のためでなければ誰がこんなところに来るものか、とヤスカは早くこの路から離れたい一心でスタスタと歩き続けた。

 数分歩くと、次第に散策路は公園の中へと入り込んで行く。見渡す限り、周りには芝生しか見えない。それでも、散策路を歩いていては一生辿り着けない芝生の向こう側に、背の高い樹々で埋め尽くされた小さな杜が見えてきた。なるほど、あの人を寄せ付けまいと散策路から離れた場所にあるあの杜が目的地らしい。ヤスカは四月だというのに容赦なく照り付ける陽の光を頭上に掲げた手で遮りながら、ようやく芝生へと進路を転換した。散策路を利用する他の客が周りにいないかを確認してから、立ち入り禁止の場所に侵入するかのように。そう思えたのは、きっと散策路を少しの間歩き続けたからに違いなかった。

 前後左右の標識も何もない芝生の上を縦断、或いは横断すると、例の人気のない杜の入口とでもいうべき場所に辿り着く。二本の松の木の間には丁度枯葉が敷き詰められた道が奥まで広がっていて、静かな風の音が通り過ぎては消えていくことを繰り返している。樹木の上半分とでも言うべき、緑の葉が生い茂っている部分の煌めきは、ほんの少ししか杜の中には届いていなかった。大半は、影に染まった幹と時折地面に露出した根っこで占められている。暗いところではあったけれども、陽の光を遮るものがない散策路よりは、ヤスカにとっては居心地が良い。不思議なことに、スーツを着て革靴を履いているのに杜の中の方が歩き易かった。散策路の方が整地されているのにも関わらず、だった。

 薄暗い杜の道を進むと、やがてヤスカはぽっかりと開けた場所、即ちギャップに辿り着く。しかも、そこはただのギャップではない。目の前に広がる光景を見ると、思わず苦笑して呟く口を止められなかった。

「……こんなところに作ったところで、客入りも望めないだろうに」

 ヤスカの前には、ドーム状の屋根を持つ建物が堂々と鎮座している。恐らくこれは、プラネタリウムだろう。そうだとすれば、益々奇妙な話だった。散策路からも離れた、人を寄せ付けない場所に客を入れて星空を映す施設が建っているのだから。しかも、散策路の側に度々置かれていたマップにも、この施設の存在は記されていない。そんな非合理と不審の塊こそが、ヤスカにとっての目的地だった。否が応でもこの建物の中に入って行かなければならない。散策路は既に遠く、そこから離れた杜の中の更に奥にあるプラネタリウムまでやって来た以上、引き返す理由もなかった。『仕事』のためなのだから、そもそも帰るわけにもいかない。それは、ヤスカも認めた現実なのだから。

 鬼も蛇も出るだろう。逆に出ない方が却って気味が悪い。今度は口を動かさずにそう呟いてプラネタリウムの玄関の前に立つ。恐らく一般利用を想定していないのであろうこの施設の玄関口は、ガラスの扉で閉じられている。そのガラスの扉も施設の内側から木の板が雑に打ち付けられていて、内部の様子は全く見えない。見させないという強情さえ感じさせる措置が、稀な来訪者を拒絶していた。それで立ち止まるヤスカではないけれども。

 見かけでは重苦しそうに固く閉じられていた扉は、実際に押してみるとひどく軽いものだった。ガラスと木の板でできている扉がそれほど重いはずもないのは分かっていたが、それでも実際に触れてその軽さを確かめると驚きを感じてしまう。そのお陰で扉を開けて中に入っても、視線は中の様子よりも役目を終えた扉から、なかなか移せなかった。

 だが、ここに時間を割くわけにはいかない。ヤスカはキイキイと風に揺れる扉から離れると、足早にプラネタリウムの中へと進んで行く。無人の窓口や塗装が剥げて色褪せた壁面、そこに貼り付けられていたであろう朽ちたポスターなどの横を通り過ぎ、照明も何もない闇に沈んだ通路の先に辿り着く。過去となった通路には、まだヤスカが履いた革靴が床を鳴らしたことで生まれた足音が反響している。その制御できない秩序を含んだ音も、ドームの内部に通じる分厚い扉の中に入れば分断された空気の向こうへと溶けていった。

 ドームの扉を開いたヤスカは周囲を見渡し、誰もいないことを確認すると扉の近くの壁にもたれかかる。円形のドームを囲む座席に躊躇なく座るほど、ヤスカは油断していなかった。迂闊に座席に座れば、どこからでも狙われるだろう。扉の前に立っていれば、扉ごと吹き飛ばされるかもしれない。『仕事』の話をする前から襲撃されるとは思いたくはないが、用心をしないよりは備えた方が賢明だろう。薄暗い影に包まれた壁に身を預けながら、ヤスカは右腕に着けた腕時計を見る。銀色の短針は時計の頂点から左に六〇度ずれた場所を差し、長身は時計の頂点を丁度示していた。約束の時間だ。ヤスカは顔を上げる。

 面会場所に約束の時間が訪れるのと同時に、プラネタリウムそのものとも言えるドームの天井にパッと一筋の光が灯った。明確に線として視認できるそれはぐるぐるとドームの中を回り、やがてある場所を照らすためにピタッと停止する。光はヤスカに降り注いでいた。闇に慣れた目には毒にも等しい輝きに目を細め、手を頭の上に掲げて目元に影を作り出す。それでも眩さに抗うことはできず、視界は眩んでぼやけてしまった。

「時間通りだな。お前が『ヤスカ』で間違いないのか?」

 ようやく光に慣れると、壁にもたれかかったヤスカの周りには黒いスーツを着込んだ屈強な男たちが姿を現していた。その男たちを率いているであろう声の主は一際筋骨隆々とした大男で、岩のような拳がスーツの袖の先から飛び出しているのが見える。その過剰なまでの無骨さは、当然ヤスカに好ましくない印象を与えるものだった。緊張とも言える。

「今日ここに、このヤスカ以外に来客があるとでも言うのか?」

「それもそうだな。ようこそ、『ヤスカ』。よく来てくれた」

「お前たちは依頼主ではないことはわかっている。依頼主の護衛ということは、SUPガードの者たちか」

「ご明察の通りだ。それはそうと、あのお方に会う前に身体検査を受けてもらうぞ」

 暗殺でもされたら我々の命もないからな、と言うと大男は部下に指示して身体検査を行わせる。ゴツゴツとした男たちの手がスーツの上からヤスカの腕や脇腹、脚に触れる。心地が良いわけがなかった。空の旅を利用してこの国に降り立った男が自ら調達しに行かない限り、銃器の類を持ち込むことなどできるものか。勿論その類のものを携帯していなかったヤスカが、身体検査で依頼主との面会を止められるはずはなかった。

「タカさん、ハジキは出て来ませんぜ。大したやつですよ」

「まあ、持って来ていたとしてもあのお方と顔を合わせる間は預かるだけだがな」

 問題はあるまい、と大男が頷いたことで身体検査は終了する。ヤスカと顔を合わせないように努めていた男たちは静かに離れて行く。それを見ていた大男は、ヤスカがジャケットを着直したのを確認すると、ドームの中心に向かう階段を降り始めた。周りの男たちもそれに従い、一番後ろにヤスカも続く。やや弱まった光に照らされた空間から離れて行く人の列は、まだ闇に沈んだ空間の底に堕ちていくようにも見える。戻るべき場所に戻っているような自然な行動でもあった。列を成すのが、暗い世界の住人たちだからだろう。

 ドームの中心は柵で覆われているが、それも所々は壊れていた。柵の向こうは地下へと続く空洞になっていて、ヘラ家のものとはまるで違う薄暗い螺旋階段が続いている。女神像もなければ、照明の類もない。木材に埋め込まれた巨大な螺子を抜き取った後のような階段を降りた先には、地下の小部屋に通じる扉が待ち構えていた。

「ここから先は俺と『ヤスカ』だけだ。お前たちはここで待機していろ」

 へい、と大男の部下たちが一斉に頭を下げる。大男は岩のような手で簡素な扉の小さなドアノブを静かに回し、遂に地下に隠された小部屋の内部がヤスカの目に飛び込んだ。

 その小部屋は、どうやらかつてはプラネタリウムの資料室であったように見える。壁を埃を被った分厚い冊子を納めた本棚が埋め尽くし、古くなった匂いがマスクを通して鼻に入り込んだ。螺旋階段に負けず劣らず薄暗く、狭いこの部屋の中央には色褪せたソファが置かれている。そのソファには、灰色のマオカラースーツに黒い革靴を合わせた老人が座っており、その隣には三〇歳くらいの男が立っていた。恐らくは、このソファに座る老人こそが『仕事』の依頼主だろう。その老人の鋭い眼光は部屋に入って来た二人のうち、正確にヤスカだけを射抜いている。只者でないことは一目で分かった。先に入室した大男が一礼したことも、ヤスカの確信を支えていた。

「会長、『ヤスカ』を連れて参りました。この男が『ヤスカ』です」

「高尾よ、ご苦労だったな……随分と若いじゃないか、こいつは驚いた」

 ソファに座る老人の元に近寄り、耳元に顔を近付けた大男の言葉を聴いた老人は、表情を変えることなく労いの言葉を口にする。落ち着いた声色に抑揚はなく、機械的だった。

 狭い室内に向かい合って置かれたソファの片方に座った老人は、空席の方に手を差し出して来客に座るように勧め、ようやくヤスカは散策路から続いていた歩行を中断する機会を得る。そうして老人の真正面に座り、再び顔を合わせるといよいよ、緑の島の地下での密談は始まろうとしていた。高尾と呼ばれた例の大男がヤスカの背後から老人の隣へと移動し、三〇歳くらいの男と共に両脇を固める。三美神の対極に位置しているような三人組を目の前にすると少し笑えてくるものだが、それを堪えて沈黙を続けるのには少し労力を要した。もっとも、そういった喜怒哀楽は面に出にくいのだけれども。

 ヤスカがソファに座ると、ますます緊張感を漂わせる沈黙が地下の小部屋を包む。誰も動こうとしない重苦しさを跳ね除けるかのように、高尾が一礼して口火を切った。

「さて、『ヤスカ』。まずは改めて紹介しよう。こちらのお方はSUPグループ会長の岡浜拓弘様だ。仕事屋としてお前に依頼なさった張本人であらせられる」

「その左は?」

「我らがSUPグループの系列ではないが、株式を保有している人材派遣会社、サーモンスタッフの大河という男だ。君に依頼する今回の仕事のサポート役として、大いに活用してくれて構わない。……それでは会長、この者に何かお伝えすることはございますか」

 うむ、と頷くとこの国でも一、二を争う企業グループの頂点に立つ老人はのけ反った姿勢から急激に前のめりになり、ずい、とヤスカに近付く。品定めするかのような濃厚な視線がヤスカに浴びせられた。それでもヤスカは視線を逸らすことなく、細やかな皺が刻み込まれた男の顔を見つめ続ける。再び沈黙が場を支配するが、その沈黙は老人とヤスカ以外が勝手に生み出したものだった。少なくとも、顔を見合わせている二人は黙っているつもりはないのだ。目は口ほどに物を言うという言葉の通り、二人は互いの目を見ている。時には、言葉を交わすよりも多くを語ってくれるということを知った上でのことだった。

 二人の間の沈黙は、何かをヤスカから感じ取ったらしい老人の口によって破られる。

「『ヤスカ』よ。お主は神を信じておるか」

「神の存在の有無ではなく、神を信じるかどうかを問うか。依頼に何か関係があるのか」

「あると言えばあるのだよ。まぁ、依頼の話の前座に答えてくれぬか」

「……ならば答えよう。このヤスカは神を信じたことはない」

 ヤスカの答えに老人は口を歪めて笑った。その笑みが、若造の浅慮を嘲笑ったものなのか、それとも答えに満足したものなのは分からない。ともかく、老人は問いかけ続ける。

「ほう、何故かな。その訳も教えてくれぬか」

「簡単なこと。このヤスカが神の理から外れているからだ」

 今度は老人は笑わなかった。固く口を閉じてヤスカの発した言葉の意味を考えているようにも見える。しかし、それ以上老人は詳しく聞こうとはしなかった。それでもヤスカの何かしらは認めたようだった。そこからは『仕事』の話が冷たく始まる。

「……よかろう。お主にならばこの『仕事』を任せられそうだ。高尾よ、あれを出せ」

 老人に命じられた大男、高尾は懐から折り畳まれた紙を丁寧に取り出す。図体に似合わない繊細な動きで取り出された四つ折りの紙はヤスカの手元に届き、開いてみるとそれは一枚の小さなチラシであることが分かった。それを見たヤスカは小さく呟く。

「株式会社、祈念堂……?」

「そう、今回の依頼は簡単に言えば、この祈念堂の収益を海外に輸送するというものだ」

「所得税を払わずに済ませたいということか」

「部分的にはそうなる。だが、この収益はそもそも存在してはならないものなのだよ」

 それはつまりこういうことだ、と老人は語り出す。その話は地下の薄暗い小部屋でするには丁度良い内容ではあったが、話のスケールは小部屋では収まらないものだった。

「サーモンスタッフと同じように、この祈念堂もグループの系列ではないが株式を保有している企業の一つでな。主にカウンセリングのためのサロン営業を行っておる。そこにやって来た客から相談料や礼金、もしくは御神体への奉納料などを集めたのが収益となるわけだ。収益は寄付していると公表していたが、実際にはそんな事実はどこにもない」

「収益の横領を隠蔽するために海外に輸送するわけだな。具体的にはどこが望ましい?」

「無難にアメリカで良かろう。輸送方法の立案を任せたいのだが、受けてくれるかの」

 依頼は割と単純な話だった。断る理由もないため、ヤスカは首を縦に振る。まあ、これで依頼を受けるかどうかが確定したわけではないけれども。全ては条件次第なのだから。

「今回は輸送ルートを開拓することになるわけだが、まずはどれくらいの金額を輸送することになるんだ? 金額によっては使える手段も限られてくるし、上限もある」

「全国の祈念堂から集めた収益のうち、まずは一億円を輸送して欲しいと思っておる」

「……承知した。この依頼を受けよう」

 老人は色良い返事にニヤリ、と笑う。人の心理に漬け込んで得た金を懐に入れる者たちの親玉と、その部下は随分と嬉しそうだった。一方の大河は入室したときから微動だにしないのが不気味だったが、一先ず小部屋の沈黙は完全に消え去りつつある。人はこういった場合和やかな雰囲気を壊さないように努めるものだが、ヤスカはそうしなかった。あくまでも『仕事』の話をするためにやって来たのだから。依頼主の機嫌取りや、世間話に付き合うつもりも義務もなかった。『仕事』の話が決まれば、それで良いのだ。

「さて。『仕事』を受けるからには、報酬を提示させてもらおう」

「それもそうだな。さあ、仕事屋よ。一体幾らを対価に望むのかね」

「一億円を輸送するための『仕事』と考えると……二億円と言ったところか」

 ヤスカの提示した金額は小部屋に沈黙を再来させるには十分なものだった。それもそのはず、常識的に考えてみれば、一億円を輸送するための『仕事』に二億円を払えば一億円の損失である。そんな損失を被るくらいなら、他の者に依頼した方が賢明であるようにも思えるが、仕事屋としてこういった『仕事』を任せられるのは、ヤスカ以外には考え難かった。そして、それを見越しての金額の提示であるようにも見えるヤスカの態度は、依頼主の部下の反発を招く。会長の側に控えていた高尾は、提示された金額に声を荒らげた。

「会長! だから申し上げたではありませんか。このような素性も知れぬ輩に収益の輸送を任せることは危険ではありませんか、と。第一、我らがSUPガードにお任せいただければ二億円も払わずに済むのですぞ!」

「しかしな、高尾よ……」

「待て。素性も知れぬ輩とはこのヤスカのことか。このヤスカの素性をお前たちが知らないことと、『仕事』との間に何か関係があるのか」

「部外者は黙っていろ。会長がお話なされておられるであろうが!」

 ヤスカと高尾は一瞬で互いを好ましくない者として認定し、睨み合う。次第にヤスカは依頼を受けようと言ったことを後悔し始めていた。依頼主はそうとも限らないが、高尾のような話の分からない者と同じ空気は吸いたくない。SUPガードではなくサーモンスタッフが『仕事』のサポート役であることがまだ幸いだった。だが、冷えた心はそう簡単に戻るはずもなく、高尾を睨んでいたはずの視線は段々と軽蔑を含んだものへと変わって行く。依頼主の意図を汲み取れない厄介な部下に見切りをつけたヤスカは、遂にソファから立ち上がった。高尾から視線を移して依頼主の老人に目礼すると、こう言い放つ。

「報酬に納得できないのならこの話はなかったことにさせてもらおう。無論、口外しないことも約束する。……残念だが、帰らせてもらおうか」

「嘘をつくな。そんな口約束が信用できるものか。ここから生きて帰れると思うなよ」

 威嚇する高尾を無視しつつ、ヤスカは依頼主に問いかける。

「会長、貴方なら分かるはずだ。今回の報酬は、二億円でもかなりお得だということが」

「……分からんでもない。輸送ルートを開拓した者は本来、そのルートを使用する度に使用料を請求することさえできるものだ。そのルートで輸送する金額の四割は取られてもこちらは文句は言えんよ。川を渡るたびに船頭に船賃を払うのは本来、自然なことだ」

「そうだ。それを一度だけの請求、しかもこれからルートを通して輸送される金額の一割にも満たなくなるであろう二億円で良いと言っているのだよ。二億円も、ではなく二億円で済む話に噛みつく馬鹿はそう多くはないはずだが……失礼、目の前に一人いたな」

 ヤスカの発言の真意を聞いた依頼主は同意を示して深く頷き、高尾は口を閉ざして目を逸らした。依頼主はヤスカがソファに座り直すのを待って立ち上がり、高尾を引き連れて小部屋から出て行く。話が済んだ以上、これ以上同じ部屋に滞在する理由もなかった。依頼主と仕事屋は一緒にお茶をするような緩い関係ではない。互いに『仕事』なのだから。

「詳細は大河と話し合ってくれたまえ。それでは、吉報を待っているよ」

 バタン、と耳に残らない音を立てて扉が閉まる。室内にはヤスカと、それまで一言も発さずに沈黙を貫いていた、人材派遣会社サーモンスタッフの大河という男の二人が残された。静かな雰囲気が部屋を包み始めていたが、意外にもそれはすぐさま消え去ることになる。と言うのも、依頼主と高尾がいなくなった途端に大河が名刺を差し出して来たのだ。

「自己紹介が遅れましてすみませんなぁ。私、サーモンスタッフの社長をやらせてもらっております大河と申す者です。そちらが仕事屋とするならば、私は派遣屋ですなぁ。まあまあ、仕事で失敗して消されないように互いに頑張りましょう。よろしくですなぁ」

 大河はなかなかに癖の強い男だった。それでも高尾よりは話が通じそうで安心できる。自身を派遣屋と評するあたり、ヤスカと同じ世界の住人でもあるらしい。つくづく、SUPガードではなくサーモンスタッフがサポート役で助かったと思える。今回の仕事を手伝うためにやって来た助っ人に好印象を持ったヤスカは立ち上がり、握手を交わした。

「こちらこそ、よろしく。仕事屋を生業としているヤース・K・アドゥワだ」

「いやぁ、お噂はかねがね。チープブロッサム、安華と呼ばれる人とこうして『仕事』ができるとは光栄ですなぁ」

「見え透いた世辞は要らんよ。それより、今回の『仕事』についてだ。サーモンスタッフはどういうサポートができるのかを教えてくれないか」

 やれやれ堅い人だ、と呆れつつも大河はスーツのポケットから取り出したスマートフォンを素早く操作し、人名がずらりとならんだ表を画面に映して見せる。それはどうやら、サーモンスタッフに所属する人員の一覧であるらしかった。

「サーモンスタッフはただの人材派遣会社ではありませんぞ。この名簿に乗った連中には色々仕込んでますからなぁ、トラックの運転から死体の始末まで、大体何でも注文通りに応えてみせますよ」

「なかなか便利じゃないか。SUPグループの系列になっていないのが不思議なくらいだが……すまない、今のは余計だった。結局のところ、我々は駒だからな」

「ええ、『仕事』が失敗した場合に切り捨てられるように、駒は身内にしないのが安全安心ですからなぁ。……ヤスカ氏もこの宿命を直視しておられるようで安心ですわ。少しばかり、斜に構えておるのかと疑っておりましたが、どうやら勘違いでしたなぁ」

 裏の世界で自分たちの安い命を擦り減らしながら死に物狂いで生きる男たちは、少しだけ互いを好ましく思えるようになった。小さな交流ではあったが、共に『仕事』を行う上で意外と重要なことでもある。そのお陰で、すんなりと『仕事』の打ち合わせに入れるのだから。『仕事』となればやはり、和やかな雰囲気などは消え去るのだけれども。

 自己紹介を済ませて小部屋のソファに座り、向かい合う二人の男は、依頼主から要求された一億円を海外に輸送する方法について話し合う。

「もちろん、警察が金を見つければその時点で終わりでしょうなぁ。グループも自分たちのものと名乗り出るわけにもいかないでしょうから、取り返すことも難しい……そうなれば、我々の首も間違いなく飛ぶでしょうなぁ」

「輸送そのものすら悟られるわけにはいかないわけだ。グループの方でも色々と検討してこのヤスカに依頼したんだろうが、何か聞いていないか?」

「殆どこちらに丸投げですからなぁ、特には……ああ、ヤスカ氏に依頼する前にSUPガードが一億円を輸送すると立候補したこともあったとは聞いていますがね、あんな計画はとても採用できませんよ。聞いた話によれば、貨物船を貸し切ってそこに金を積むつもりだったそうですがねぇ、それだと積荷を点検されれば中身も見られるでしょうなぁ」

 そこでヤスカはSUPガードに所属する高尾と、それに従う男たちの姿を思い出す。あれでは、まぁ無理だろう。あんな屈強な男たちが貸し切った貨物船でも容赦なく積荷の検査は行われるし、第一、貨物船を運航させるには外部に委託しなければなるまい。それだけでもリスクがあるというのに、SUPグループの系列企業が堂々とそんなことをしていれば犯行を自供しているようなものだ。それを防ぐためにあの依頼主もこちらに依頼して来たのだろう。依頼主の意図を汲み取れば、こちらに任せておいて知らぬふりをしている方が遥かに楽で安全であることは分かるはずだが。あの高尾という男には、どうもそういう視点が足りないように思える。まぁ、それを指摘してやる義理はないのだけれども。

「発想は危険だが……交通機関を隠れ蓑にするという発想自体は悪くもないだろう。一億円を輸送しているとは思えないような、より自然な形が今回の『仕事』には望ましい」

「国内ならもう少し手段はありますが、目的地は海の向こう側ですからなぁ。貨物船が厳しいとなりますと、あとはあれしかないように思えますがなぁ」

「そうだな、鉄の鳥を利用する方法も検討する必要があるな」

「ええ……はい? 鉄の鳥、ああ、飛行機のことですか。やけに大きな鳥ですなぁ」

 羽畑空港に降り立った記憶を呼び覚ましながら、ヤスカは一つの道筋を見つける。それは、新たな可能性を仕事屋と派遣屋にもたらすものでもあった。ヤスカの頭の中に生まれた輸送計画は、貨物船のものとはまるで違っていた。最早輸送と言うべきか迷うほどに。

 打ち合わせを終えたヤスカと大河はプラネタリウムから散策路まで戻り、更には公園の駐車場まで戻って来ていた。煌めきを増した陽の光に晒された無言の道中の果てに辿り着いた駐車場は、一面がより眩しく輝いている。アスファルトの舗装がその一因だろう。

「折角ですから、お送りしましょうか。ホテルへでも、どこへでも構いませんよ」

「では、お言葉に甘えて。公共交通機関よりは気が楽になるし、助かるよ」

 地下室で話して以来、やっと会話した二人は並んで駐車場の中へと入って行く。広々とした駐車場には、ちらほらと数台の車が停まっていた。その中でも最も涼しそうな、木陰の近くに停められた白いバンへと大河は向かって行く。それが大河が乗って来た車らしかった。昨日の夜に見た黒塗りの送迎車とは異なり、白いバンの車体にはっきりと光は反射していなかった。昼と夜という時間の差もあるだろうが、白いバンは全体的に輝いているように見える。光の線が映ると言うよりも、全体的に照らされているようでもあった。

 車体を観察するヤスカから少し離れた大河は運転席側のドアのガラスを軽く叩き、運転手であろう人物に話しかけている。ドアガラスの向こうに大河の言葉は吸い込まれた。

「一人乗せるから、後部座席起こしてなぁ」

「分かりましたっ、失礼しますっ」

 大河の指示に従って運転席から出て来たのは、一〇代後半に見える若い男だった。白いジャージを着た若い男は一礼して素早く後部座席のドアを開けると、荷物を詰め込むために折り畳まれていた後部座席のシートを起こして行く。大河がヤスカに手招きした。

「できたようですなぁ。後部座席で申し訳ないが、お座りくださいなぁ」

 後部座席に座ると控えめな冷房の風に出迎えられる。これくらいの風量が今日の天気には丁度良かった。若い男はヤスカが座ったのを確認してドアを閉め、大河が助手席に乗ったのを確認してからドアを閉め、最後に車内に一礼してから運転席に乗り込む。慣れた動作にヤスカは勘付いた。なるほど、この若者は運転手として育てられたのだろう。

「どちらに行かれますかっ」

「少し遠いかもしれないが、秋波原に頼む」

 運転手の元気な問いかけにヤスカが応えると、車はエンジン音を響かせて駐車場から動き出した。窓の外の煌めく海が、激しい点滅を繰り返す記号的な景色と化して行く。そのまま目的地まで外を眺めていようかと思ったが、その試みは大河の声で消え去った。

「そうだ。ヤスカ氏、この三樹という若いのを『仕事』の間、そちらの運転手として貸し出しましょうか。自分だけの足がないと何かと不便ですからなぁ」

「それはありがたい申し出だが、そちらはそれで良いのか」

「三樹はまだ若いですが何かと使えますからなぁ。連絡係も兼ねてということで」

 なるほど、良い判断かもしれない。駒と駒を繋ぐ更なる駒も時には必要だろう。サーモンスタッフはなかなか使える会社かもしれない。いや、既に十分有能だった。今回の『仕事』に関しては、この会社の手を借りた方が良さそうだ。報酬として支払われる二億円は山分けにしても良いと思える程には、ヤスカに今のところ好印象を与えていた。

 ヤスカは首を縦に振ることで申し出を受け、大河は決まりだ、と小さく笑った。

「三樹、お前も今回上手くやれば大型トラック免許取りに行かせてやるから、上手くやるんだぞ。トラック運転手になれたら稼ぎも増えるからなぁ」

「本当ですか、ありがとうございますっ。ありがとうございますっ。」

 ヤスカの運転手兼、連絡係となった三樹は『仕事』の後の昇進を聞かされて何度も繰り返し、ありがとうございます、と運転しながら頭を下げ続ける。ヤスカはその姿に危ういほどの青々しさを感じずにはいられなかった。派遣屋も人が悪いことをするものだ。

 それから小一時間ほど走り続けたバンは、秋波原という電気街の駅前にあるロータリーで停止する。ヤスカと三樹、それと大河はそこで車から降りて二手に別れることにした。

「準備が整い次第、連絡します。三樹、ヤスカ氏の言うことをよく聞いてなぁ、さらば」

 大河はそう言うと、くるりと背を向けて駅の中に姿を消す。サーモンスタッフの事務所は歌舞伎の町にあると車内で話していたことを思い出した。確かに、あそこなら行き場を失った者たちも集まるし、使いやすい人材として育てるのにも向いているだろう。

 駅前に残されたヤスカは隣の三樹の方を見る。この若い男もそうした経緯でサーモンスタッフに拾われたのだろうか。少しだけ興味が湧いたが、それはこれから済ませなければならない用事を思い出すことで塗り潰された。ヤスカも、『仕事』に備えて準備しなければならないのだ。準備を怠ることが過ちに繋がるのに関して、世界の表裏は関係ない。

「ここで待っていてくれ。少し行くところがある」

「いえ、お供させていただきますっ」

「言うことを聞け、と言われていただろうが」

「それはそうですが、万が一何かあったら盾にならなければなりませんっ」

「……そうかい、勝手にしてくれ」

 跡を追おうとする三樹は引き下がる様子がなかった。諦めたヤスカはそのまま交差点へと歩き出す。縦横無尽に人が行き交う交差点の波の中で、少し離れて歩く奇妙な二人組が密かに流れて行った。黒いスーツと白いジャージの、連れとも思えない二人が。

 秋波原を埋め尽くすビル群には、最上階から地下に至るまで様々なテナントが入っている。大きいものは電気屋やホビーショップ、地下にはメイドカフェやカードショップなどが街並みを彩っていた。とある交差点に面する通りにはドラッグストアまで入っている。

 道ゆく人の中には外国人の姿も多く見受けられ、いつの間にか外国の知らない街角に立っているような錯覚にさえ、気を抜けば襲われそうになる。ドラッグストアのレジに座る寡黙な初老の店主の顔を見たことでその錯覚から抜け出したヤスカは表通りから離れてどんどん裏通りを進む。そこから、更に入り組んだ路地を曲がって行くと、人気のないシャッター通りに辿り着いた。表通りのような人混みも人影も、そこには存在しない。

 通りの出入口に建てられたアーケードを潜る前にヤスカは背後を振り向く。まだ三樹はついて来ていた。小さく嘆息したヤスカは、気乗りしないまま通告を若い尾行者に行う。

「ミツキ、とか言ったか。まだついて来ていたのか。よく迷わなかったな。だが、ここからは本当に一人で行くから、そこを動くなよ」

「それは困りますっ。ヤスカさんから離れて、もしも何かあったら大変ですからっ」

「下手に動くと帰れなくなるぞ。ここはそういう場所だ」

「……分かりましたっ。ここで待機しますっ」

 脅しが効いたのか、三樹は素直に姿勢を正して直立不動で待機の姿勢を取る。その姿勢の良さは道端の電柱のようでもあったが、懸命に動かないように努める三樹を残してアーケードを潜ったヤスカの目には別のものが映っていたため、それはただの電柱以下のアーケードの外に置かれた置物でしかなかった。つまり、眼中にはないということだ。

 ヤスカの目には色褪せた通りが映っている。左右に等間隔で配置されたシャッターはどれも薄黄色に染まっており、店の中の様子を知ることはできない。人の気配が消えた街とはこうも寂しさを伝えてくるものなのか。シャッターの上に取り付けられた色とりどりであったであろう看板、灯りが点かなくなってから久しい電飾のスタンドなど、目に映る全てがモノクロの写真の中から出て来たようにさえ思えた。いや、自分がモノクロの写真の中に入り込んでしまったと考えた方がまだ納得できる気がする。そう考える方が自然だ。

 だが、そんな色褪せた景色の中に微かな光が見えて来た。シャッター通りの奥へと進んだヤスカの右には、昭和に取り残されたかのような、昔ながらの電気屋、それも個人経営の店がまだ開いている。色彩が崩壊した通りの中でここだけが、過去の光景をそのまま残していた。それは驚きと同時に不審を与える柔らかな輝きを放っていた。

 黄色の看板に発色の良い赤文字でキンドアと記されたこの店こそが、ヤスカが秋波原を訪れた目的の場所だった。他の店のようなシャッターは降りていないが、上半分に粗いガラスが取り付けられた戸からは、やはり中の様子を見ることはできない。当然、ヤスカ自身が戸を引いて入店するしかなかった。扉の方から開いてくれるわけでもないだろうし。

 ガラガラ、と想定通りの軽い音が開いて照明がきちんと付いている店内へと進む。外とは異なり、店の中は外の面影を忘れるほどに現代的な光景が広がっていた。

「……いらっしゃいませ」

 野球中継が流れている真新しいテレビが備え付けられたカウンターに、店番と思わしきジャージ姿の若い女性が座っている。冷蔵庫や洗濯機などの白い家電に囲まれたその女性の瞳からは気だるさが漂い、カウンターから立ち上がる動作もゆっくりとしていた。テレビの向こうからバットがボールを打つ甲高い音が響き、その近くの洗濯機がゴウンゴウンと揺れる。どうやらこのジャージの女は窓口らしい。店主は別にいるのだ。

「『地下の広場』は空いているか?」

「……少々お待ちください。店主を呼んできますので」

 ヤスカの問いかけによってジャージの女は客を認めた。カウンターの奥に姿が消えてから待つと、白い長袖のTシャツの上に青いエプロンをして疲れ切った様子の中年の男がやって来る。世の中に何の希望も抱いていないような顔付きだ、とヤスカは静かに思った。

「えーっと、何かお探しですか。それとも注文ですか」

「会員番号2983。品物を確認しに来たのだが」

「……確認しまーす」

 菜梨、というネームプレートを首から下げた男はカウンターの下から分厚い帳簿を取り出してパラパラと捲る。2900番台に差し掛かるとページを捲るスピードは遅くなり、やがて2983を見つけたようで完全に停止した。

「天野、安門様ですね。ご案内しまーす」

 カウンターから出て来た男は、一直線に冷蔵庫へと向かう。一八〇センチメートル以上はあるであろうその冷蔵庫の扉の鍵を開けて取手を掴むと、冷蔵庫の全てが一体として、連動して右に開いた。その先には、地下に続く階段がある。行き先はその階段を降りたところだった。電灯も何もない、暗闇に染まった階段を降りるときに頼りになるのは降りた先から微かに漏れている光しかない。菜梨という男は何の躊躇いもなくスタスタと降りているが、ヤスカにとても同じことはできなかった。ゆっくりと歩くしかない。

 階段を降りた先には近的射場とほぼ変わらない大きさの部屋が広がっていた。そして、そこが電気屋キンドアの裏の顔、調達屋キンドアの根城である。

「いらっしゃいませ、お客様。ご注文の品、調達が完了しております」

 そこで初めて、店主のナナシは客に対して一礼する。礼を終えたその顔は、完全に仕事の状態に入っていた。疲れ切った顔はどこへやら、引き締まった顔立ちである。その姿こそが、ヤスカが日本での銃火器調達を依頼した男だった。彼は出入口を除いた四方をロッカーに囲まれ、無数の作業台と工作機械で埋め尽くされた地下室の主でもある。仕事屋や派遣屋とはまた異なる裏世界の住人、それが調達屋なのだ。

「品物を見せてもらおうか」

「かしこまりました。では、まずはこちらを」

 店主は右端のロッカーへと移動し、数十個以上の鍵をジャラジャラと鳴らしながら鍵束をエプロンから取り出す。そこから迷うことなく一つの鍵を手に取りロッカーの中を開くと、その中には大量の木箱が積み重なっているのが見えた。

 ロッカーを閉めて戻ってきた店主は木箱を二つ抱えている。辞書ならすっかり入ってしまいそうな大きさだ。店主はそれらを丁寧に作業台に置くと、木箱の蓋を開けてヤスカに中身を見せる。木箱の中には、梱包されている銀色の回転式拳銃が収納されていた。

「S&W M686 プラス……通常の装弾数に一発をプラスすることを可能にした装弾数七発のマグナム・プラスです。ご要望通り、二丁ご用意いたしました」

「銃身長は?」

「2.5インチ。ジャケットの裏などに収納が可能です」

「弾薬は?」

「.357 S&W マグナム。これぞマグナム弾の花形でしょう」

「……それでこそだ、ガンスミス」

 片方の木箱からM686を左手で取り出したヤスカは右手でグリップを握る。シリンダーに弾は装填されていないが、慣れた手付きで構えるとやはり安心感が違った。予備を含めてこの回転式拳銃を二丁入手したことは『仕事』を行う以上、心強い支えとなるに違いない。不足の事態に備えておかなければならないのだから。

「お気に召したようで、何よりです」

「ああ、助かったよ。次を見せてくれ」

「かしこまりました。少しお待ちください」

 木箱にM686を戻しながらヤスカがマグナム・プラス以上のものを催促すると、店主はまた別のロッカーに向かい、鍵を選んで扉を開ける。そのロッカーの中にはギターケースが数個並んでおり、その中の一つを慎重に抱き抱えて戻って来た。黒いギターケースも作業台の上に寝かされ、大きなまな板の上に乗った魚のように中央のチャックが開かれて行く。ギターケースの腹の中からは、漆黒に彩られたアサルトライフルが姿を現した。

「SIG SG556……シグ社の傑作小銃、SG550の改良型です。お客様はご存知でしょうが、口径5.56ミリでNATO弾とSTANAGマガジンに対応しています」

「照準器とグレネードランチャーはどうだ?」

「ご安心を。SG556には豊富なオプションを追加を追加することができます」

 こちらのギターケースもどうぞ持ち運びにご利用ください、と店主はまた頭を下げる。

「代金は口座に振り込んでおくよ。整備代も含めてな」

「承りました。お品物は後ほどお届けに参りますので、その時はよろしくお願いします」

「ああ、頼んだよ」

 品物の確認を終えたヤスカは、店主に背を向けて地下室から出て行こうと階段を登り始める。そこで、お待ちを、と店主に呼び止められた。何か忘れ物をしたのか、と地下室の出口から少しだけヤスカが顔を出す。店主は再び頭を下げてこう言った。

「大変申し訳ございません。当店でお品物を調達なさったお客様は、会員番号と共に申告を頂いたお名前とは別の名前を来店時にお伺いしておりまして。お伺いしてもよろしいでしょうか」

 ヤスカは少し考えて、店主に自身の名を告げる。名と呼べるものはこれだけだった。

「本来は店長と同じナナシなんだが……私はかつてヤスカと名付けられたよ」

「……またのご利用をお待ちしております」

 そう言うと、店主は微笑んでヤスカを見送る。ヤスカも目礼して地下室を後にした。この奇妙な時間は何だったのだろう、と少し振り返りはしたが、全ては午後の気まぐれだと思うことにする。そうでなければ、今すぐ回転式拳銃を受け取らないと外に出られなくなりそうだった。何とかシャッター通りのアーケードの前まで戻り、もう一度振り返って色褪せた通りを一瞥したヤスカは、そんなことを思いつつ駅前へと歩き始めた。


 少しずつ沈み始めた陽の光が、赤煉瓦で彩られた駅舎の壁面と半透明の窓ガラスを更に焼き上げている。夕方、午後五時近くのターミナル駅は相変わらず人が多かったが、屈強な男たちが囲んでいる柱の近くには誰も寄りつこうとはしなかった。その男たちとは、SUPガードという警備会社の警備隊隊長、高尾とその右腕、二又である。

 新幹線の改札口の前に立った数本の柱のうちの一つを独占している二人は、数分置きに時計を確認しては他のものに視線を移すことを繰り返す。やがて、暇を潰すのにも飽きた二又は高尾に声をかけた。

「タカさん、本当に良いんですかい。会長や社長にも何の相談もしないで、勝手にあいつを呼び出すなんて。下手すれば首が飛びますぜ」

「そんなことは分かってるんだよ。だがな、二又よ。お前があの『ヤスカ』を始末できるって言うのか? 俺もお前も、うちの隊員にもできないだろうからあいつをわざわざ呼んだんだろうが」

 二人の男は柱にもたれかかり、小さな声で会話を続ける。周りに人が寄り付かないのは好都合だったが、それでも人が大勢行き来する場所で話す内容ではないようでもあった。

 だが、高尾は今、それに構ってはいられなかった。既に、輸送計画の担当がSUPガードからあの『ヤスカ』へと変更されているのだから。何としても『ヤスカ』から計画の主導権を取り戻す必要があるのだ。高尾たち、会長付きの警備隊の沽券に関わる。

「あいつが『ヤスカ』を始末したとして、報酬はどうするんです。会社は出してくれませんぜ。……それに、あいつが命令を聞く奴ならうちから追放されないでしょう」

 運転手としてここまで同行させられた二又はどうも煮え切らない。これからこの駅に到着するであろう男を迎えることを恐れているようにも見える。その臆病とも思える姿勢に苛立ちを感じた高尾は、そもそも何故自分が立場を危うくするような真似までして、『ヤスカ』を始末しようと決意したのかを思い出した。

 そうだ。あの『ヤスカ』という男が本能的に気に入らないのだ。若造のくせに恐ろしいほどまでに冷静で油断ができないあの態度と、会長にまで報酬の要求を押し付けて認めさせる胆力。あの仕事屋は、全て過去の自分が持ち合わせていなかった素質を兼ね備えている。仕事屋として裏工作や暗殺にまで関わり、依頼主の手足となって働くことに徹することに何の躊躇いもない機械のような男。自分の命を盾にすることでしか働けない警備屋としては、その存在を認めたくない。認めるわけにはいかない。

「あの仕事屋に対抗できるのは、ネジが外れたあいつしかいないだろうが。二又よ、いい加減に腹を括れ。もうすぐ狙撃屋が来るんだからな」

「タカさん、大きな声で話さない方が……」

「ならいつまでもくどくど喋るんじゃない。『ヤスカ』に貼り付けた『枝』からの報告をこまめに確認しておけ。奴の動きを教えてくれるんだからな」

 自分自身にも言い聞かせるかのように、高尾は二又に覚悟を決めろと告げる。実際のところ、やはり高尾も覚悟を決め直す必要があった。『ヤスカ』に対抗できると見込んだ男を出迎えるのに、身構えないはずがなかったのだ。大勢の人が行き交う改札口の前でこういった緊張に包まれているのは。恐らく二人だけだろう。外の陽の光はとっくに沈み始めているのに、一切明るさが変わることのない場所に居るのも良くなかった。時間がどれだけ過ぎたのかが分かり難いし、いちいち携帯で時間を確認するのにも飽きて来てしまう。

 早く到着してほしいが、それほど再会が喜ばしいわけでもないという葛藤を無視できないまま、二人は次第に口数も少なくなっていく。そうして自然と、会話も減っていった。

 改札口の前で三〇分ほど待つと、ようやく北の大地からやって来た新幹線がホームに到着したというアナウンスが聞こえてくる。電光掲示板の表示が動き、また別の新幹線の到着予定時刻が表示された。それから間もなく、改札口に人の波が押し寄せる。横一列に並んだ改札口は七、八台は設置されているが、それでも通り抜けるのは簡単ではない。

 改札の前に押し寄せる前までは人の波は無秩序だが、出口に近付くと何となく流れというものができてくる。恐らく、あの中に『ヤスカ』に対抗し得る男がいるのだ。高尾は人混みを眺めつつ男の姿を探していたが、それは二又の急な報告によって中断させられる。

「あ、『枝』から報告ですぜ。『ヤスカ』が宿泊しているホテルに入ったと書いてますわ。但し、部屋までは分からない、と……まぁ、そう簡単には行きませんわな」

「他人事みたいに報告するなよ。そのうちお前には『ヤスカ』を尾行してもらうつもりだからな。どうも、『枝』だけだと分からないこともあるらしいしな」

 そんな話聞いてませんぜ、と驚く二又を無視して高尾は人の波をまた見つめ始める。そこで、視線が一人の男に向けて定まった。二又もそれに釣られて視線の先を追う。

 そこには、白いウインドブレーカーに灰色のジーンズを合わせて大きなギターケースを背負った二〇代後半の男がいた。改札を通り抜けた男は、固まったまま自分を見つめ続ける高尾と二又の姿を見つけると、ニヤリと白い歯を見せて笑う。真顔に無理矢理貼り付けたかのような、軽薄な笑みは見た者に寒気を感じさせる薄気味の悪さを備えている。

 そう、スタスタと足早に近づいて来るこの男こそ、高尾が呼び寄せた切札だった。

「やあやあ、お久しぶりですね、お二人とも。あまりお変わりはないようで安心しましたよ。まぁそれは割とどうでも良くてですね、早く教えてくださいよ、誰を撃たせてくれるのかを。それだけのために来たんですから。撃たずに帰るのだけは嫌ですからね」

「……引金を引かないと気が収まらない癖は相変わらずのようだな、鬼兵」

 べらべらと話す軽薄な笑みを浮かべる男に呆れた高尾は、やはり呼ぶべきではなかったかもしれないと後悔する。今更、引き返せないことは分かっているのだが、久しぶりにあ顔を合わせてみるとそう思わずにはいられなかった。鬼兵という狙撃屋とはそういう男だった。できれば仕事以外では関わりたくないタイプの人間ではあるが、高尾たちはそういうわけにはいかない。半ば諦めていると、鬼兵は風が入って来る出口を見て移動を促す。

「さっさと車に乗りましょうよ。ここにいると撃ちたくなる奴が多過ぎて辛いんです」

「迎えに来た側のような口を聞くな。昔からお前の引金は軽いんだよ」

「ドラグノフが四六時中耳元で訴えて来るんですから、仕方ないでしょう?」

 ギターケースにギターが入っているとは限らない。そのケースの持ち主が生きる世界によっては、特にその傾向は顕著だろう。例に漏れず、鬼兵が背負っているケースの中身もやはりギターではないようだった。恐らく、その中身はカラシニコフを参考として今は亡き連邦で創り出された、狙撃屋の相棒に違いない。それに対して驚く高尾たちでもないため、鬼兵の戯言は殆ど無視され、三人は改札口の前からひっそりと姿を消した。最早銃器については、彼らの間では至極当然の認識と言うべきなのかもしれなかった。

 駅の近くの駐車場に停めておいた黒いバンに乗り込み、三人の男たちは暗くなる街から新たに生まれる数々の光の中を通り過ぎて行く。高尾と鬼兵は薄暗い車内の後部座席に並んで座っている。二又は運転席でハンドルを握っていた。

「ここなら問題ないだろう。待たせたな。お前に撃ってほしい相手を教えてやろう」

 バンが走り始めてから数秒で高尾がそう口を開くと、外の景色を心底つまらなさそうにぼんやりと眺めていた鬼兵は、ギターケースを抱えたまま勢い良く振り向く。その目には光が戻っていた。その喜びの根源は理解し難いものではあるのだが。

「流石隊長。私の手綱を握るのが上手いですねえ、既に興奮が止まりませんよ。そうは見えないでしょうがね」

「……お前の手綱を握れたことなど、一度もないと思うがな」

「さあ、誰なんです。誰を撃たせてくれると言うんですか」

 答えを急かすように、鬼兵はシートベルトの限界まで高尾の座席へと体を乗り出しで近寄ろうとする。見開いた目は少しも笑っていなかった。喜んでいると言うよりは、渇望と言った方が正しい様子だ。そんな鬼兵を座っていた座席まで押し戻した高尾は、隣に座る狂犬から目を逸らしつつ、できれば口に出したくない相手の名前を告げる。

「相手は……会長がとある仕事を依頼なさった『ヤスカ』という仕事屋だ。お前の手であいつの脳天に風穴を開けてほしい」

「ほう、あの『ヤスカ』ですか。日本に来ていたとは」

「お前、知ってるのか」

「一応は。始末屋でもなければ掃除屋でもない半端者でしょう? 撃てるなら誰でも良いと思ってましたが、彼が相手となると話は変わりますねえ」

 相手の正体を知った鬼兵は微かに笑う。どうやら満足できる相手のようだった。上官を街中で狙撃して今の道を歩むことになったこの男にとって、狙撃という行為自体は生活の一部になっていることを高尾は知っている。狙撃を行えれば標的が誰でもあろうと構わないという男が、その相手にこれだけの興味を示すこと自体の異常さも分かっているつもりだった。背筋に少し寒気を感じるのはそのせいだろう。

「どうだ、お前にあの『ヤスカ』が撃てるのかい?」

 高尾と鬼兵の途切れた会話に、運転しながら二又が入って来る。挑発とも受け取られかねない軽率な問いかけに不安を感じた高尾は隣に座る狙撃屋の顔を見た。

 最早、そこに笑みはない。仕事の顔をした男が座っている。

「二又さん、撃てるか撃てないかについての心配なら必要ない。俺は銃そのものだ。標的さえ示してもらえればそれで良い……自分に向かないように気をつけた方が身のためだ」

 軽薄な口調は消え去り、仮面の裏に隠された冷酷が姿を見せている。そこに本来の鬼兵がいた。急速に車内の雰囲気が冷え切る。その冷たさは車内の面々に現実を認識させるものでもあったため、高尾の不安は消え去っていった。鬼兵という狂犬の銃口をヤスカという怪人に向けられたことは、寧ろ好都合ですらあったからだ。

 改めて念を押すように、高尾は鬼兵の銃口の向きなどを調節する。

「『ヤスカ』が仕事を終えたタイミングで撃ってくれないか。そうすれば、SUPガードが再び計画を担当することもできるだろう」

「お願いよりも、命令される方が性に合っている。こちらもマシーンだからな」

「……ならば命じよう。『ヤスカ』を撃ち殺せ。グループの命運を左右する計画を、素性の知れない余所者に任せるわけにはいかんのだ」

「了解ですよ。狙撃の実行の日時は後で知らせてくださいね」

 鬼兵の受諾によって車内の会話は沈黙の時を迎えた。鬼兵の顔を見ていた高尾は窓へと目を移し、すっかり暗くなった街並みを照らす街灯の列を眺める。そうしていると、高尾はふと今まで気にもしなかったことが気になり始めた。

 あの『ヤスカ』は、どのようにして一億円の輸送を成功させるつもりなのだろうか。失敗すれば始末する正当な理由ができるためありがたいが、もし成功させたなら鬼兵の狙撃のタイミングも慎重に考えなければならない。高尾の頭の中では静かに、一億円とヤスカの姿が重なってはまた消えるということを繰り返していた。自分たちが何故計画の担当から外されたのか、という本質的な理由にすら気付かないほどに、思考に熱中しながら。

 それからまた街並みを置き去りにして走り続けた黒いバンは、SUPガードの本社近くの路地に停車した。ギターケースを背負った男が暗い路地に消えて行く。

 その後ろ姿を見送った高尾は、運転席の二又とバックミラー越しに視線を合わせて声をかけた。二人はSUPガードの一員としての立場で語り合う。

「『ヤスカ』は恐らく鬼兵のことは知らないだろうからな。これで我々は対抗できる駒を得たわけだ。そうだろう?」

「サーモンスタッフの大河はどうなさるんで? 報酬の山分けを当てにしているであろうあの男は『ヤスカ』が始末されれば、口止め代を要求してくるかもしれませんぜ」

「その時は死体が一つ増えるだけだ。……サーモンスタッフもそろそろ小さくなってもらう時かもしれんな」

 隊長も人が悪いことで、と二又が軽く笑う。高尾もヤスカに対する切札を手に入れたからであろうか、少しだけ目を細めた。これで『ヤスカ』も恐れることはないだろう、そういう確信が生まれつつあった。だが、その慢心は突然の連絡で叩き潰されることになる。

 単調な電子音が高尾を愉悦の時から現実に引き戻す。その正体は、二又が持つスマートフォンから発せられた着信音だった。素早く端末を操作した二又は送られてきたメッセージを見る。『ヤスカ』に貼り付けた枝からのものだ。

 だが、『枝』から送られてきたメッセージを見た二又は、一瞬見間違いかと思ってメッセージを読み直す。画面にはこのようなメッセージが記されていた。

『お疲れ様です。SUPホテル新箸・虎ノ紋にヤスカに会いに来たという人が現れました。高校生くらいの女性です。去島香縁と名乗ったそうですが、ご存じですか?』

 何度見ても、メッセージに記された名前が変わることはない。二又は恐る恐る、その画面を後ろに座る高尾に見せた。夢であってくれと願いながら。

「タカさん、これ……」

「どれどれ……おい。間違いじゃないのか、これは」

 間違いであってほしいという願望が透けているような態度で、高尾も何度もメッセージを読み直した。それでも、何回目かに文面が変わるはずはない。

「一体どういうわけで会長のお嬢さんがあの『ヤスカ』を訪ねるって言うんだ、おい。あの野郎は会長のお嬢さんにエンコーでも持ちかけたってのか?」

「会長が許すはずがないでしょう。報告すれば首が飛びますぜ」

「じゃあお前、何もしないで今日はこのまま帰るつもりかい? ぐずぐずしてないでホテルに行くんだよ!」

 行き先を示すのと同時に、高尾は運転席のシートを叩く。慌てた二又が停めていたバンを急発進させ、静かな路地裏に似合わないエンジン音が鳴り響いた。二人の男の焦燥を乗せたまま、愉悦の時と共に立ち去った狙撃屋を置き去りにしながら。


『突然のお電話、失礼いたします。アドゥワ様、フロントでございます。お客様宛にお荷物が届いておりますが、お部屋までお届けいたしましょうか』

 夕食をホテルの地下にあるレストランで済ませたヤスカが部屋でテレビを見ていると、部屋の電話が鳴って受付係の爽やかな声が聞こえてきた。ありがたい申し出ではあるが、ホテルの荷物係をあまり信用していないこともあり、結局は自分で受け取ることにする。

「いや、私が取りに行こう。今からそちらに向かうので案内してくれないか」

『かしこまりました。お待ちしております』

 電話が切れると、ヤスカはクローゼットからジャケットを取り出して羽織り、施錠して部屋を出るとホールに向かう。照明から暖かみのある光が降り注ぐホールには、橙色の扉が三つほど並んでいた。扉の上のプレートに彫られた各階を表示する数が点滅する。

 左から順番に段々と大きくなって行く数が数秒ごとに光っては消え、やがてヤスカの部屋がある一〇階を示す数字が点灯した。重たい扉が静かに開き、建物の上下を移動する鉄の箱の中身が目の前に現れる。その中には、一階から乗ってきたであろう先客がいた。高校生くらいの、制服を着た少女だった。一〇階で降りるらしい制服の少女と一階まで降りるヤスカは軽く会釈を交わし、ホールですれ違う。特に会話もなかった。

 エレベーターの中に設置されたタッチパネルを操作して一階まで降りる間、ヤスカは左右の壁に張られた掲示物を少しだけ眺める。右の壁にはホテルの大浴場やそこに併設されたスパ、カラオケルームやビリヤード場など、左の壁には地下のレストランや二階のビュフェ会場やバーなどを紹介するパネルが取り付けられていた。ホテルと外を行き来する度に同じ内容が掲載されているパネルを見るのにも既に飽きているヤスカは、左右よりも自分の背後の壁の一面を構成している大きな鏡と正面から向き合う。

 鏡を納めている白く染められた額縁の四隅には木製の装飾が、額縁の本体と同じように白く染まっている。脱色されたようにも見える薔薇や木の葉の装飾は装飾としての意味を失っているのではないか、と一瞬考えてしまった。しかし、きっとこれで良いのだろう。

 白の装飾をじっと見ているうちに、エレベーターは一階に到着してひとりでに扉を開いた。一階のエレベーターホールに面する通路を右に曲がると、何度か見たフロントと似たような笑顔を顔に貼り付けた受付係が目に映る。カウンターに近付いたヤスカは、先ほどの電話の要件で来た、と手短に伝えた。

「アドゥワ様でございますね。お待ちしておりました。ご案内いたしますのでこちらにおいでください」

 受付係の若い男は一礼するとカウンターからロビーに出てくる。ヤスカを後ろに連れたままエレベーターホールに面する通路を左に曲がると、そこはコンクリートの壁と天井で覆われたホテルの荷物置き場に繋がっている。ホテルの宿泊客が宅配業者を通して運び込ませたり、インターネットで注文したりした荷物や品物はここに保管されているのだ。その中身をホテル側が検査することもなければ、詮索することもない。

「アドゥワ様宛に届いたお荷物はこちらです。お荷物をお部屋に運ばれる際は、この台車をご利用ください。台車の返却は不要でございます。お部屋の外に置いていただければ、後で清掃係が回収いたしますので」

 大小二つの段ボール箱の前に立ったヤスカはジャケットの懐に手を入れ、隣の受付係にポチ袋を渡す。それを恭しく受け取った受付係は立ち去り、荷物置き場はますます寂しい雰囲気を主張するようになった。当然の経過だった。大きさも色も違う、段ボール箱や木箱が鉄網の棚に積み上げられた部屋の中はそもそも人の長居を想定していないのだから。

 ガラガラと音を立てて、輝くほどに磨かれた床の上を台車を支える四つの車輪が前転して行く。その音の連続はエレベーターホールまで来ると一旦中断されたが、エレベーターの中に入る際にもう一度大きな音を立てた。聞いてて心地良くはないその音が耳に入り込んだヤスカは、ほんの少しだけ顔を顰める。だが、その不愉快は一〇階に上がる頃には過ぎ去ってしまっていた。部屋に戻って荷物を開封しよう、という思考に意識が移ったからでもある。荷物の中身は、それだけヤスカに安心を与えるものだったのだ。

 一〇階に戻ってきたヤスカはエレベーターホールを左に曲がり、台車を押しながら自身が泊まっている部屋に面する暖かい照明で染め上げられた廊下へと進む。人気のない、静かな廊下という光景を無意識のうちに想定していたヤスカは、そこで自分の目を疑った。

 ヤスカが泊まっている部屋のドアの前に、誰かが立っているのが見える。近付いて行くうちに鮮明になるその姿は、目の前の人影が見間違いではないことを示していた。一瞬、三樹が何か連絡を伝えに来たのかと思ったが、その考えは直ぐに否定される。三樹が連絡してくるなら、直接伝えに来るよりもメッセージを送ってくるはずだからだ。それに、今日はもうホテルから動くつもりはないから帰れ、と言われた三樹がまだホテルにいるとはあまり考えられなかった。そして、近付くうちに、やはりドアの前に立っている人影が三樹のものではないことが分かってくる。立ち姿から服装まで、何もかもが違っていた。

 ガラガラと音を立てて、エレベーターの方向から近付いてくる台車とそれを押すヤスカに気付いて視線を動かしたその人物には見覚えがある。一階に降りるときにエレベーターホールですれ違った制服を着た少女だ。一〇階にある部屋のどれかに宿泊している客ではなかったのか、とヤスカは軽く目を細めた。しかし、よく考えてみるとその想定も奇妙なものだった。平日の夜に、高校生と思わしき少女が、それも一人でホテルの一〇階の部屋のドアの前に立っているものか。それも、面識もないはずのこのヤスカの部屋の前に。

 いよいよ、ドアの前に立つ制服の少女と台車を押すヤスカの距離は縮まって行く。それと同時にヤスカと少女の親近感はどんどん離れて行った。無理もないことだ。ヤスカにとって、目の前の見知らぬ少女はただ偶然すれ違った通行人から、自分が泊まっている部屋の前に何故か立っている不審人物という扱いになっているのだから。

 そうして警戒を強めながらも、観察を怠らないヤスカは扉の前に立つ少女の頭から足の先までを軽く見つめた。一目で女子高校生であろうと推測できるほどにありふれたデザインのセーラー服に身を包んだ小柄な少女は、ヘラ家の少女よりは背が高かった。きめ細やかな折り目がついた膝丈のスカートの下に見える、黒いタイツとローファーが際立てる脚線美に目を奪われかけるが、それを振り切ってもう一度目の前の少女と顔を合わせる。やや表情が固い少女も、その潤んで澄んだ瞳をヤスカから逸らそうとはしなかった。

奇妙な沈黙がドアの前に立つ二人の間に流れる。それを、一〇階のどこかの部屋のドアが開く音が途絶えさせた。その音によって。ヤスカは自分自身が知らない間に、予想だにしなかった窮地に立たされていることに気付く。事情を知らない第三者から見れば、このヤスカは非常によろしくない人物に見えてしまうのではないか。夜に見知らぬ女性を部屋に招き入れているという光景に見られても仕方がないのが今の状態ではないか。とは言っても、ヤスカでさえ少女が何故ドアの前に立っているのかは知らないのだが、それでもこの誤解を招きかねない状況はどうにかする必要があった。

「失礼だが、部屋を間違えているのではないのかな、お嬢さん。今君の目の前にあるドアの向こうは、私が泊まっている部屋なのだが」

 気乗りしないまま、できるだけ優しく慣れない口調で制服の少女にぎこちなく語りかける。この言葉には、少女も実はこのホテルの宿泊客で、降りる階を間違えたか或いはカードキーを室内に忘れたかで、部屋に入れないのではないかという最早願望に等しい思いが入り込んでいた。実際、そうであって欲しいのだから。その方がとても助かる。

「あなたが、アドゥワさんですか」

 はきはきとした口調にやや緊張が乗った声で、少女はヤスカの淡い期待を打ち破る。どうやら、少女がここに来た目的は完全にこのヤスカであるらしかった。いや、私はアドゥワなど知らないと言い逃れようかとも考えたが、それは不可能であることをすぐに悟る。ガラガラと台車を押して部屋の前までやって来たホテルの制服も着ていない男が、その部屋に泊まっていない男であるはずがなかった。逆にそうでないとするならば、誰だと言いたくもなるだろう。このヤスカでさえ言いたくなる。言い逃れは通用しないようだ。

「……そうだ。私がこの部屋に泊まっているヤース・K・アドゥワだ。何か用かな」

「ええ。私は去島香縁と言います。あなたが『仕事屋』であると知った上で、話を聞いてもらいたくてここまで来ました。お願いです、話を聴いて貰えませんか」

「……俺が仕事屋だと、どこで聴いた? 君がこちら側の住人であるとも思えないが」

「あなたの『仕事』の依頼主……父が話していたのを聴きました」

 少女の答えを聴いたヤスカは内心で頭を抱えた。あの会長は何をしているのだ。家族の前で『仕事』の話を、しかもこのヤスカについて言及するとは、迂闊にも程がある。報酬を追加で請求したくなるが、既に決まった話を蒸し返すことをあまりしたくはなかった。

 更に、わざわざ依頼主の娘がこのヤスカを訪ねてくるのも嫌な予感がしていた。裏の世界の住民に表の世界で何不自由なく生きているはずの女子高校生が訪れようとはなかなか思わないはずだ。依頼主の名字と今目の前にいる少女の名字が違うのも、この少女がヤスカに会いに来た訳を示唆しているようでもあった。穏やかではない事情を察してしまう。

「その話というのは、『仕事』の話か。もしそうならば、悪いが聴くことはできない。『仕事』の掛け持ちはしない主義でな」

 だが、ヤスカは薄々事情を察した上で少女の願いを拒絶しようとする。突然の訪問が好ましくないのもそうだが、依頼主の家庭問題にまで関わるつもりはなかった。さっさと荷物を開封したいというヤスカ自身の事情もあり、この去島香縁という少女を部屋に入れるという気も微塵も起きない。三樹を呼び出して帰らせようかとさえ思い始めていた。

「そこを、何とかお願いします。あなたの助けが必要なんです」

「依頼主に君と会っていることが知れれば、こちらも不利益を被りかねない。それに、君を救う者は少なくともこの仕事屋ではないはずだ」

 頭を下げて願う少女に取り合わず、ヤスカは部屋に入ろうとカードキーを取り出した。ヤスカの冷たい視線に気圧されてドアから離れた少女が、無理矢理部屋の中に押し入ることはできそうにもなかった。決別を招くヤスカの手が、解錠したドアの取手に伸びる。

 ところが、丁度その時に、未だかつてないほどの声量と複数の足音がホールの方から聞こえて来た。これには、ヤスカもドアを開けかけていた手を止めてしまう。一〇階の宿泊客がこちらにやって来るというのか。恐れていたことが現実となってしまった。このままヤスカが部屋に戻れば、取り残された少女は部屋に入れて話を聞いてくれ、と廊下から部屋のドアを叩くかもしれない。そうなれば話は益々ややこしくなるだろう。宿泊客には怪しまれるだろうし、フロントに連絡して少女を帰らせても同じことだ。ホテルの中で事を苛立てたくはない。だが、そうしてあれこれ悩んでいる間にも足音は近付いてきている。

「……仕方ない、早く入れ。人目につくと面倒だ」

「は、はいっ。お邪魔します」

 小さく嘆息し、ヤスカは部屋のドアを開くと背後の少女の方に振り向いて入室を促す。少女の方でもまさか入れるとは思わず、殆ど諦めていたようで、パタパタと軽い足音を立てながら、慌てて開いたドアの隙間に姿を消した。結局、歓迎するつもりは微塵もなかったが、ヤスカは台車と想定外の訪問者を部屋の中に押し込むことになってしまう。部屋のドアを開けたヤスカは少女が部屋に入ると、そのまま台車も滑り込ませて窮地を脱する。他者からの視線という窮地は確かに脱したが、部屋に少女を招き入れてしまったことで新たな窮地に立たされているような気がするのは、きっと気のせいではないはずだ。

それに、入室しても少女に荷物の中身を見せるわけにはいかない。一旦ベランダに出てもらって窓を覆うカーテンを閉め切って段ボール箱を開封する必要があった。元から開封する時はカーテンを閉めるつもりではいたが、そのカーテンの向こう側に誰かがいるという状況に遭遇することなど、予想すらしていなかった。これは奇妙な感覚だった。

 荷物を一通り開封し終えたヤスカは、木箱二つをベッドの下に置き、ギターケースをクローゼットに納める。カーテンを開いて少女を呼びに行こうとしたが、その前に二つの椅子と共に置いてある小さなテーブルの前で足が止まった。そこには、質素な写真立てが飾られている。これは数少ないヤスカの私物のうちの一つだった。そこに収められた写真には、まだ幼稚園児くらいに見える小さいヤスカと思わしき男の子の姿と、ヘラ家の少女によく似た長い黒髪の女性の姿が映っている。男の子はしゃがんだ母親のように見える女性の長いスカートの裾を摘み、どこかのベンチの前で、じっとカメラを見つめていた。

 その写真立てを、ヤスカはそっと伏せた。伏せた写真立てを名残惜しそうに見つめ続けながらも窓際まで歩き、ベランダで待たせていた少女を呼びに行く。少女はベランダの柵に左半身を預けつつ、緩やかな風を浴びながら、色とりどりの光を放つ街の夜景をぼんやりと眺めていた。艶のあるポニーテールが風に吹かれてほんの少しだけ揺れている。

 ヤスカは窓を開けると、外を走る車の音に顔を僅かに顰めて少女に声をかけた。

「待たせたな。入っていいぞ」

「あっ、はい。失礼します」

 ベランダから室内に入る際、少女はそれまで履いていたローファーを脱いで室内用のスリッパに履き替える。そのスリッパは室内用として予め用意されていたもので、ヤスカは使っていなかったため残っていたのだった。使っていないならとベランダに出る前に取っていたらしい。そのままテレビの前の椅子にでも座るのだろう、と壁にもたれかかってその様子を見ていたヤスカは、少女が椅子ではなくベッドに座ったことでぎょっとする。

 ギシ、とヤスカが座った時よりもやや軽く、耳に残る音を立ててベッドが軋んだ。

「……それで、話というのは何なんだ。部屋に入れてしまったし、一応聴いておこうか」

 少女の視線から思わず目を逸らしたヤスカは、誤魔化すように本題を話すように促す。両手をベッドに置いて体を支えながら、ベッドの縁に腰掛ける少女の行動の意図を測りかねていた。今時の女子高校生はこうも簡単に見知らぬ男のベッドに座るものなのか、それともこの去島香縁という人物が異常なのか。少なくともそんな気は毛頭ないヤスカは、やはり部屋に入れるべきではなかったと後悔を始める。

「ええ。『仕事』を依頼したくて。簡潔に言えば、今の『仕事』が終わってからで構いませんから、あなたの今の依頼主を始末してほしいのです」

 コンビニに行ってアイスを買ってきてほしい、と殆ど変わらないような、何気ない口調で少女はそう告げた。これにはヤスカも思わず少女の顔を凝視してしまう。目を逸らしていたことなど全て忘れてしまう。それもそのはずだ。彼女は今、実の父親の殺害を依頼したのだから。何気ない口調が、率直な本心を表している事を示しているようであった。

「……そうか」

 少女の忌まわしき依頼の内容を聴かされたヤスカは、そう一言だけ呟く。何故そのような依頼をこのヤスカにするに至ったのかを聴く気には、とてもなれなかった。ましてや、実の親を殺してほしいなんて言ってはいけないなどと、諌めるつもりもない。それが『仕事』として成立するならば、遂行するまでなのだから。

 それに、今はこの話を『仕事』として受けるわけにはいかない。少女から始末してほしいと言われた依頼主との契約により、ヤスカは『仕事』を遂行する立場にあるのだ。この『仕事』がまだ終わっていないのにも関わらず、少女の依頼を受けて依頼主を始末することは裏切りに等しい。これから先の『仕事』にも支障を来すことにもなるだろう。更に言えば、そもそも少女の話はまだ『仕事』として聴くには不十分だった。

「それが、君が伝えたかった話の内容だということは分かった。だが、それを『仕事』として考える場合、報酬はどこから出ると言うんだ。君に払えるのか?」

 そう、ヤスカはボランティアでも会社員でもない。フリーの仕事屋なのだ。只働きなどするはずがない。『仕事』に見合った報酬を受け取らなければ話にならない。そして、『仕事』の最中に別の『仕事』を、更には進行している『仕事』に関わる形で依頼する場合の報酬は、当然高くなる。報酬の話を出された少女は、緊張と共に静かに金額を尋ねた。

「……具体的には、どのくらいになりますか」

「そうだな。今進めている『仕事』の報酬が二億円だから、君の依頼を受ける場合は四億円ほど請求したいところだが……まあ、三億円なら君の父親の遺産から出せるだろう?」

 そこで、ヤスカは少女の依頼に潜む大きな矛盾を指摘する。今そうして少女が健康に生きて来られたのは、何らかの事情で君が疎み、始末されれば良いとまで思っている父親のお陰なんだ、と。勿論、だからと言って少女がヤスカに依頼しに来るまで追い詰められるような結果を招いたあの会長が悪くないと言うわけではない。ただ、少女は来るべき場所を間違えているのだ。光を求めて奈落に突き進むのと、何ら変わらないことをしていることに気付くべきなのだ。それを教えるほど、ヤスカは優しくはないのだけれども。

「……いえ、お金は私が一生かけて払い続けます。何でもしますから、お願いです」

 それでも、少女は頭を下げて無謀な依頼を受けるよう祈り続ける。何でもしますから、と言いつつ、少女の足が震えているのを見たヤスカは、そこに現れた純真を確認した。

「……もう少し自分を大切にしたらどうなんだ。生憎、そんな趣味はないんだよ」

 そう言うと、ヤスカは『仕事』の後ならまた話を聴くからと説き伏せた。既に夜も更けてきたため、その後は少女を部屋に泊めてベランダで一人、一夜を明かす羽目になった。

 懐からM686を取り出し、撃鉄を落とす。使わずに済んで良かったと思いながら。

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