第9話 幽霊

9-1.待機

もうあたりはすっかり暗くなっていた。

俺は自分の着物に着替えて、帰り支度を整えていた。

「姉さん、あんたの店はどの辺にあるんだい?」

「今日、良一さんと出会ったあの通りの近くだよ。あのあたりで『日菜子の店』って訊けば教えてくれるよ」

「そうか、じゃあ近いうちに、飯をおごってもらいに行くよ」


「…良一さん…帰っちゃうのかい」

俺は、日菜子の言葉の意味を理解した。だが、正直にいうと幽霊には会いたくない。幽霊は怖い。嫌だ。帰りたい。帰りたいが…

「いや、ここまで関わったんだ。姉さんさえ良ければ顛末を見届けたい」と、心にもないことを言ってしまった。

「本当に!? 今夜、いてくれるんだね、ありがとう良さん!」日菜子は感激して俺に抱き付きそうになったが、体に書かれたお経の墨が擦れることに気づいて思いとどまった。


「じゃあ、良さんはここで隠れていておくれ」

俺は、部屋の隅に置いてある衝立の影で、幽霊の出現を待つことになった。

「あいつが出てくる少し前には、必ず耳鳴りがするんだ。そのあと、あたしは体の自由が効かなくなるから、耳鳴りがしたら目で合図するからね」

「…おう」

「あたしは…この格好のまま横になって待つことにするよ。お経が書いてあるところは幽霊から見えなくなるって話だから、浴衣を着るよりこのままの方が良いと思うんだ」

「でも、小指には俺の名前が…」

「大丈夫、この指に書かれたあんたの名前が、きっとあたしを守ってくれる」


9-2.幽霊

真夜中。行燈の明かりが揺れている。

全身にお経を書いた日菜子は敷布団の上で、緊張した面持ちで横になっている。俺は、衝立の陰でその時を待っている。

突然、大きな耳鳴りがした。同時に、日菜子の目が大きく見開かれこちらを見た。幽霊出現の予兆である。


幽霊は日菜子の足元に現れた。外から入ってくるのかと思っていたが、いきなりそこに湧き出るように姿をあらわした。幽霊はぼろぼろの着物を身に着け、胸にはあばら骨が浮き出ており、顔は青白く、目は窪み、頬はこけ、表情は怨念に満ちている。足は…陰になっていてよく見えない。

『怖い…』 極度の恐怖によって、俺の体はガタガタと震えた。ぶつかり合う歯の音が頭の中に響く。全身の毛穴から汗が噴き出す。


幽霊は、何かを探すように視線を動かしていた。おそらく、日菜子の姿が見えていないのだ。全身に書かれた般若心経の効果に違いない。

しばらくすると、さまよっていた幽霊の視線が、ある一点…日菜子の小指に注がれた。

「良一…」

耳鳴りのせいで聞き取りにくかったが、間違いなく幽霊はそうつぶやいた。

そして幽霊は、日菜子の小指にその青白い手を伸ばそうとした。


『まずい!』衝立の陰に隠れていた俺は、必死に体を動かそうとしたが、金縛りで動かせない。それでももがいているうちに、俺は体の平衡を失い後ろの壁に倒れ込んでしまった。ドンっと大きな音が響く。

「そこに誰かいるのかい?」

幽霊が滑るようにこちらに向かってくる。そして、衝立と壁の隙間からこちら覗き込み、壁にもたれ掛かっている俺を見つけた。

「あんたは、誰だい?」

…声が出せない。言葉は喉のところまできているが、声にならない。

「どうして、ここにいるんだい?」

俺はなんとか言葉を絞り出した「…俺は…良一だ」

「良一…あの指に書いてあった…。そうかい、あんたが…。日菜子もやっと…いい人を見つけたんだね…」

そういうと、それまで幽霊の顔に浮かんでいた恐ろしい表情が消え、すっと優しい表情に変わっていった。

そして、幽霊は語り始めた。


「わたしは、弥吉といいます」

「…弥吉」俺は金縛りが解けて、声が出せるようになっていた。

「弥吉さん!」日菜子の声が響く。どうやら、日菜子の金縛りも解けたようだ。

「その声は、日菜子かい? どこにいるんだい、日菜子。今夜はおまえの姿が見えないんだよ」

お経の効果で自分の姿が消えていることに気づいた日菜子は、あわてて手ぬぐいを鉢の水で濡らし、顔の墨を拭きとった。

「これでどうだい、あたしの顔が見えるかい、弥吉さん」

「ああ、日菜子! だけど顔だけが宙に浮いて…まるで幽霊みたいだよ」

「幽霊はあんだろう!」日菜子の鋭い指摘がとぶ。

「日菜子、わたしはお前に会いに来たんだよ。わたしがこうして姿を現せる時間は限られているから手短に話すよ」


9-3.弥吉の話

弥吉の話はこうだった。

その日、弥吉は奉公している店の主人の遣いで、店の上客の屋敷を訪問していた。訪問先での用事が済んだ頃には、あたりはもう暗くなっており、弥吉は帰路を急いだ。

弥吉が人気のない寂しい場所を歩いていると、近くで助けを求める女の声が聞こえ、付近を捜索したところ、数人の男たちが娘を誘拐している現場に遭遇した。弥吉は逃げようとしたが捕らえられてしまった。


そして、気づけば弥吉は、死後の世界にいて、自分が殺されたことを悟った。しかし、現世に残した日菜子のことが気掛かりで成仏できず、弥吉はずっとそこに留まっていた。

ある時、弥吉は近ごろ亡くなった知人の霊と遭遇した。その知人の話によると現世では、弥吉はある娘と心中死したことになっており、弥吉とその娘が恋仲になっていたと証言する者も複数人いたとのことだった。


弥吉は日菜子にだけは真実を伝えたいと願い、日菜子のところに幽霊とした現れた。しかし、いくら話しかけても日菜子には聞こえない。それでもなんとか意思疎通できる方法はないものかと体に触れてみたり、体に筆談を試みたりしたらしい。


日菜子は大粒の涙をこぼしながら弥吉の話を聞いていた。

「ごめんよ、ごめんよ弥吉さん。あたしはあんたがほかの女と心中したって話を真に受けちまっていたよ。本当にごめんよ」

「いいんだよ、日菜子。そうだ、これを受け取っておくれ」

弥吉は胸元から髪飾りを取り出し、日菜子の手に渡そうとしたが、お経が書かれた日菜子の手が見えないため、日菜子の髪に髪飾りを直接付けた。

「これはあの日、日菜子にあげようと買ったものだよ」

「あの日…、あたしが『手が離せない』って言った、あの日かい?」

弥吉はうなずいた。そして、俺のほうを見てこう言った。

「良一さんっていったね、日菜子をよろしく頼むよ」

「…お、おう」

「これで、わたしも思い残すことはなくなった。やっと成仏できるよ…」

そういうと、弥吉は目を閉じた。口元には満足げな微笑みを浮かべている。

弥吉の姿が金色の光に包まれ、光の粒子となって部屋の天井に吸い込まれていった。

「弥吉さん!」日菜子が手を伸ばしたが、その手は空を掴んだ。

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