第8話 顔
8-1.因果
「もう、井戸水は浴びなくっていいよ」
俺の手首をつかんで日菜子がいう。
「どういうことだい? 姉さん」
「まあ、座っておくれよ」
俺は、日菜子の前に座った。日菜子は横座りの姿勢に戻っている。
「この、『清らかな心』を確認する方法は、物知り爺さんが教えてくれたものでね…、あたしはずっと良一さんが『清らかな心』で書いてくれているかを確認していたんだけど、良一さんの形は…時々、変わっていたんだよ。」
やはり、気づかれていたようだ。
「面目ない…」
「でも、そんなときでも、あんたは一所懸命に綺麗な字を書いてくれていて、その字にみだらな心が混ざっているなんて、とても思えなかったんだよ」
俺は、説教をされているのか、褒められているのかわからず、黙って日菜子の話を聞いていた。
すると日菜子はスッとこちらに手を伸ばして、俺のソレを掌の上に載せた。その頃には、俺の体は落ち着きを取り戻し、平常時に近い形になっていた。
「これをさ、こういう風に擦るだろう?」というと、日菜子はその手で俺を握るように指を動かした。指の刺激を受けた俺は、またたく間にすっかり形が変わってしまった。
なんという節操のなさ…これは、絶対に説教されてると思った俺は、また同じ謝罪の言葉を繰り返した。
「面目ない…」
「面目ないじゃないよ!」
「申し訳ない…」
「違うよ、申し訳ないのはあたしだよ! さっき、あたしはこの指であんたを擦った。たったそれだけのことで、あんたの心が汚れるなんてこと、あるわけがないじゃないか。この形の変化は、心の汚れを現すようなものじゃないんだよ」
説教されると思っていたが、そうではなさそうだ。日菜子は言葉を続けた。
「確かに心穏やかって訳じゃないかもしれないけど、それは水を火にかけると沸騰するみたいなもんで、単にそういう因果だってことなんだよ。それとおんなじで、男の人の体はそうふうにできている。ただ、それだけのことだって気づいたんだ」
「…う~ん、本人としては、それだけとも言い切れないような…」
「いいや、それだけなんだよ。その証拠がこの見事なお経の文字さ。心の乱れなんか一切感じさせない素晴らしいものさ、惚れ惚れするよ。あたしのためにあんたは本当に真剣に取り組んでくれた。それなのに、あたしは単に『体の変化』で、あんたの心を測ろうとしたのさ。本当に申し訳ないことをしたと思っているんだよ」
俺が真剣に写経に取り組んでいたのは事実で、日菜子がそれを認めてくれているのは素直に嬉しかった。
「そうかい…そんなに褒められると、なんだかこそばゆいけど、悪い気はしねえな。ありがとうよ。…それじゃあ俺は、着物を着るとするかな」
「なんでそうなるんだよ! これまでずっと肌と肌で向き合ってきたじゃないか!」
今度は、突然怒られてしまった。
「いや、だって、もう俺の『体の変化』は関係ないって…」俺が言い終わる前に、日菜子は強い口調で言った「いいから、黙ってそこに横になっとくれ!」
「…お、おう」と俺が仰向けに寝転ぶと、日菜子は俺を握ったまま、俺の体の上に前後を逆にして四つん這いになった。もう丸見えである。
「あたしはもう、あんたの体の形が変わったって文句は言わないよ。むしろ、あたしによって、あんたがどれくらい熱くなるのか知りたいよ。もうこれ以上ないってくらい、思いっきり熱くなったあんたを見せておくれよ!」
ここからは、大変に集中力を要する作業だった。
墨と女の匂いが濃密に混ざり合う中、俺は仰向けの姿勢で、顔の真上にある日菜子の内股に筆を滑らせた。その間も日菜子はずっと俺を握ったままで、ときおり彼女の指に力が入るのが伝わってきた。俺の心中はとても穏やかとは言えなかったが、それがかえって集中力を高めることとなった。俺の筆は日菜子の中心に近づくにつれ勢いを増していった。
8-2.顔
行灯の明かりのなか、体中にお教書かれた日菜子と、俺は向かい合わせに座っている。
「それじゃあ、顔に書いていくぜ」
日菜子は黙ってい頷くと目を閉じ、右の掌を俺の左胸に当てた。
額の髪の毛の生え際に、わずかにかかるようにお教を書いていく。
まぶた、頬、鼻、唇、顎…
まぶたの墨が十分に乾いたことを確認した俺は、日菜子に手鏡を持たせ、目を開けていいと告げた。
「あはは、すごいことになっているね。なかなか素敵じゃないかい?」
「ちょっと神々しい感じになったな」
「拝んでくれてもいいよ。お賽銭も忘れずにね」
「ちゃっかりしてんなあ、姉さん。…それじゃあ、耳にとりかかるぜ」
俺は日菜子の横に回り込んで、左耳にお経を書き始めた。
「くすぐったいよ」日菜子が言う。
「すぐに終わらせるから、辛抱しな」
「くっ、くくくっ、ひっ…」日菜子の肩が震えている。
「ほら、書きおわったよ」俺の言葉に、日菜子は肩の力を抜いた。
「じゃあ、次は右耳だな」
8-3.指
残すは指と掌だけになり、俺は右手から取り掛かった。
右手の掌を書き終え、指にとりかかる。親指から順に書いていく。
「右は終わったぜ。物を持つときには擦らないようにな」
「もう、あんたのソレにも触らないほうがいいかな?」
左手を差し出しながら日菜子が言う。俺は、日菜子の手を取る。
「お経を書いた手でかい? やめときなよ」
「それもそうだね…」
左の掌も終わり、右手と同じように親指から書いていく。それも順調に進み、残るは小指だけになった。
「ねえ、お願いあるんだけど…」日菜子が言う。
「なんだい?」
「その指に、…あんたの名前を書いて欲しいんだ」
「俺の名前を?」
「あたしに書かれたこのお経は、あんたの作品だから…あんたの名前を入れて欲しいんだよ」
「これは作品じゃなくて幽霊を避けるためのもんだぜ」
「うん、わかっているよ、でも…」
俺は、一呼吸おいたあと、日菜子の小指の先に俺の名前を書いた。
「書き終わったよ。これで完成だ」
日菜子は俺の名前が書かれた小指を見つめて、目を潤ませていた。
「本当にありがとう、ほんとうに。あんたに頼んで本当に良かったよ」
「泣いちゃだめだぜ、墨が流れちまうからな」
俺は日菜子に、まだ使っていない手ぬぐいを渡した。
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