第7話 足
7-1.腰
しばらく沈黙が続いた。俺に背を向けている日菜子の肩は震えていたが、お経を書くのに困るほどではなかった。背中は起伏が少ないため書きやすく、煩悩の種になるような部位もない。俺の筆は進み、日菜子のくびれた腰を越えて尻のあたりまで届いた。
「背中は終わったぜ、姉さん。ここから先は、この姿勢じゃちょっと書けねえな」
「そうだね…ちょっと見苦しいかもしれないけれど、こうするしかないね」
日菜子は、四つん這いになり大きく丸い尻を突き出す格好になった。こちらを振り返る日菜子の表情にも羞恥の色が見て取れる。
俺は日菜子の後ろから書くために場所を移そうとしたが、それはできなかった。日菜子の指が俺のソレをつまんでいたためだ。
「横から書いてくれないかい?。真後ろからじゃ…恥ずかしいよ」
「そ…そうだな、ちょっと字の向きが曲がっちまうかもしれねえけど、いいかい?」
「もともと字の向きは気にしないことにしていただろう? 横からでお願いするよ」
「承知した」
四つん這いになった裸の女の尻に、これまた裸の男が、仏の智慧の結晶である経を書いている。さらに女は男の下腹部を指でつまんでいる。なんとも奇妙な光景である。
そもそも全身に経を書けば幽霊から逃れられるというのも、甚だ胡散臭い話である。だが、当人たちはそれに賭け、真剣に取り組んでいる。傍から見れば滑稽な姿であっても、ここにいるのは二人きり。他人がどう思うかなど、二人には関係ないのだ。
「ちょっと、良一さん、少し…清らかな心じゃなくなってきているよ」
「えっ、本当かい?」
日菜子がつまんでいる俺の一部に、形の変化が起こりつつあった。
「姉さん、すまねえ。集中していて気づかなかったぜ、教えてくれてありがとうよ。ちょっくら井戸の水でも浴びて頭冷やしてくるぜ」
俺は浴衣を掴むと、もう何度目かになる井戸に向かった。
部屋に残された日菜子は、まだお経が書かれていない方の尻を床について、手鏡で自分の尻に書かれたばかりのお経を字を見た。
そこには、みだらな気持ちなど少しも感じさせない、綺麗な文字が整然と並んでいる。
そして日菜子は、彼に触れていた自分の指先を、慈しむような眼差しでじっと見つめた。
7-2.足
夏も盛りを過ぎて、日が傾くのも随分と早くなってきた。
西日の中、俺は日菜子の尻に書き終えたばかりのお経の墨を、うちわで乾かしていた。さらに手ぬぐいで字を押さえても墨が付かないことを確認した上で、四つん這いのままの日菜子に、「もう座っても大丈夫だ」と告げた。日菜子の指が俺から離れ、彼女は手拭いを敷いた座布団の上に座った。
「急がないと、日が暮れちまいそうだな。その幽霊が出るのは何時くらいなんだい?」
「真夜中だよ。だから、まだまだ時間はあるさ。良一さんは遅くなっても大丈夫なのかい?」
「俺は、ひとりぐらしだから、心配する人なんか誰もいねえよ。」
「そうかい、良一さんにはいい人はいないのかい?」
「俺みたいな貧乏人を相手にするような物好きはいねえよ」
「そんなことはないよ。きっと、良一さんが気づいていないだけさ」
「そんなもんかねえ。…さて、続けようか? 次は足でいいんだよな」
俺は左足の甲から書き始めた。
「良一さん、遠いよ」
「遠いって、何がだい」
「良一さんが遠いんだよ。さっきまでこの指であんたに触れていたのに、そこだと手が届かないよ」
「触れなくてもいいだろ? 『清らかな心』の確認だったら、そこからでも見えるじゃないか」
「いじわる…」
足先が終わって、脛に移る。
俺は左手で日菜子のふくらはぎを支えて、脛に筆を走らせる。ふくらはぎがやわらかさが心地よい。ずっと触れていたい気持ちになる。
左手の指にそっと力を込めてみる。指に返る弾力に心が安らぐ。もう一度…、そしてもう一度…。日菜子は俺がしていることに気がついているようだが何も言わない。ただ柔らかな微笑みをうかべて、俺を見ているだけだった。
7-3.行燈
「そろそろ、灯りをつけようかね」日菜子は行燈に火を灯した。
写経ももう終盤になり、残るのは顔、指と掌、そして、内股だけになっていた。
暗い部屋のなか、行燈の灯が日菜子の顔を照らす。
「あと少しで完成だね」
「そうだな、姉さん、内股に書くから、その…足を…開いてくれるかい」
日菜子の顔に羞恥の色が浮かんだが、やがて、決意したようにゆっくりと足を開いた。
俺は、開かれた足の付け根を見ないようにと思ったが、どうしてもそこに目が行ってしまう。日菜子は俺の視線を手で遮るようなことはしなかった。
息をのむ音が、頭の中で大きく響く。
俺の体の下のほうで、熱いものがたぎっているのを感じる。日菜子はそれを見ているが何も言わない。
「ふぅ~っ」と大きなため息をついて、俺は天井を見上げた。
「ちょっと井戸の水を浴びて、頭を冷やしてくるよ」
立ち上がろうとする俺に、日菜子の手が伸びきて、手首をそっとつかんだ。
「どうしたい?」
「もう、井戸水は浴びなくっていいよ」
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