第2話 依頼

2-1.依頼

俺は日菜子に手を引かれながら、彼女の部屋へ通された。

綺麗に整頓された部屋には、般若心経が刷られた手本、すでに擦ってある墨汁、数種類の筆、小皿が数枚、手ぬぐいが十数枚、うちわが二つ、ふわふわの綿花、水が入った鉢が二つ、そして手鏡が用意されていた。

俺は日菜子に促されるまま、用意されてた座布団に座った。日菜子は「ちょっと支度してくる」といって部屋から出ていった。俺は、部屋をぐるりと見まわしながら、そこに漂う濃密な女の匂いに圧倒されつつも、いやでも湧き上がってくる不純な期待に胸を高鳴らせていた。


しばらくすると、化粧を落として浴衣に着替えた日菜子が戻ってきて、俺の正面の座布団に腰を下ろした。

「良一さん、今日はあたしの頼みをきいてくれてありがとう。本当に、あんただけが頼りなんだ」

俺の顔を覗き込む日菜子のすっぴんの顔からは、化粧をしていた時にはわからなかった疲労の色がありありと読み取れた。改めてただ事でないことを認識した俺は、日菜子に依頼の内容について尋ねた。

「それで、どれにお経を書けばいいんだい? 見たところ紙が見当たらないんだが」

俺の問いに、日菜子は真剣な顔で答えた。

「お経を書くのは紙じゃないんだ。お経はね、あたしの肌に書いて欲しいんだよ。あたしの体中に、びっしりとね。それこそ、ありとあらゆるところに、これでもかっていうくらいに書いて欲しいのさ。」

俺はあまりに突飛な話に言葉を失った。日菜子はさらに続ける。

「あたしはね、男の幽霊に憑りつかれているんだ。その幽霊が毎夜、毎夜この部屋に現れては、あたしの体を好きなように弄ぶんだ。その間、あたしは体も動かせないし、ひどい耳鳴りで何も聞こえないし、声もあげられなくなってしまうんだよ」

「幽霊に…?」

「その幽霊に弄ばれるようになってからというもの、あたしの体はどんどん衰弱してきているんだ。これ以上こんなことが続いたら、あたしの命は持たないよ。もう、明日にでも死んでしまうかもしれない。あたしはまだ死にたくないよ。お願い、良一さん、あたしを助けておくれよ!」

およそあり得ない話だったが、日菜子のあまりの切実な訴えに、俺はひとまず話を聞くことにした。

「それで、どうして姉さんの体にお経を書くと、その幽霊から救われるんだい?」

「それはね、このあたりじゃあ一番の物知り爺さんに教えてもらったんだよ。偏屈な爺さんなんだけどね、あたしはそれにすがろうって決めたのさ。」

日菜子は、物知り爺さんに相談した時のことを回想した。


2-2.物知り爺さんの話

それは昨日のことだ。日菜子はその老人の家を訪ね、幽霊の件について相談をしていた。

「ほお、男の幽霊がのお、お前さんの体を弄ぶのかい。どんなことをされておるんじゃ?」

「もう、あんなことから、こんなことまで、好き放題されているんだよ」

「ほうほう、あんなことだけでなく、さらにこんなことまでとは…けしからん話じゃな。その幽霊は、お前さんに何か話かけてくることはないかのう?」

「そういえば、何やら口をぱくぱくさせてるような気もするけど、気は動転してるし、耳鳴りはひどいしで、何を言ってるのかなんてわかりやしないよ。お爺さん、あの幽霊を追っ払う方法はないかい? このままだと、あたしは明日にでも死んじまうかもしれないよ」

老人はしばらくの間、目を閉じ長い髭を指で撫でていたが、突然ひらめいたように、日菜子にこう告げた。

「ある! その幽霊を追っ払う方法はあるぞ」

「本当かい!? で、それはどんな方法なんだい、お爺さん」

「お前さんの体中、ありとあらゆるところに、びっしりとお経を…般若心経を書くのじゃ。耳に書くのを忘れちゃならんぞ。耳は忘れがちじゃからな。そうすれば、お経の聖なる力が邪悪な存在からお前さんを隠してくれるじゃろう。そして、幽霊は聖なる力に恐れをなし、二度とお前さんの前に現れることは無くなるはずじゃ。」

「本当かい! すごいよ、お爺さん! 早速あたしの体にお経を書いておくれよ!」

「なにっ、儂が書くのか! そんな面倒くさい…いや、うまくいく確証もない…いやいや…、そう! 儂には出来んのじゃ。いいか、このお経を書く人間は若くて健康な男でないとならんのじゃ。だから、年老いて病気がちな儂には出来んのじゃ。儂はお前さんを救ってあげたいが、儂が書いては効果がないのじゃ。」

「そうなのかい、それは残念だねえ。あたしの知り合いには字が書ける若い男なんてひとりもいないよ。他に条件はないのかい?」

「ふむ…、お経を書く人は、事前に清らかな水で身を清めたほうがいいじゃろうな。」

「ふんふん、うちの井戸の水は清らかだから大丈夫だね。他にはないかい?」

「そうじゃな、やはり清らかな心で一文字一文字心を込めて書くべきじゃな。みだらな心が混ざってはいかんぞ。」

「なるほど、そりゃ確かにそうだね。だけどお爺さん、清らかな心で書いているかどうかなんて、傍から見てもわかりやしないよ。」

すると老人は、にやりと笑いながら日菜子に秘策を伝授した。

「ふっふっふっ、そんなものは、書いている所を見れば簡単にわかるわい。みだらな心が混ざると、男の体は変化するからのう。そこをしっかりと見ておけば良い。はっはっはっはっ! ごほっ、ごほっ」


2-3.清らかな心

日菜子と俺は、彼女の部屋で向かい合わせて座っている。しばらく考え事をしていた日菜子が口を開いた。

「良一さん、さっきも言った通りあんたにお願いしたいのは、あたしの体中にお経を書くことだよ。そうすれば、今夜、あの幽霊が現れたときに、そいつはあたしの姿を見つけられなくて、その上、二度と現れなくなるんだってさ」

「へえ、お経の力はすごいんだな」

「そして、この方法を成功させるためには、3つの条件があるんだよ。まず1つ目は、このお経を書く人は、若くて健康な男性であること」

「俺は21歳だ。若いし、健康だよ。その条件は大丈夫だな」

「2つ目は、お経を書く人は、書く前に清らかな水で身を清めること」

「なるほど、それでさっきのやつか。合点がいったよ」

「そして、3つ目は清らかな心で書くことよ。みだらな気持ちが混ざってはダメなんだって」

「おいおい姉さん、さらっと言ってくれるけど、そりゃちょっと無理じゃないかい? 俺は姉さんの全身の肌にお経を書くんだろう。あんなところや、こんなところにも。それを平常心でやるなんざ、お寺のお坊さんでも無理な話だぜ」

「いいかい、良一さん。これには私の命がかかっているだよ。大丈夫、あんたはきっとやり遂げてくれる。そう信じているよ」

日菜子は俺の手をとって真剣な眼差しで訴える。大きな瞳には涙が溜まっていて、今にも流れ出しそうだ。

俺は、この色気の塊である日菜子の肌を前にして、平常心でいられる自信がまったくない。だが同時に、日菜子をここで死なせるわけにはいかないとも強く思った。

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