第3話 手

3-1.浴衣

「さあ、そろそろ始めようか、夜になったらまたあいつが来ちまうからね」

日菜子はそう言って立ち上がると、帯をほどき肩から浴衣を外した。浴衣は日菜子の肌をすべり落ち、床に広がった。

一糸まとわぬ姿になった彼女は、うつむきかげんでほんのりと頬を赤く染め、わずかにからだをひねったが、俺の視線が集中する部分を手で遮ることはなかった。

「…どうしたんだい、良一さん。惚けたような顔して」

「だって、姉さん、つんつるてんじゃないか」

「そりゃあ、体のありとあらゆるところにお経を書いてもらうんだから、ぼうぼうじゃあ書きにくいだろう?」

またもや、次の言葉が出ない俺に向かって、日菜子はにっこりと笑う。

「ほら、いつまでも座ってないで、良一さんも浴衣を脱ぐんだよ」

「俺も脱ぐのかい?」

「そうだよ、あんたが『清らかな心』で書いているかどうかは、あたしがあんたの『体の変化』を見て判断させてもらうよ。だから、早く浴衣をお脱ぎよ」

「か…、体の変化だって!?」

「そう、良一さんの体の変化さ。それに、浴衣を着てたら、せっかく書いたお教の文字を、袖で擦っちゃうかもしれないだろう? 裸だったら、そういう事故も防げるじゃないか、一石二鳥だよ。さあ、立った、立った」

日菜子にそう言われても、俺には立ち上がりたくない理由があった。いま、まさに起こっている俺の『体の変化』を知られたくなかったのだ。

困っている俺を見て、日菜子は蠱惑的な笑顔を浮かべた。

「恥ずかしがることはないよ、良一さん。だいたい察しはついているからね。女としちゃあ、肌を晒しておいて、まったく反応なしってのも寂しいもんさ。この儀式がうまくいって、あたしが生き延びられたら、たっぷりとお礼をさせてもらうからね。それまで我慢しておくれよ」


3-2.独り言ち

俺はまた、裏手の井戸で水を浴びていた。今度は、身を清めるというよりも、冷たい井戸の水で、ほてった体と頭を冷やすためだ。

濡れた体を手ぬぐいで拭きながら、俺は独り言ちた。

「こんなことになるんだったら、昨日、ひとりで抜いておけばよかった。そうすりゃあ、こんなにも気持ちが乱れることはなかっただろうに。いや、今からでも遅くはないかな? すっきりとした清らかな心で臨めるんじゃないか?」

俺は頭を振った。

「いいや、だめだだめだ。さっき俺がこの井戸の水で身を清めた時から、儀式は始まっているんだ。みだらなひとり遊びをしたばかりの手で、お経の筆を握ったりしたら、せっかくのお教の効果がなくなっちまうぜ」


3-3.道具

部屋に戻った俺を日菜子は笑顔で迎えてくれた。服は脱いだままだ。どうやら、お経を書く間ずっと服を着ないつもりらしい。

覚悟を決めた俺は、浴衣を脱いで裸になった。日菜子は俺のそれを見て「『清らかな心』に戻っているみたいだね」と笑った。

日菜子は、この儀式のために用意した道具を、ひとつひとつ手に取って、俺に説明してれた。

「これは、昨日、道具屋さんに用意してもらった特別な墨汁だよ。すごく濃いから肌に書いても垂れないんだ。おまけに乾きも早くてね、いったん乾いたらちょっと擦ったくらいじゃ消えない優れもんだよ。あと、筆はこれを使ってね。何種類か用意したから、好きなのを使って」

楽しそうに話す日菜子の顔を見ていると、俺もなんだか楽しい気分になってくる。

「ちょっと良一さん、ちゃんと聞いてるかい? 説明を続けるから、ちゃんと聞いておくれよ。…このうちわは、墨をあおいで乾かすために用意したんだ。それと、書き間違えた時には、この綿花を水に濡らして墨を拭きとっておくれ」

「その手鏡は何のためにあるんだい?」

「ああ、これはいろいろ使えるけど、主にあんたが『清らかな心』で書いているかを確認するためのものだね」

「ずいぶん、念がいっているな」

「そりゃそうだよ。あたしの命はあんたにかかっているんだからね」


3-4.一文字目

俺と日菜子は、おたがい裸のまま向かい合わせに座った。

「それじゃあ、姉さん。どこから書き始めようか?」

「そうだね、まずは右手の甲からお願いしようかね。そのまま肩まで書いておくれ。指と掌はさいごにしてもらえるかい?」

日菜子が差し出す右手を、俺は左手で受け止めた。しっとりとしたやわらかい肌の感触が掌に伝わる。その手から少し視線をずらすと、日菜子の豊満な胸が視界に入ってくる。あっちはもっとやわらかそうだ…と、思った途端、俺の体の下の方がピクリと反応した。俺は、邪念を振り払うように小さく首を振った。

「…じゃあ、書き始めるぜ」

日菜子が黙ってうなずくのを確認し、俺は筆の先に墨をつけた。そして、いざ書こうというところで、もうひとつ疑問が浮かんだ。「字の向きは、どっち向きがいいかな?」

「紙に書くわけじゃあないからね。腕だって上げたり下げたりするだけで、向きなんか変わっちまうだろ。字の向きなんて気にしなくったっていいよ」

「なるほどな、それじゃあ俺の書きやすい向きで書かせてもらうよ」

俺は、日菜子の手首のあたりに最初の文字を書いた。書いたばかりの瑞々しい字は、しばらくすると、上品な艶のある漆黒に変わっていった。

無意識のうちに息をとめていた俺は、「ふ~っ」と長い息をついた。

日菜子はやわらかな微笑みを浮かべながら俺の顔を見たあとで、視線を下に向けて俺が『清らかな心』で書いていることを確認した。




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