再会は静かに回る

@Yakumo_coi

第1話 見えない星をなぞる


この歳になっても星座をなぞるのを辞められない。


天井に何も見えないことは、わかっている。

それでも、オフィスの灯りを落とすと、自然と指が動いてしまう。見えない点と点を探し、空中に線を引く。あの頃のくせだ。隣で、彼女がいつもそうしていた。音もなく、透明な空に、星の気配だけを描いていた。


36歳。

会社を興して八年目、ようやく利益が安定し始めた。社員も増え、朝は予定に埋まり、夜はメールの山が残る。

だが、成功の裏側にある静寂にだけ、人は目を向けようとしない。いや、聞こえようとしない。深夜、誰もいないガラス張りのフロアで、自分が何者なのかを問い返す時間だけが、本当の現実に思えてくる。


あの日も、そうだった。

秋の夜風が強く、会食を断ってビルの外に出た。タクシー乗り場は混んでいたので、気まぐれに裏通りを歩いた。落ち葉を踏む音。ガードレールに反射する街灯。酔客の笑い声。


そして、すれ違った。

彼女だった。


盲目の彼女――若月藍。

白杖を持ち、ゆっくりと歩いていた。まるで風の音を聴いて歩幅を決めているような、そんな足取りだった。


声は、かけられなかった。

いや、声をかけた瞬間、彼女がこちらを向いた。それが不思議だった。まるで、ずっとそこにいることがわかっていたように。


「…あなた、まだ星をなぞってる?」


十年の時を隔てて、再会の言葉がそれだった。


私はうなずいた。彼女には見えないはずなのに、不思議と通じた気がした。

藍は微笑み、言った。


「そう思った。なんとなくね。星をなぞる人の気配って、消えないから」


カフェに入った。小さな、誰もいない古い店だった。

彼女はコーヒーにミルクを入れる動作が、昔と変わらなかった。まるで記憶が、物質に染み込んでいるように。


「時間ってね、進むもんだと思ってたけど…」と、彼女がぽつりと言った。

「時々、過去のほうから私を見てるような気がするの。あの頃の音、あの頃の風。そういうのが、ある場所に近づくと、ふっと目を覚ますのね」


私たちは、あの夜に戻っていた。

星が見えない空の下、彼女が指先でなぞった、名前のない星座。その形は結局、誰にもわからなかった。


「ねえ」と彼女が言った。

「もう一度、あれを教えてくれない?」


私はその言葉の意味をすぐに理解した。

星座ではない。“あれ”とは、あの夜、彼女が見えない世界の中で描こうとした、たった一つの形。


世界は変わった。でも、私たちが探しているものは、今もそこにあるのかもしれない。

点と点のあいだ。言葉と沈黙のあいだ。記憶と忘却の、境界線。


そして私はまた、宙に手を伸ばす。彼女が、隣でそっと、同じように手を上げるのを感じながら。


再会のあと、私は変わらぬ日々のなかに、微かに混ざった違和のようなものを感じ始めていた。


スケジュールは相変わらず詰まっていたし、会議の内容も、社員の誰かが辞めたことも、予想の範囲内だった。誰にも何も言われていない。ただ、夜が違っていた。


灯りを落とすたび、天井の染みが、別の形に見えるようになった。

たとえばそれが、彼女がなぞった星座の一部のように感じられたり。

あるいは、自分の記憶のなかで言葉にならなかった“欠片”が、形を取り始めていたり。


ある朝、私は無意識に、スマートフォンのカレンダーを開いては閉じる、という行為を繰り返していた。予定を詰め込んだはずのページが、空白のように見えた。そこに何かが書かれていないことが、不安というより“異常”に思えた。


その日から、昼の時間に時折、彼女に会うようになった。


「この辺の公園、音がやわらかいね」

彼女はそんなことを言う。私は気づかなかった。ビル風に乗ってくる工事音しか聞こえていなかった。


「私ね、何も見えないから、いろんなものが全部、“いま”なの」

ベンチに座って、彼女はゆっくりとした口調で言った。

「あなたは、ちゃんと“今”にいる?」


答えられなかった。

私は“今”にいない。メールの返事を未来に向けて書き、会議では失敗の予防線を張り、心の中では過去の失言を反芻してばかりいる。


「過去も未来も、目に見えるものに囲まれてると、簡単に“今”から逃げられる」

彼女の言葉は、責めるようではなかった。ただ、そこに置かれた静かな事実のようだった。


ある日、彼女がふいに言った。


「あなた、まだ“あの星座”の続きを描いてないよね」


一瞬、息が止まった。

私は、答えられなかった。

あの星座。十年前、彼女の指先と、私の指先が空中で重なりかけた、名前のない形。途中まで描いて、言葉にできなくて、手を離した。


「私ね、あれ、たぶん…ずっと待ってたんだと思う」


その声は、光のないところに咲いた花のように、脆くて、真っ直ぐだった。


夜、私は再びオフィスの灯りを消し、天井を見上げた。

染みがひとつ、別の場所に移動したように見えた。それは気のせいかもしれない。けれど私は確かに、その点から指を伸ばし、新たな線を描いた。


未来でも過去でもない、“今”のなかにある線。

それは不器用で、いびつで、どこにも載っていない星座だった。


でもそれでいい。

私は、描き始めていた。

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