7話

 曇った午後。


 光の鈍い空の下、庭の空気は重く、どこか眠たかった。私は小道を歩いていて、ふと足を止めた。


 川沿いの階段に、また彼がいた。


 黒いジャケットに白いシャツ。長めの黒髪が少し風に揺れて、手には煙草。彼はポケットから小さなマッチ箱を取り出した。細長い一本を抜き取り、乾いた音を立てて擦る。


 シュッと火花が小さく咲き、橙の火が風に揺れる。その火を、彼は煙草に寄せて、吸い込むようにして火を灯した。

 けれど、それを吸い込むでもなく、彼はただ静かに煙のようなため息を漏らした。


 私は思わず声をかけていた。


「……吸わないの?」


 彼は軽くこちらを見て、伏し目がちに笑った。


「吸うよ、気が向いたら。味もしないけどね」


「味しないの?」


「うん。香りもないし、熱もない。吸ってるつもりになるだけ。……習慣って怖いね」


 私は少し迷ってから、言葉を飲み込むように尋ねた。


「……一本、もらってもいい?」


 煙草を吸ったことなんてなかった。でも、少しでも彼を知りたくて、迷いなんてなかった。


 彼は少しだけ意外そうな顔をして、それから何も言わずに煙草を一本差し出した。


「どうやって吸えばいいの?」


「煙草、加えて。火付けたら、ゆっくり息吸って」


 彼はマッチを擦って火をつけてくれた。


 予想外の気遣いに、私は一瞬戸惑い、瞳を揺らしたが、何事もないかのように煙草を口にくわえた。


 そうすると、彼はマッチの火を煙草に近づけた。


 鼓動が高鳴る。

 彼の手に顔を寄せるのが恥ずかしかったけど、顔を逸らすこともできず、私はどこに目線を向けていいか分からずに目線だけを下に向けた。


 火花が一瞬、私たちの間でぱちりと音を立てた。

 煙草に火が移り、口内に煙が満ちる。


 たしかに味はしなかった。


 でも、本来つながることのないはずの彼と今、二人で同じことをして、同じ空気を吸って、同じ時間を共有しているという事実。


 まるで甘美な秘密のように感じて、それだけで、私には意味のある行為だった。


「……無味無臭の煙草って、吸う意味あるの?」


「それでも吸うってことは、俺もなかなかの中毒者かもね」


彼は自虐っぽく可笑しそうに呟いた。

 何気ない会話をしていても、彼にはどこか感情にブレーキをかけているようなぎこちなさがあった。


「様になってるね」


「……なにが?」


「煙草。似合ってるってこと」


一瞬、息が止まる。


「そうかな……」


 視線を上げた時には、彼はもうそっぽを向いていた。


 沈黙がゆるやかに流れる。


「あなたはこの庭にずっといるの?」


「さあね……いつからかは分からない。でも、この庭って『今』しかないから楽なんだ」


「今しかない……?」


「『過去』とか『未来』とかの概念が何も無い気がする。そういうの全部、意味が無いんだ」


彼は煙草を吸い終えると、そっと地面に落として、つま先で火を消す。その仕草まで、無駄がなかった。


「じゃあね」


そう言って、彼は背を向けた。私は、その背中を見送る。


 言うつもりなんて、なかったのに。喉の奥からせり上がった言葉が、思わず口を突いた。


「……あなた、名前は?」


 彼は少しだけ足を止めた。振り向きもせずに、短く答える。


「ジュール」


 私は何も返さず、ただその名前を、心の内で反芻した。


 —— ジュール


 その音が、煙のように静かに胸にしみ込んでいた。

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