8話

 ベンチの上に座ったラヴァンは、黒い傘を肩に立てかけ、ノートを膝に広げていた。

 陽が射していても、彼はいつも傘を手放さない。


「今日は書けそう?」


 私が隣に腰を下ろすと、彼は小さく笑って煙草をくわえた。


「詩ってのはな、構えたら逃げる。意気込んで迎えた女客に、真顔で“帰るわ”って言われるようなもんさ」


 私は吹き出しかけたけど、なんとか笑いを堪えた。


「でも、書くでしょ。いつも」


「ま、習慣ってやつだよ。意味はなくても続けてるだけ。……歯磨きと同じさ」


 ラヴァンは煙草の灰を払うと、視線を遠くに投げた。


 そのときだった。

 遠くから、風鈴みたいな軽やかな鈴の音がチリンチリンと近づいてきた。

 私は振り返り、その音の主を目で追った。

 並木道の向こうから、古びた冷凍ケースを押して歩くオーバーオールの青年がやってきた。色褪せた水色のパラソルが、ゆらゆらと揺れている。


「……あの人、誰?」


「アイスクリーム屋さ。庭の陽だまり担当ってとこだな」


「売ってるの?」


「いや、配ってる。タダでね。この庭じゃ金は意味を持たない。欲しい物は、欲しいと願えば大体手に入る。……ただし、本当に欲しいものは、少し勝手が違うけどな」


 青年は、まっすぐこちらにやってきて、私たちの前でにこっと笑った。


「こんにちはー。アイス、いかがですか?」


「何味があるの?」


「今日は……寂しがり屋のぶどう、雨あがりのバニラ、それから記憶の桃!」


「……じゃあ、記憶の桃で」


「私はバニラ。雨にはちょっとした思い出があるんだ」


 ラヴァンは少しだけ寂しそうに目を細めてアイスを受け取った。


「ありがとう」


「どういたしまして! またねー!」


 青年はまた笑顔を残して去っていった。

 背中に揺れるパラソルだけが、いつまでも視界に残っていた。


 年齢はよく分からない。十代にも二十代にも見えるけれど、子どもっぽくも、大人びてもいない。

 あまりに無垢で、あまりに朗らかすぎる。

 この世界で傷つくことを知らないような顔をして、ただアイスを配っている。

 正直、明るすぎてどこか不気味だと思った。


「……あんなに明るい人、この庭にしては珍しいね」


「だろう? 無償で何かを与えられる奴ってのはな、人間を超えてるか、どこかぶっ壊れてるかのどっちかだよ」


 ラヴァンはそう言って、アイスの蓋を指先でくるくる回した。


「この庭に来る奴らは、大体、自分の“欠けたところ”を埋めたがってる。花を植えたり、誰かにしがみついたり、自分で自分を騙したり」


「でも、あいつ……ジュールはそうじゃない。

 欠けたままで立ってる。埋めようとしない。誰にも埋めさせない」


 私は、思わずジュールの姿を思い出していた。

 サラサラと靡く黒髪、遠くを見ているような眼差し、気怠げに吐き出された煙草の煙、どこかもの悲しい翡翠のような瞳。


「……あの静かさ、ただの静かさじゃないんだよ。音を立てたら、何かが壊れそうで、黙ってる――そんな感じだ」


 ラヴァンは煙草に火をつけると、一息吐いて私を見た。


「……少し、懐かしいと思った」


 そう言って彼は肩をすくめ、風に揺れる詩のノートをぱらりとめくった。次のページには、まだ何も書かれていなかった。

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