6話
夜の庭に星はなく、月だけがやけに明るかった。
まるでどこかの劇場のように、広場の石畳の中央だけが、スポットライトのように照らされていた。
そしてその光の中に、彼女はいた。
リリィは噴水の縁に腰をかけ、脚を組んでいた。
真っ赤な口紅の隙間から、白い歯がこぼれる。
青いラメのアイシャドウが、月明かりで鈍く光っていた。裾のほつれたドレスの隙間からのぞく脚には、紫がかった痣がいくつも散っていた。
まるで、それも『装い』の一部かのように。
彼女は、誇らしげに胸を張っていた。
通りすがる男に向かって、わざとらしく唇を突き出して、楽しそうに言った。
「ねぇ、アンタ。ちょっとだけ夢、見ていかない?」
男は一瞬だけ笑って、首を横に振るとそのまま去っていった。
「ちぇっ、またハズレ〜。みんな賢ぶっちゃって、退屈ねぇ」
そう言って、リリィは両手を頭の後ろに組んで、石畳の階段に腰掛けた。
スカートの裾がめくれても、組まれた脚の隙間から下着が見えても、彼女は一切気にしていなかった。——というより、それすら計算に入れているような気がした。
私は石段の影から、じっとその様子を見ていた。
すると、目が合ったわけでもないのに、彼女は突然こちらを見て、にっこりと笑った。
「ねぇ、そこの可愛い子ちゃん。見てたでしょ」
私はびくりとした。
「べつに、見てたわけじゃ……」
「はいはい、女ってのは『見てないふり』が得意だもんね〜。アタシもよくやるから分かるわよ」
彼女は立ち上がると、ヒールの音を響かせながら近づいてきた。月明かりの中を歩いてくるその姿は、どこか舞台のヒロインみたいだった。
「リリィっての。前に言ったっけ? まあいいわ、覚えてないでしょ?」
私は曖昧に微笑んだ。でも、本当は彼女のことは覚えていた。派手なドレスと赤い口紅が、この庭ではあまりにも目立っていたからだ。
「アンタ、面白い顔してるね。アタシほど綺麗じゃないけど……目が生きてる」
「……どういう意味?」
「どうでもよさそうなふりして、渇望した目。アタシ、そういう目に弱いのよね」
リリィは指先で私の頬に触れようとして、
いたずらっぽく笑って、ひっこめた。
「アンタ、ここに来てから誰か抱いた? 抱かれた?」
「まさか、そんなのあるわけ……」
「うっそ〜!随分と退屈してるみたいじゃない」
リリィは笑いながら、また噴水の縁に戻った。
「アタシはね、この庭に来てから何人も抱いたわよ。愛なんか求めてない。ただ、アタシが『ここに居る』って証拠がほしいの」
そう言って、彼女は自分の胸に手をあてる。
「身体が覚えてるって、素敵なことよ。ほら、喉元に残った噛み跡とか、手首に残る掴まれた指の感触とか……そういうのって、朝になってもうっすら残ってるとゾクッとするのよ。あぁ、アタシ、確かに抱かれたんだって。名前も顔も忘れていいの。身体だけは覚えててくれるから」
私は視線を落とした。恥ずかしい、というより、何て返していいか分からなかった。
「アタシが抱いてきた男たち―お金なんて、ここにはないでしょ?じゃあ、アタシは何をもらってると思う?」
私は黙ったまま、リリィの横顔を見つめていた。
「『時間』よ。一晩っていう時間を、まるごとアタシのために使ってくれる。それって、たぶんこの庭じゃいちばん貴重なもの」
「……それだけで、満たされるの?」
「まさか!でもね、その時だけ満たされればいいの。アタシ、そういう風にできてるの」
リリィは笑いながら言った。けれどその笑みの奥に、どこか冷めきった何かが見えた。
「人の気持ちなんて、あっという間に変わるし、約束とか未来とか、アタシは信用してない。アテになんないでしょ、そういうの」
彼女は膝を抱えて、ひらりと靴を脱いだ。石畳に触れた素足の感覚を確かめるように、ゆっくり指を動かす。
「アタシが信じられるのは、今だけ。肌の熱とか、汗の匂いとか、脈打つ瞬間とか、生まれた熱を全身で感じるの……」
「……怖くないの? そんな生き方」
リリィはしばらく黙っていたけど、やがてぽつりと言った。
「……明日を信じる女になるよりも、今を食いちぎってるアタシの方が、きっと、生きてるって気がするの」
私はそれを聞いても、何も返せなかった。きっと、どんな言葉も、彼女には通じない気がした。
あてのない不安を抱えて一人燻っている私には、何者にも囚われない刹那的な彼女の生き方が強く眩しく思えた。
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