女の火傷
倉井繊
女の火傷
屋上は開かれた室内である。見られることを前提にしないその場こそ、他者と顔も知らない住人が交わりうる唯一の 場所なのだろう。
地に足をつけて歩くことしかできない私は、屋上を眺めることを断念して散歩をしながらアパートの窓辺に目を向けた。道に面した建物の窓際にはあざとさを感じざるを得ないが、それでもベランダに干された色とりどりの洗濯物や、鉢に植えられたバンジーなどからは人間性があふれ出している。多様な生の引き出しに目を奪われながらも、私は足を止めることなく歩き続ける。私に必要なのは絵画を鑑賞するような凝視でも、科学者のような観察でもない。一瞬の陶酔、それによって窓辺の事物は主人の手を離れ、私の想像の始点となる。住人の年齢、地位、その表情、生活が無限に広がって、そして緩やかに消えていく。他者の人生を追体験しながら私は目的地に向かう。散歩とは本来歩行を手段から解放するためになされるが、今日はそれを破らなくてはならない。
目的地の喫茶店に着いたのはアパートを通り過ぎてから十分ほど経った頃だ。細い通りの一角にあるその店は外から見ると薄暗い。入り口にかけられた「営業中」の札が、ささやかにその存在を主張している。
店内に入り、席に座るとコーヒーを注文する。コーヒーを啜りながら、私は目の前にある木製の机に刻まれた傷に思いを巡らす。特に通路側右端、平行に刻まれた三本の傷は考察する甲斐がある。勉強に疲れた受験生がペンで八つ当たりしたか、猫がふとした拍子にひっかいたか、はたまたスパイが何かしらの暗号に用いたのかもしれない。この席に座った人々の辿れない歴史を机の痕跡を媒介に覗こうとする行為は、一種の文献学と言えるかもしれない。
そう思案していると、背後の入り口が音を立てて開いた。入店してきた女性は最奥窓際のボックス席に座ると、何かを注文してカバーの付いた文庫本を読み始めた。二十代前半、黒髪を肩上でそろえて長袖の白いブラウスを羽織っている彼女は、右手には古い火傷の痕が残っている。
私はここ二ヶ月ほど、彼女を眺めるために店に通っている。彼女は毎週土曜、午前十時から一時間ほど滞在する。この一時間、それは私が彼女と交われる至福の時間だ。交わる、と言っても彼女と会話を交わしたことは一度もないし、そもそも彼女は私の存在を気に留めたこともないだろう。私は彼女の右手の火傷痕から、ひそかに、静寂の中で、交流する。
なめらかな肌は私の侵入を妨げ許さない。しかし彼女の爛れた皮膚は私をその内奥へといざなう。私は長袖に隠れたその痕跡の続きをイメージする。灰色は白磁の肌を飲み込み、肘――肩――乳房を辿る。ページをめくるその腕の表面が引きつられて、彼女の脳髄に軽い刺激を与えている。彼女はその微細な感覚故に過去から解かれることはないだろう。私はその過去に潜り、彼女の家が焼けるさま、熱された油にかかるさま、車の事故に巻き込まれるさま、様々な焼かれる瞬間を思い描く。彼女が叫び、悶え苦しむ場面を何度も頭の中で反芻する。可能性の反復の中で私は彼女に迫る。土の湿り気に昨日の雨を知り、壁の弾痕でその場の戦いを知るように、私は彼女の火傷から、彼女自身を知っていく。
彼女は常に長袖を着るが、手袋をつけて店に来たことはない。毎日手袋をつけることは恣意的すぎるし、半袖を着ることも同様に強力なメッセージ性を持つ。痕跡の方向性を極力消すためには、中庸であらねばならない。しかし中庸であり続けることは奇妙さを立ち上がらせる。傷はどうやってもその存在を主張し、内部を外部に放ち、外部を内部に招く。閉じられた存在になれない彼女たちは、常にその人生を露出させている。
私はいつの間にか目を閉じて、交流の陶酔に身を任せていた。だからだろうか、ラベンダーの香りがするまで、彼女が私の向かいに座ったことに気づかなかった。
「火傷、見せてあげようか」
私は現実に引き戻された。彼女は私を見つめながら、右手を開いて前に出す。手のひらに刻まれた火傷痕が眼前に迫った。
「何をおっしゃっているのか、さっぱり」
「いつも右手を見てるの、分かってるよ。傷には必ず目が潜む、あなたは知らなかったみたいだけど」
胃が浮かび上がるような焦燥感が込み上げてきた。一刻も早くこの場から去るべきだと、脳は警鐘を鳴らしている。しかし瞳はその痛々しい痕跡に引き寄せられる。
「ここで私が袖をめくって、この傷についてのエピソードトーク一つでもしたら、あなたの心は晴れるのかな」
彼女はそう言って右手を自分の胸の前にかざすと、左手で袖を引っ張り始めた。
「やめてくれ」
思わず口をついた言葉で、その手は手首下三センチ程で止まった。
「そう。臆病な人」
彼女は一言つぶやいてから席を立つと、会計を済ませ去っていった。
彼女が店に来なくなって三ヶ月が経った。相変わらず私は店に通い、彼女の幻影を追い求めている。客の少ない店だからか、彼女の居た最奥のボックス席は常に空席だった。そのおかげで、私の妄想を妨げるものは何もなかった。
静寂の中で紙をめくる音が聞こえる。本を読む彼女の彫刻じみた姿は時を凝固させている。窓から差し込む光は、ページの中身と彼女の右手を緩やかに焦がす。焼けたタンパク質の香りとコーヒーの香りが混ざり合った芳醇なハーモニーに一瞬、歪みが生じた。
気づくと私はトイレで吐いていた。胃酸が喉を焼いても今だに、鼻の奥にラベンダーがまとわりついている。彼女のざらついたテクスチャーが目蓋の裏に迫る。
胃を空にしてトイレを出ると、私の席に火傷の女が座っていた。
「袖の下を見る覚悟はできた?」
彼女は気楽な調子で聞いてきた。再度催す吐き気を押し殺して、私は彼女の前に座り直した。
「来週まで待ってくれ。覚悟はできたが、準備が要る」
「手を見るのに準備?」
「私には必要なんだ。見せてもらう立場で申し訳ないが」
退屈げな目が私を見る。それから逃げるように、空の胃にコーヒーを流し込んだ。
「君の家、屋上はあるのか」
「あるけど、そこで見たいの?」
「そうだ。いきなり女性の家に上がらせてくれというのは不躾な話だとは思うが……」
彼女は無言で卓上に備え付けられたペーパーナプキンを一枚取ると、鞄から取り出したペンで住所を書いてこちらに差し出した。彼女が左利きであることに気がついて、眩暈がした。
「今更常識人面しても遅いし、似合わないよ」
そう言って彼女は店を出た。日時の確認は必要なかった。
その日が来た。彼女が住んでいる四階建てのアパートのベランダは、クリーム色のモルタル壁に阻まれてよくその内側が見えない。薄暗いコンクリートの階段を上り、四◯五号室のチャイムを鳴らした。
「はい、鍵は空いてるから入っていいよ」
ひび割れた音声がインターホンから響く。
「必要なのは家の中じゃないんだ、このまま屋上に行こう」
「忙しない、お茶でも飲めば良いのに」
インターホンは切れた。私はドアから距離を取り、廊下の柵に体を預け、目を瞑って待っていた。十五秒ほど経つと扉が軋む音が聞こえた。その扉が閉められて、鍵がかけられる音が耳に入って初めて目を開けた。
「屋上の鍵は?」
「管理人ザルだから、屋上はいつもフリーなの」
彼女の先導に従って屋上へ向かう。階段を上がり、重い鉄の扉が開け放つ。そこには灰色のベールに覆われ均質な光を放つ空と、それを受け止めるコンクリートが広がっている。屋上には給水設備や避雷針を除いて何もなかった。
「屋上を普段使うことは?」
「ないよ。そもそも立ち入り禁止だし」
私は屋上の端から周囲を窺った。そこから見える建物の屋上はどれも空っぽで、洋服や植木鉢で装飾された壁と対照的だった。
「殺風景だよね、ここら辺集合住宅ばかりだから」
「そうだな」
風景を背後にして振り返った。彼女の姿が見えて初めて、私のやらなければならないことを思い出した。
「怖がりさん、準備はもういい?」
「ああ、頼む」
右腕が大気に晒された。手首から下は、なめらかな肌しか存在しなかった。火傷の痕はかけらもなかった。その時、私が所有していた彼女のあらゆる過去がその右腕に集約されていくのを感じた。彼女の火傷は私と乖離し、彼女自身の傷となった。その傷は私を見つめていたが、私は彼女の瞳を見た。その時初めて彼女と向き合えた気がした。
「満足できた?」
「ありがとう。十分だ」
彼女は袖を下ろした。あとは私がなすべきことをなさねばならない。
鞄からペットボトルを取り出すと、中身の橙色をした液体を自分の右腕へ振りかけた。
「何、してるの」
「必要なことだ、私のような存在にとって」
周囲には気化した臭いが充満する。彼女はその臭いに顔を顰め、私から距離をとった。
「君の役割は私が継ぐ。その火傷の瞳を閉じる時が来たんだ」
「意味のわからないことを言わないで。それに私、そんなことのために右腕をあなたに晒したわけじゃない」
彼女と視線を交錯させる。他者の視線を右手に宿すことに慣れていた彼女は、瞳の交差を知らなかった。彼女は私から目線を逸らした。
「これは私のために必要なことなんだ。これでやっと世界と馴染める」
私は鞄からマッチを取り出し彼女の足元に投げやった。
「最後の頼みだ。今ここで、私の右腕を焼いてくれ」
「何で自分で、焼かないの?」
この答えで彼女の行動が決まると分かった。少なくともその行為が、傷による共同体を作る行いでないことだけは確かだった。
「閉じられた物語はもう飽き飽きなんだ」
彼女は小さいため息を吐いてマッチを擦ると、そっと私の右腕に火をつけた。
その日、街には私の狼煙が上がった。街はやっと屋上に目を向けてくれた。
女の火傷 倉井繊 @kuraisen
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます