第21話 壁の向こう側

 石室の空気は、ますます濃密に淀んでいた。

 壁際にはすでに幾十人というショーン博士が折り重なり、恍惚の表情に歓喜の声、これまた異様な光景を作り上げている。数を数えるのも無意味なほど、その姿は増殖し続けていた。百人はとうに超えている。


「ホウリャッ!」

 源八の掛け声が、石室に鋭く響き渡る。

 そのたびに、博士の一体が掴まれ、穴へと放り込まれていく。落下の音はやがて聞き取れなくなり、ただ底なしの闇が口を開けているかのようだった。


 私は嫌な予感に囚われていた。

 宇佐美のときもそうだった。あのときは無限に宇佐美が増えるのではないかと思った。だが最終的に「モダン」を手にして帰還し、寺の境内で心身異常に陥り横たわることとなった。

 博士も同じ轍を踏むのではないか。帰還は叶うかもしれないが、正常で済む保証はない。過去の記録では、そのまま命を落とした者もいた。


「まだまだ掛かるか……」

 源八が低く呟いた。声に疲労と焦燥が滲む。

 佐藤が呼びかける。「源八!」

 だが返事はない。必死のあまり、耳に届いていないのだろう。


「やはり返事してくれないな……」

 佐藤は自嘲めいた声を漏らした。


 石室の内部に滞在すれば、外界の時間は歪む。こちらが一刻過ごす間に、外では日が暮れ、季節さえ変わるかもしれない。諦めるべきか……。

 だが私には、確かめねばならないことがある。


「今から壁を触る。異常事態の際は、穴に飛び込んで帰還してくれ。源八が必ず戻してくれるはずだ」

 私は佐藤と設楽にそう告げると、決意を固めて壁へ歩み寄った。


 冷たくざらついた岩壁。掌を押し当てた瞬間、視界が大きく揺らぎ、意識は暗闇に呑まれていった……。


 ◇


 真昼の太陽が街を照りつけていた。

 気がつけば、私は膝を抱えたまま舗道に座り込んでいた。

 目の前にそびえるのは出版社のビル。だが街並みがどこか違う。ガラスの色、看板の字体、通り過ぎる車。すべてが微妙に新しく、見慣れぬ。


 立ち上がり、編集部のある階へ向かう。

 ドアを開けた瞬間、私は息を呑んだ。そこには知らない顔ばかりが並んでいたのだ。

 ただ一人、見知った背中があった。

 だがその人物、かつての編集長はすっかり禿げ上がり、老け込み、別のデスクに身を沈めていた。私に気づく様子もない。

 カレンダーに目をやると、これもまた見知らぬ年号があった。

 “令和七年"


 ……これはタイムトラベルか?それとも浦島太郎状態なのか?

 私は未来に“帰還“してしまったのだろうか?

 平成十五年の元の時代には戻れるのだろうか?

 博士も佐藤も、すぐにあそこに戻っていた。

 だが戻れる保証はどこにもない。

 この時代が私の居場所になってしまうのか?


 胸に重い鉛が沈む。途方に暮れ、ビルを出た。


 やがて夕暮れの港。

 黄昏の光が水面に砕け、波間に黄金の破片を散らしている。

 「だが、どこにも居場所はない」と思った。街も、職場も、過ぎ去った時間に置き去りにされたままの私には。


 風が静かに吹く。

 余韻に浸るように、私はただ港を眺めていた。


 そのとき、背後から声がした。


「渡辺さん!」


 耳に届いた瞬間、全身が震えた。


 振り返ると、息を切らしながら駆けてくる女性の姿があった。


 マチコ。


「二十二年も戻らないなんて酷すぎます!」


 二十二年が経過しているならば、この声は二十二年ぶりに聞く呼び声という事か。


 十八歳の少女だった彼女は、今や四十歳。

 面影はそのままに、歳月の重みをその眼差しに宿していた。強く、揺るぎなく、私を待ち続けてきた意志の光がそこにあった。


 私は三十歳のまま。

 時の流れは二人のあいだで非対称に裂け、重ねられぬ年月が横たわっている。


 たかだか12歳の差なんて、大した問題じゃなかったんだな。

 

 夕陽がハーバーライトに変わる刻。

 カモメが舞い上がり、港に響くその羽音が時の裂け目を縫い合わせるように思えた。


 マチコは微笑んだ。

 そして静かに言った。


「あなたは一人で生きられないものね」


 その言葉に、胸の奥で時が再び動き出した気がした。

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