第20話 ショーン博士

 寺の境内に、また私たちは立っていた。何度目になるだろうか。夕刻の空気はひんやりとして、石畳の隙間からは湿った土の匂いが立ちのぼる。鐘楼から微かな金属音が響いては、風に溶けていく。秋の乾いた風に混じって、どこか焦げたような匂いが漂い、私はその理由を探そうとして諦めた。ここは常識が通じない場所だ。理由を求める方が間違っているのかもしれない。


 戻らぬショーン博士の安否を確かめる必要があった。まだ石室にいるのか、それとも……。博士だけが帰ってこない理由を、私たちはどうしても確かめねばならなかった。


「宇佐美のときと同じだ……博士もまた、壁を穿った。もしや」

 佐藤の言葉が境内の石畳に落ち、誰も続きを言えないまま、沈黙が広がった。蝉の声すら途絶え、時間が閉ざされたかのようだった。


 その沈黙を破ったのは設楽だった。落ち着いた口調で、それでいて決意を帯びている。

「私は既に付き添いではなく、当事者です。私たちは再度、石室に行くしかありません。行きましょう。渡辺さん、佐藤さん」


 彼女の言葉に私は頷いた。博士の行方を確かめるためには、それしかない。石室の壁に触れれば何かが見える。真実の断片が、そこに刻まれているのだ。源八と思われる大男は「お前らは概念を理解できない」と突き放した。だが、それでも理解に近づきたい。私も知りたいのだ。源八とは何者か。なぜあの石室に居座るのか。


 石室は異質な場所であり、常識をこね固めただけの頭では到底到達できない領域に属しているのだろう。だからこそ私は壁に触れてみたいと思った。私には何が見えるのだろうか。


 佐藤、設楽、そして私の三人は旧日方邸の奥に再び足を踏み入れた。博士の一大事だというのに、なぜか心が逸っていた。不謹慎だと自覚しながらも、胸の鼓動は抑えられなかった。


 やがて一同は石室に着いた。重苦しい静寂が漂う中、私は壁にそっと触れた。壊さぬように慎重に、指先を滑らせる。石はひどく冷たく、しかしどこか生き物めいた鼓動を宿しているようにも思えた。


 その時、奥から声が響いた。

「ホウリャ!ホウリャ!……」


 大男、源八の掛け声だ。目を凝らすと、穴のそばに巨漢が立っていた。そして、その手で何度も何度も突き落とされている人物がいる。


「博士……!」


 そこにいたのは紛れもなくショーン博士だった。だがその様子は常軌を逸していた。彼は何度も現れては穴へ突き落とされ、そのたびに歓喜の声を上げているのだ。


「アメーイジング!」

「ワンダホー!」

「サイコウデース!」

「コレハたいむとらべるデスカー!」

「モットクダサーイ!」


 恍惚の表情を浮かべる博士は、時に無邪気な子供のような顔を見せていた。宇佐美が突き落とされたときには悲鳴しかなかった。だが博士は違う。彼は何かを理解し、むしろ歓喜しているかのようだった。


 佐藤が前に出る。

「源八さん、博士は帰還できないのですか?」


 しかし問いかけを遮るように、源八が吠えた。

「うるさい!話しかけるな!お前らは邪魔ばかりしやがる!」


 博士は次々と出現し、次々と突き落とされる。やがて石室の床が博士だらけになり、異様な空間を作り上げてゆく。


「見ろ!処理が追いつかねえから部屋が埋まっちまう!」


 源八の声は苛立ちと焦燥に満ちていた。博士の数は加速度的に増え、壁の隙間や床の影からも姿を現している。まるで石室そのものが博士を生成しているようだった。


「ホウリャ!ホウリャ!」

 源八は必死に穴へと博士を突き落としていく。だが追いつかない。博士たちは歓喜の声を上げながら、あふれかえっていく。


 私は背筋に冷たいものを感じた。このまま博士が増え続ければ、石室はどうなるのか。キャパシティを超えた石室は、博士を呑み込んで壊れるのか。それとも博士そのものが壊れてしまうのか。仮に石室が崩壊した場合、“記録”は失われてしまうのか。


 佐藤が震える声で言った。

「まるで……宇佐美のときと同じだ。いや、それ以上だ。博士は……壁を穿った。もしや、これが……」


 彼の言葉が石室に残響し、私たちは答えのない不安を胸に刻み込むしかなかった。

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