第19話 先の時代とは

 石段を上りきった境内には、既に皆が戻っていた。夜の帳が降り、灯籠の火だけが揺らめく。設楽は人影を数えて、ひとり足りないことに気づいた。

「博士は?」

 誰も答えない。風が竹林を揺らし、さらさらと音を立てた。


 〈先の時代に帰還させた〉


 その一文が意味するものを、設楽は反芻する。帰還、という言葉。だが“先の時代”とはどこを指すのか。住民が帰還したのは未来なのか、過去なのか。


「……実に曖昧だ」

 設楽は低く呟いた。


 今度はショーン博士だ。未来に押し出されたのなら、この時代に博士は現れない。だから誰も見つけられない。だが過去に送られたなら、すでに歴史の一部として沈んでいる可能性もある。名もなき人物の影に紛れ、語られることのない存在として。


 彼は思考を続ける。帰還という行為そのものに、矛盾が潜んでいるのではないか。帰るのではなく、ずらされる。戻るのでなく、押し流される。そう考えれば、“先の時代”という曖昧な言い回しも、むしろ意図的なものだと納得できた。


「未来か、過去か……あるいはそのどちらでもあるのかもしれない」


 境内に漂う沈黙は、ただ博士の不在を告げていた。


 ◇


 博士の姿はどこにもない。私たちはそれを前提として議論を進めざるを得なかった。


 設楽は、いつも通り冷静に思考を巡らせていた。彼女は博士の最後の行動“壁を指で穿ったこと”に注目していた。

「石室の壁は、記録庫だと考えられます。触れることは記録を閲覧する行為。でも……博士は壊してしまった。記録の流れを途切れさせたのです」

 彼女は言葉を選びながら、ゆっくりと説明した。


 私はその論理に思わず息を呑んだ。博士自身の研究に「連続しない記憶は忘却される」という仮説があった。もし石室が「記録」であり、帰還が「記録の再生」に相当するのなら、記録を壊した博士は、その再生から外れてしまったのではないか。


 佐藤が苛立ちを隠さずに口を挟んだ。

「じゃあ、博士はもう戻れないってことか? あの人が見たという“オリビア教祖”の姿も、無意味に終わるのか?」

 彼の声には怒りと焦りが混ざっていた。オリビア教祖の名が出た時から、佐藤はどこか神経を逆撫でされていたのだ。だが設楽の説明は彼の反発を受け止めつつ、崩れることがなかった。


「無意味とは申しません。ただ……博士は“記録の外”に押し出されたのだと考えます。連続性が失われれば、そこに再生はありません」


 私はメモをめくり、走り書きを読み返した。

〈博士 壁を掘る〉

 それが最後の行為だった。事実は確かにそこにある。


 思考の端で、源八の言葉が響いた。

〈先の時代に帰還させた〉

 あれは行方不明者の説明だったが、博士にも当てはまるのではないか。つまり博士は、「先の時代」へ押し流されたのかもしれない。未来か、あるいは過去か、それとも我々には届かない時間の狭間か……


「設楽さん、つまり……博士はどこにいるんです?」

 私の問いに、彼女は少しの沈黙を置いて答えた。


「博士は……“連続しない記憶”の中にいるのかもしれません」


 その言葉は丁寧で、しかし残酷だった。佐藤は顔をしかめ、私はペン先を震わせながら紙に文字を刻んだ。どんなに書き残そうとしても、博士の姿はどこにもない。


 境内に重い沈黙が落ちた。石室で得たはずの情報はあまりに多く、それでも最も肝心なもの、博士の不在。

 設楽はただそれを胸の内で反芻していた。

 壁を穿るいう行為が、記憶の流れを断ち切る行為だとすれば……博士は何を失ったのか。


 その思考を断ち切るように、佐藤が口を開いた。


「宇佐美のときと同じだ……博士もまた、壁を穿った。もしや」

 誰もその続きを言えぬまま、境内の石畳に沈黙が落ちた。

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